子孫に因果応報?
こんにちは。
仏教を勉強するうちに今まで誤解していた色々なことが明らかになって、例えば、今は無我もちょっとだけ納得できるようになりました。だいぶ落ち着いてきたのですが、実は因果応報について気になっていることがあるんです。よかったら、お暇な時に教えてください。
因果応報とは、良い事も悪い事も自分がやった事の結果が出て来るということなのですね。親や祖父祖母、そのまた上のご先祖様の代の因縁を自分が背負うなどということはあるのでしょうか。
借金など明らかなものではなくて、例えば何代も前の先祖の行いが悪くて人を泣かせていたから今度は子孫が泣かされるめぐり合わせになるとかそういうことです。そういうのは何代も前になれば事実関係を確かめられなくなっていきますし、気にしないで自分がしっかりしていれば大丈夫だ!と思うようにしてはいるけれど....でも、いかにも血のつながりで受け継がれていきそうな気がしないでもないんですよね。お坊さんのような人で先祖の因縁の話をする人がいたので、今でも時々ちょっと気になります。
因縁が受け継がれて子孫に因果応報が出て来るということはあるのでしょうか。
追伸
因縁を断ち切るお祓い数十万円とかいきなり言われたらさすがに怪しいと思うのですが、仏教の話もちょこちょこ入ってくるともっともらしく見えたりもするから....人の心って、もう大丈夫だと一度は思ったつもりでも迷ったりする頼りにならないものですね。自分で自分のあやふやさに笑ってしまいました。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
ハイ、論破
他人(ひと)の邪曲(よこしま)を
観(み)るなかれ
他人(ひと)のこれを作(な)し
かれの何を作(な)さざるを
観るなかれ
ただおのれの
何を作(な)し
何を作(な)さざりしを
想(おも)うべし
(『発句経』第50偈、友松円諦訳)
これが仏教です。
この他人は親兄弟さえも込みです。
まして顔も知らない先祖の行いならなおさらです。
『むしろ気にすべきではありません。』
①因果論はお釈迦さまが生まれる前からインドのあたりに根付いていました。「身分の高い我々は前世までの行いが良かったから上流階級に生まれた。お前ら奴隷は前世までの行いが悪かったから卑しい身分に生まれた。せいぜい来世以降でマシなところに生まれかわるよう、真面目に奴隷頑張るんだな。」というヴァルナ(カースト制度)の論拠だったのです。
②それに対して「違うでしょ!大切なのは過去世じゃなくて今を誠実に生きることでしょ!」「前世とか来世とかそういう発想って不毛だから止めなさいよ。」と説いたのがお釈迦さまです。
https://hasunoha.jp/questions/23828
③ところがヴァルナ支持派のバラモン教(後のヒンドゥー教)やジャイナ教の勢力は大きくなる一方で、お釈迦さまの死後、次第に仏教はジリ貧になってしまいます。そこでインド仏教はバラモン教やジャイナ教等と神仏習合し、因果論や呪術的要素を前面に出すようになっていきます。
どのくらいジリ貧かと言うと、結局それでもインド仏教壊滅は避けられず、今になって日本人の佐々井秀嶺(ささいしゅうれい)老師がリーダーとなって復興しているほどです。
④こうして見ていくと分かりますが、インド圏の因果論は『過去世の自分の行い⇆現世の自分の行い⇆未来世の自分の行い』であって、先祖は関係ないんですよ。大忍貫道師がおっしゃっているように自業自得なんです。ぶっちゃけ悪徳商売と言っていいと私は思いますよ。そもそも断つべき因縁が成立しないんですから。
それ以上にもっと悪徳である理由があります。他人を悪者(悪の原因)と見なす心を助長しているがゆえに悪徳です。そんなものが仏教であってはなりません。ご先祖さまは『私の善行を受けていただく対象』です。それでこそ慈悲が育まれます。そう思って冒頭のお釈迦さまの言葉を読み直してみて下さい。
ハイ、論破。もう大丈夫ですね。
わかりませーん!泣
これ、めちゃくちゃややこしい問題だと思います(;^ω^)
正直私の学識ではお答えできる様な内容ではありませんが…因果応報、つまりは縁起の問題になってくると思います。
仏教の基本中の基本でありながら、釈尊のお悟りそのものともされる縁起。学者さんの間でも議論がありますし、初期経典からも釈尊が説いた縁起の内容とはコレだ!とズバリ確定することはおそらく不可能なのではないでしょうか。
さて、おたずねの因果応報で先祖や子孫がー!というのは三世両重の因果説というものですね。ここhasunohaでもお辛い境遇のご質問者さんに先祖の因縁が…という論調でご回答なさる方もチラホラとお見受けしますが、私は口が裂けてもそんなことは言えません。
だってわかりませんものね。
その説にのっとって言うならば中途半端に言うのでなく相当な覚悟をもって教義や解釈を説明する必要があると思います。
私にわかるのはこれです
>もう大丈夫だと一度は思ったつもりでも迷ったりする頼りにならないものですね。
もうおっしゃる通りです。ズバリこれです。
今、私が迷っているということです。
そしてその迷いは先祖がどうのこうのという話ではなく「無始以来」、つまり、始まりもわからないほどの迷いが今ここに私となっているということ。
そして私はその迷いに仏教の教えによって気づかせていただいたということ。
これだけです。迷いを迷いとも知らず迷ってきた私が仏教によって迷いに気づかせてもらったのです。
原因には結果がある。今という結果には必ず原因はある。でもその原因の全部はわからん!わかろうとするのも迷いを深めることですし、分かった気になって先祖がー!とか言い出すのも迷い中の迷いだと私は思います。
信仰としてはそのようなところでしょうか。
もちろん教義・学説としては学者さん方に研究・議論していただいて、その成果は私もいち僧侶としてきちんと学んでいきたいと思います。
※なお、血の繋がりで因縁(業)が受け継がれるという考え方は実体論的ですし、兄弟姉妹で人生が全然違うなんてことはザラですからそこは否定できるでしょう。
過去から現在まで全て繋がっていますから、先祖の悪業が今に何らかの悪い影響を与えている事もあるかもしれません。
また反対に、先祖の善業が今に何らかの善い影響を与えている事もあるかもしれません。
しかし仏様ではない私達にはそれを知ることはできないのです。
ですから、気にしない方がいいのですよ。
むしろ気にしなければならない事はこれからのことです。
それは、あなたが何をするかです。
あなたが悪業を行えば、子孫に悪い影響を与えるかもしれません。あなたが善業を行えば、子孫に善い影響を与えるでしょう。
ですから、あなた自身がなるべく悪い事をしないように、なるべく善い事をするように生きていくことが大切なのですよ。
親の因果が子に報うの出典は仏典ではない
読ませていただきました。
そもそも親の因果が子に報うの出典は江戸後期、曲亭馬琴(きょくていばきん)の旬殿実実記(しゅんでんじつじつき)であることに留意する必要があるでしょう。宿業論も部落差別を
生んだ悲しい歴史がありますし、女人(にょにん)についても、女性差別が過去の仏教には
ありました。先の大戦では戦時教学などというものさえありました。過去には間違って
説かれた仏教もあったということで、それを反省し、断ち切ることは大事なことです。
質問者からのお礼
教えてくださった先生方に言いたいことを書くとすごい長文になってしまうので、何回かに分けて投稿しますね。読みづらくてすみません。
大慈先生、頭の片隅にずっと引っかかっていた思想をはっきり論破してくださってありがとうございます。
発句経の文章を何度も読み返してみて、すっきりしました。自分に身に覚えのない前世(私は過去の血縁者かと思っていた)の業のせいという考えは釈尊の誕生前からあったのですね。しかも、もともとブッダの教えではない、というかむしろ反対の考えだったということ。それならもう気にすることはありません。お坊さんらしき人(ハスノハではありません)に仏教の話に混ぜて因果論を話されるとそれらしく思えてきて、考え込んだこともあったけれど、もう大丈夫です。
(ある日ふと少しだけ無我に納得できた気がします)
図解ブッダの教えの128~129ページの因縁生起を読んでいて、みんな一つ一つが要素になって世界が成り立っているなら、私という存在を区切るのはちょっと無理かもしれないな....と思うことができました。悟りを開くとかそんなことはできなかったけれど、今まで自分というものがはっきりしなくなって無我になるとか全く納得できなかったのが、少なくとも、あ、そうかも....と想像できるようになれてよかったです。
貫道先生、ありがとうございます。
親の因果が子に報い、そうです、この言い方忘れてしまっていたのですがこの考えです。確かめようがない何代も前の血縁の業で良くも悪くも自分が影響を受けるなんて、しかもそれをお坊さんらしき人がお祓いみたいなもので断ち切ることができるなんてやっぱり何か少し変....と思ったのですが、完全に否定はできなくて気にしていました。
本当は自分の業からも逃げられるものなら逃げたいと考えていたくらいなので、前の代の業も引き受けるなんて嫌だなぁと思っていました。「今が未来を作る」、良い言葉ですね。自業自得の考えで、今の自分の人生を責任を持って生きます。
文法先生、すみません。先生泣かせのややこしい問題だったのですね。それでもできるだけわかりやすく先生の考えを教えてくださって、ありがとうございます。
仏教を勉強するまで私には前世という発想がほとんどなかったので、過去世の煩悩とかいまだにあまりぴんとこないんです。それでも、悪い境遇は何かの罰だろうかとか、特に自分がやった事で全然思い当たらない時は先祖因縁説がもっともらしく思えました。
でも人間はすべての縁の働きを把握できないから、なんでこんな目に?とわからないことがあっても仕方がないのですね....以前は神のご意志ということで自分を納得させていたのだけど。
理由を全部知るのは無理なのに追いかけても迷うし、それによく考えたら先祖因縁説は仏様(ご先祖様)を自分の代で解消できなかった業を子孫に背負わせた人にしてしまいます。中には生前やんちゃな人もいたかもしれないけど今は仏様だし、もうそんなふうに考えるのはやめます。
落ち着いてみると、迷うのも先祖のせいにするのもみんな生きている人がやっていることで、仏様は静かに見ているだけ(気づいてくれと願ってくれているのだろうけど)で、自分が騒いでいたんだなあという感じです。
聖章先生、ありがとうございます。
家系に伝わる因縁があるのかもしれないと考えた時、ご先祖様が積み上げてきた良いものはもらいたいけど悪いものはいらないなあ....なんて思ったのですが、もうそんなことは考えないで自分の人生を頑張って生きます。家系から受け継ぐものではっきりしているのは遺伝子や借金くらいで、あとは本当に自分の行い次第なんだと思います。とはいっても、私の悪い行いの積み重ねで私の血筋への世間の見方も悪くなっていくとかそういう意味で子孫への影響はあると思うので、できるだけ悪いことはしないように気をつけていきます。
ブッダいのちの言葉、小さくて持ち運びしやすいので電車の中などでもよく読み返しています。和顔愛語とか少しずつ実践してみて、おかげさまで心なしかちょっと優しい人になってきた気がします。
鈍阿先生、ありがとうございます。
断ち切るのは家系の因縁ではなくて、過去に間違って説かれていた思想に影響されていた自分の気持ちだったのですね....。その時代によって違うことが説かれていたとか今はもう正しくないとされている説があるとは知らなくて、お坊さん(と言う人)が仏教の話として話されるとそうなのかも....と思ってしまっていました。でも、もう大丈夫です。ありがとうございました。
文法先生、追伸で北海道地震のお見舞い申し上げます。
北海道どころか日本に知り合いがほとんどいなくて誰かを心配したり深く悲しんだりする心にどうしてもなれなかったけれど(何の為に慈悲を勉強したのだろう)、「不殺生戒でかめ虫のお話してた先生、北海道だったよね....大丈夫かな」と思っていました。他人の気持ちはわからないのに頑張ってね!とか軽く言えませんが、無理はなさらないでくださいね。