死なせて欲しいと思っています。
死なせて欲しいと思っています。死ぬ選択を誰かに許して欲しいと思っています。だから、ここに許しを乞いに来ました。
来年で30歳になります。10代の頃から、30歳には死のうと考えていました。その思いは変わりありません。
この年になるまで、離婚と失業を経験し、今も求職中です。辛いことがあった半面、良き友達や楽しい出来事もたくさんありました。
自分の人生を振り返って、とても幸せだったと思います。恵まれたことに感謝し、満足もしています。
だからこそ、これ以上生きる意味が見出だせないのです。私は満足しているのですから。何より、この生を単に消費する毎日が辛いです。
30歳まであと半年です。私の決断を許して許してください。
お坊さんからの回答 3件
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
自分で自分を許せるか、自分とは何か
ご相談拝読しました。とても思いのこもったあがささんのお言葉を確かにお聞かせいただきました。
しかし残念ながらあがささんの決断を許すことは私にはできません。なぜならば本当の意味で自分を許すのは他者にはできないことだからです。あがさん自身か、仏様にしかそれはできないのです。
ここに問うてきたのはあがささんご自身が自分で自分のその決断を本当の意味で許すことはできないからではないでしょうか。
私はあがささんの「死なせて欲しい」という思いを否定することはできません。それはあがささんがこれまでにいただいたご縁の中であがさんの思いを超えてあがささんの中に湧き上がってきたものであるからです。私がどうこう言える立場にはありません。
しかしあがさんがその思いの中にある今この瞬間も、心臓は脈打ち、血潮は流れ、呼吸は次の息を吸い、細胞は分裂し…いのちは生きようとする歩みをとめません。
あがさんは本当に死にたいのでしょうか?あがさんとはなんでしょうか?
自分の思い、自分の身体、自分の命…自分とは一体何か。
そういうことを残りの半年間ごまかさずに真摯に仏法に尋ねてみませんか?
とりあえずもし興味が湧いたら下記の本を手に取ってみてください。
『どうせ死ぬのになぜ生きるのか』 (PHP新書)名越 康文
『漫画 君たちはどう生きるか』(マガジンハウス)原作:吉野源三郎 漫画・イラスト:羽賀翔一
誰かや何かの繋がりの中にあっても私たちは孤独や寂しさや空しさに陥っていきます。誰にも本当の自分を認めてもらえないからです。許してもらえないからです。
そんな誰にも見せられない、汚いおぞましい醜いドロドロした自己中心的な私を救ってくれる「はたらき」があります。
私にとってそれは「南無阿弥陀仏」というお念仏です。お念仏によって「阿弥陀仏」という仏様のそうした私を救いたいという願いを聞き、「はたらき」のなかに身を感じます。
その時あなたが消費しかしていないとお感じになっているあなたの毎日も必ず何かを生み出していることが見出されます。
私にとってはお念仏でもあがさんにとっては違うかもしれません。でもあがささんにもそうした救いが必ずあるのです。
何歳で死ぬとかどうでもいい事です。
今日一日を精一杯に生きてください。
過去を後悔や満足せず、未来を恐れず、ただ今日一日を精一杯に生きてください。
私達が出来ることはただそれだけなのです。
生きる意味、今は無いのでしょう。
しかし、5年後のあなたが生きる意味を持っていないという確証は無いのです。
この世は諸行無常、全てが移り変わって行くのですから。
ご仏縁
あがさ様
お礼を拝見しまして・・
生きる意味や理由や価値というものは、何かこれだと言えるような実体としてあるわけではなく、色々な因縁(原因と条件)により仮的に措定されて成り立つものとなります。
今は善き意味、価値、理由となっていないのであれば、善き因縁を調えることで、善き意味、価値、理由を見いだしていけることになるのでもあります。
仏教には、善き意味、価値、理由を見いだしていくための因縁もたくさんございます。
是非、取り組んで頂けましたら有り難くに存じます。
川口英俊でございます。問いへの拙生のお答えでございます。
是非、これをご縁として、仏教を学び修していって頂けましたら有り難いことであると存じます。
そうですね。。
秋にダライ・ラマ法王様が御来日なさられてのご法話、ご灌頂がございます。
チベットハウス・ジャパン
http://www.tibethouse.jp/
法王様は仏教について基本的な考え方から丁寧にご法話をなさられます。
滅多とない貴重なご仏縁となるのではないだろうかと存じます。
是非に。。
川口英俊 合掌
質問者からのお礼
お早い返信ありがとうございます。御気遣い痛み入ります。
仏教とのご縁となるきっかけを頂きましたが
、これ以上誰かや何かの繋がりが欲しい状況ではありません。
真摯に仏教へ向き合っていられる方のご意見に触れる機会を頂き、ありがとうございました。