hasunoha お坊さんが必ず答えてくれるお悩み相談サイト

お坊さんに質問する
メニュー
メニューを閉じる
そらノート 亡くなった人やペットに思いを伝えよう hasunoha姉妹サイト登場

生きる意味ってなんでしょうか

回答数回答 4
有り難し有り難し 53

お坊さん

生きる意味が分からないひとは多くいると思いますが、それでも生きてる理由はなんでしょうか。美味しいものが食べられる、とか好きな友達と遊ぶ、とか趣味が好きで好きでたまらないとか、なにもない場合のひとはどうしたら生きる意味を見いだせるのでしょうか。

人生は長く、とても走りきる自信がありません。なにかをするよりも、なにもしないでいるのが楽です。でもなにもしないでいるのが好きという訳でなく、この世に生きていなくちゃならないなら、なにもしないでいるのが良いというだけです。

他のひとにもこうした時期はあるとしたら、どうやって克服したのでしょうか。死ぬ以外の選択を、どのように見つけたのでしょうか。


この問答を娑婆にも伝える
facebookTwitterLine

お坊さんからの回答 4件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

心の泥を泥水で洗っても綺麗にはならない

楽しいことがないなら、本当のことを求めるべきです。
アナタのように、迷って苦しんだ人はみんな仏教にちゃんとした答えを見出しました。
「言葉や理由は事実の後からつけるもの」
生きるとは、考えではなくリアルな、ダイレクトな、生き血の通った暖かい真実を実感することです。生きる理由なんぞは、生きていれば後からいくらでもつけられるもの。
それよりも理由付けの前に、今もこうして生きているでしょう?
あなたが呼吸することに何か、理由が必要でしょうか。
自分の考えやはからいを超えたところで、命は呼吸して、心臓が動いていますでしょう?
理由を付け加える前に、それがダイレクトな真実。
たった今も理由なしに「生きている」という真実があるでしょう?
「人は何の為に生きている」→「しあわせになるため」「生きがいを見つけるため」「そのこたえをみつけるため」etc… ←失礼ですがこういう理由で本当に納得できますか?
どんなにかっこいい理由をつけようがつけまいが、現に今、生きているじゃないですか。
理由付けという世界は、どこまで行ってもリクツに過ぎない、二の次であるということが、あなたの心臓、呼吸が実証してくれている。
あるところに、「死にたい、死にたい」と言っていた人が、ガスを部屋に充満させて、最後に煙草を一本つけようとしたのだそうです。ドカーン!!!
彼が救急車の中で口にした言葉は「…死ぬかと思った」だそうです。
死のうと思ってたことなんか吹っ飛んで、頭はチリチリでドリフ状態、救急車の中です。
彼は死にたかったはずですが、そんな理屈が吹っ飛んでしまうくらいの事実に出会って、理屈じゃない世界でピーポーピーポーです。
人は先に理由を求めようとするから、迷うのです。
私も、学生時代は、理由ばっかり求めていました。
しかし、どんな理由付けも、表現も、その時、その場所、その状況下だけしか機能しない空虚なものでしかなかった。ですから私は哲学することや、考えることの実の無さを痛感して禅に真実を求めました。
おかげで現にこうして、ぴんぴんして毎日楽しく生きています。
マァ、理屈はもういいでしょう。
あなたには誰かに聞いてもらいたいことがあるはずです。
私も直接、お伝えしたいことがありますので坐禅会でぶつけてみてください。

{{count}}
有り難し
おきもち

おきもちが累計1600件を超えました


丹下 覚元(たんげ かくげん)
今月の提唱 「菩提心をおこす」 菩提心をおこすということは、たとえ...

焦らず、けれど懸命に

すもももさま。
質問が続いていますが、それだけ悩みが深いということでしょうか。

ほぼ同じタイトルの質問が過去にありました。よろしかったら、まずはご一読下さい。
「人間は何のために生きるのか」
http://hasunoha.jp/questions/36

美味しいものを食べるとか、友達と遊ぶとか、趣味とか、それも大事なことですが、人生の大切な目的としては不十分な気がします。

私は、仏教が好きです。そして自分が好きな仏教を人に伝えたいと思っています。
お坊さんの道に進み始めたのは、今のすもももさんと同じ25歳ぐらいでした。そして上記のような気持ちになれたのは30歳ぐらいの頃だったと思います。
これは私にとって幸運なことで、お坊さんになっていなかったら自分にはこれほど打ち込める道が見つかっていたか、自信がありません。

すもももさん。自分の進む道が10代で見つかる幸せな方もいます。でも50代でも60代でも70代でも、それを見つけることが出来ると思うのです。
早く見出したいという気持ちが強いでしょうが、焦らないで下さい。

そして真逆のことを言いますが、仏教では無常を説きます。「人生は長く」と書かれていますが、すもももさんが平成26年を迎える保証も、明日目覚める保証もありません。そう思えば、1日1日を大切に懸命に過ごせるのではないでしょうか。

きっと道は見つかります。焦らずに、でもその日のために懸命に、日々をお過ごし下さい。

{{count}}
有り難し
おきもち

おきもちが累計1600件を超えました


浦上 哲也
横浜市神奈川区で、新しく小さなお寺を営んでいます。 仏教の教え・浄土真宗...

みんな悩んで大きくなった。

こんばんは。
悩みは尽きませんね…。
私とて同じですよ。
自問自答の繰り返し、僧籍に入ったことも、
本当に良かったのかどうか、
この歳になっても立ち止まってしまうことがあります。

もう40年近く前、私がまだ小学生だった頃、
サントリーウイスキーのCMでこんなのがありました。
作家の野坂昭如さんが歌ってました。

   ニンニンニーチェかサルトルか
   ソッソッソクラテスかプラトンか
   みーんな悩んで大きくなった

   大きいよ~
   大物よ~

   俺もお前も大物だーッ!

なんか、ふざけた歌なんですけど、クラスで流行ってて、
意味も分からず男子は歌ってました。
私もその一人です(笑)

この歌の文句の中に、釈尊も挿入してみると、
うん、全然違和感がないですね。

生きる意味とは、生きていること自体に意味がある、
ということだと思います。
25歳の貴女にはまだまだ先が長い。
だから走りきる自信がない…と思ってしまうし立ち止まってしまう。

立ち止まってしまうと焦り出す。
こんなことで良いのだろうか…と。

いいのです。
焦る必要もありません。
何故かというと、先が長いからです。
ちょっとくらい、時間の無駄遣いしたってバチは当たりませんよ(^^)。

四十路も後半の私でさえ、スローモードです。
家人はそこにイライラするみたいですが(苦笑)。

「WALKING TOUR」ってご存知ですか?
私、8年くらい前に見つけたのですが、今も時々眺めています。
BGMがとても心地よかったりする。
人の一生って?ということを考えさせてくれます。
ちょっと覗いてみて下さい♪♪

http://pya.cc/pyaimg/pimg.php?imgid=6468

我が親鸞がこんな言葉も言ってます。

  酒はこれ忘憂の名あり、
  これをすすめて笑ふほどになぐさめて去るべし。
  
  酒には“憂いを忘れる”という別名がある。
  これを少しばかり酌み交わして、互いに笑えば慰めにもなろう…

こんな感じの意味合いですが、だいぶこの言葉には救われたなあ…(´ー`)
くれぐれも深酒はいけませんが(笑)。

http://blogs.yahoo.co.jp/namoamidabutsu18/60806985.html

如何ですか?(^_^)
気楽に参りましょう…。

{{count}}
有り難し
おきもち

おきもちが累計1600件を超えました


モットー 「寺は心に溜まったゴミを捨てに来る所」。回答数は決して多くありま...

「縁」を大切に

すももも様

川口英俊でございます。問いへの拙生のお答えでございます。

「生きる意味」・・これまでも下記のように13問答におきまして拙生もお答えをさせて頂いて参りました。

http://hasunoha.jp/questions?tag=生きる意味

正直に申しますと難題であり、また、多様な答えがあって当然で、更には、これが絶対に正しいと言えるような答えの出せない質問でございます。

ただ、問い「生きていく意味」 http://hasunoha.jp/questions/93 にても「もし、生きる意味があるならば、生きる意味がない」として拙回答させて頂いておりますが、とにかく「生きる意味」も「縁」によって色々と生じるものです。ですので、意味は「有る」と言えばあります。

いいですか、一応「有る」のです。「無い」わけではありません。しかし、それもまた様々な「縁」によって変化していくものでしかなく、捉えて、執着できるようなものではありません。つまり、永久永遠なる「実体」としては無いのであります。「実体」は「無い」と言っても、「全く無い」というのではありません。一応「有る」のはあります。

さて、すももも様も一人で生きているわけではなくて、無数の「縁」によって生かされて存在することができています。その無数の「縁」を大切にする中で、きっと自分に相応しい「生きる意味」がそのうちにおぼろげながらにでも見つかる、分かってくるのではないかとは存じます。あまり真剣に躍起になって探そう、見つけようとして考えて見い出せるものではないかとも存じております。

あまり、「生きる意味」が有るのか無いのかと悩むよりも、日々の「縁」をいかに大切にしていくことができるかをお考え賜れましたら良いのではないかとは存じます。

「何もしたくない」という時期は拙生にもございました。真剣に「無帰論」なる論立てを行って標榜していた時期がございました。しかし、仏教を更に深く学び進める中で、これは明らかな間違いであると気付くことができました。

もし宜しければ、少しずつでもこの機会から仏教を学ばれていくことで、抜け出せていけることもあるかとは存じております。

川口英俊 合掌

{{count}}
有り難し
おきもち

おきもちが累計1600件を超えました


川口 英俊
チベット仏教 ツォンカパ大師中観思想・後期二諦説の研究

質問者からのお礼

たくさんのお答えを頂き、ひとつひとつをしっかりと受け取り、励みにして参ります。本日たまたま、お世話になった人と会う機会があり、これから何を大事にして生きていくのか、数年後どうなっていたいかを聞かれましたが、すぐに答えられませんでした。お坊さんのおっしゃるように、ロジックに生きるのではなく、もっと感覚的な世界を知ったほうが良いのではないかとも指摘を受けました。これまでの生き方を変えることも、違うかも知れないと思いながら続けることもそれぞれに覚悟がいりますが、理屈だけに囚われず、かといって安易に答えを出そうとせず、もう少し、生きることについてちゃんと向き合っていきたいと思います。また関連した質問をするかもしれません。どうもありがとうございました。

「生きる意味」問答一覧

生きることに価値はあるのか

はじめまして。突然の独白失礼致します。 私は、常に悩みの中に居ます。 自分には生きている意味や価値があるのか?と言う問いはよく耳にしますが、私は生きていることそれ自体に意味や価値があるのか、と言う問いをずっと胸に抱えております。 意味も価値も所詮は人間の決めた尺度であり、それは誰かから与えられるものでは無く、自らの生の意味や価値は自らが決めるしかない、と思う一方で 人間を全体として見れば、やはり人が生きることに何らの意味や価値も無い様に思えてしまうのです。 個人は、死と言う終着点があるからこそ、種を紡いだり、意志を遺したり、自らの存在を個として終わらせず、何かを遺そうとするのだと思います。 果たして人間全体を個として見た時、その終着点が何処にあるのか、それが分からない為、煩悶してしまうのです。 もしかすると、100年後には全てが無くなっているかもしれません。それは1000年先のことかもしれないし、明日のことかもしれません。 いずれにせよ、始まりのあるものには、終わりが来る訳ですから、全体その時我々人間が紡ごうとしていたものは、どうなってしまうのでしょうか。 何かを遺そうとしても、それを受ける人間が居なくなってしまうなら、果たしてその行為に意味はあるのでしょうか? 私は、価値の源泉は希求にあると考えます。 価値があると信ずるからこそ、そこに価値が生まれるのだと。 だからこそ、私は自らが信じられると思ったものを必死に追い続けて来ました。 しかし、上記した様な考えが頭をもたげると、どうしてもそれが揺らいでしまう瞬間があるのです。 これは、私の心が弱いからなのでしょうか? 私がいつか答えに出逢えるとするならば、それは私の都合の良い解釈なのか、或いは本当の答えが未だ見ぬ何処かにあるのか。 私には、もう何も分かりません。 信ずる道を行かれるお坊様に、どうしてもお聞きしたくて、此処に書かせて頂いた次第でございます。 末筆ではございますが、長く読み辛い文章になってしまったことをお詫び申し上げます。 また、最後までお読み頂いたことに感謝致します。

有り難し有り難し 5
回答数回答 1

「生きる意味」は意味があるのか

「生きる意味を探そう」などといった啓発がよくなされていますが、そうやって見つけた生きる目的には何の意味があるのでしょうか。 いずれ無くなるであろう地球(現世)で、どうやっても百余年で死んでしまう私たちが、「生きる意味」をもって行動したとしても大局的には意味のないことだと思ってしまいます。 小さい頃、自分は歴史に名を残す偉業を成し遂げたいと思っていました。しかし年を重ねるにつれ、そんな社会貢献ができたとして何になるのかを強く考えるようになりました。偉大な結果を残したとしても、自分が死んだらその後の世界を見ることはできない(自分の功績の影響は認知できない)し、世界が終われば無に帰します。「生きる意味」と思っていたものの意味がなくなるように感じてしまいます。 これは「そんな偉業は成し遂げられない」という諦観がそうさせている面もあるとは思いますが、「自分が起こした行動が現在、そして死後の未来に影響を与えたとして、だから何になるのか」を強く考えていることに変わりはないです。 こう考えることで、生きる意味も、それを探すことも無意味に思えてしまっています。 生きる上で苦痛が耐えないこともこの考えを助長しています。なぜ人は苦しみがある中でも生き、この社会で何かを残そうとし、命のバトンを繋いでいくのでしょうか。また、何かを残そうというモチベーションもなく日々を生きている人々は、どんな「生きる意味」をもって生きているのでしょうか。 私自身は、生きる上で生じる苦痛を上回る「生きる意味」を未だ見つけられていませんし、「生きる意味」を見つけるために努力することも億劫で、苦しいのでしたくなくなっています。こんな思いを抱きながら生きるより、すっと消えてしまえた方が楽なのではないか、という考えすら頭に浮かび、数か月離れないので、ここに思いの丈を書かせていただきました。 とりとめのない話になってしまいましたが、よければこのことに関する仏教に基づいたお話をお聞かせください。よろしくお願いいたします。

有り難し有り難し 65
回答数回答 4

地獄を繰り返すために生まれてきたのか?

この世界で生きる意味について聞きたいです。 私は親がいつも怒鳴りあう家で生まれました。父親は自分の思い通りにならなければ許せない人間で、いうことを聞かなければ暴力と金銭を振りかざします。それは自分に対しても同じなので黙って言うことを聞き、こんな男にはならないと誓いました。しかし、約束を守ってくれない母親や姉に私が普通の声で怒ると二人から父親のようだと軽蔑されました。彼女達もいつも大声で怒鳴りあうのに。その頃から「自我や感情を持ってはいけない」という思いが生まれ「親父のようになりたくないから、人の気持ちを優先するようにしよう」と決めました。 それからは家でも、学校でもピエロのように本気にならない人間を目指し、人から馬鹿にされても何を言われても「俺は怒らないし、正しく判断できる人間じゃない」と思って生きました。でも、高校の終わりごろから他人から求められる自分像を維持することが難しくなり、まともじゃない自分に自信を喪失してしまいました。 このままではいけないと思い、大学からカウンセリングに行きはじめ改めて原因が家族関係にあることに気づきました。そこで認知の歪みをなくせば「まともな人間」になれると思い、自分の認識や考えに疑いを持つようになりました。その中で、経済や歴史・宗教などを知り、「まともな人間」は作られたものだとそこでやっと気づけました。 ですが同時に、人は生まれてきた時点で他人や他の動物のポジションを奪う生物で、欲や自我をなくせないこと・自分は親より弱かっただけということを思い知りました。この世界では、もし大切な人が出来ても、自我がある以上相手を思いやるようで自分のことしか考えることはできません。自分が自分でいると、誰にでも平等にはできず昔の自分のように奪われる人を作りだします。 言いたいことを言い他人を別の生き物のように扱うサル山の大将のような人間が持て囃されます。俗にいういい人は基本的に特定の人達に優しい人です。それがこの世です。 ずっと苦悩し、皆幸せになる方法はないのか考え続け堪えてきましたが、知識や知恵がつく度それが不可能であることに失望するばかりです。もう疲れました。 きっと社会で生きていくには、世界を受け入れサル山の大将のように好きに生きるしかないんだと思います。だとすればこの世は地獄でしょうか?されたことを繰り返すしかないんでしょうか?

有り難し有り難し 20
回答数回答 2

生きる意味を見いだせません

鬱病を発症し編入した大学を中退、現在は唯一持っていた保育士の資格を生かし上京してひとり暮らしをしています。 この時期になると所謂五月病といいますか、季節型うつ病と言いますかで体調を崩しやすくなっています。 元々歓迎されていなくきつく当られている人権侵害もある職場に迷惑をかけてしまい、申し訳無さでいっぱい、また陰口が怖いと思っています。 駄文を書きましたが以下が相談です。 先程、祖父が危篤状態であると連絡が入りました。 数ヶ月前に妻をなくし、流行病下でも頑張って1人で生きていた祖父です。 「健康でいられるうちが花」と語っていた祖父は、私の精神病を理解してくれない人でした。 しかし、こうして祖父を目の前にすると、私が生きていて良いのか、みんなのために祖父の方が余っ程生きていた方が良いのにと思ってしまいます。 僅かな時を思い、そばにいられる事は幸福であり、今を一生懸命生きて欲しいし、まだ先に亡くなった祖母に連れて行って欲しくはない。 でももし亡くなったとしても天寿を全うできたなら祖父は、幸せであった、後は仏様がきっとお導きくださるとは頭では分かっています。 しかし、中退で余分に親に迷惑をかけ、鬱病で心配をさせ、脛を今でも齧っている私が想っても良い感情なのか、分かりません。 職場でもろくに貢献できず、生きる価値もないと言われ、また自分でも思っています。 そこで、「生きる」とはなんなのでしょうか。 素敵な親から「生」を受け取った私が死にたいといい、こんなにも生きてと願われてる祖父が「生きている」かの縁にたっています。 私には「生きる」の価値が分からなくなってしまいました。 こんな自分が情けなくも思います。 乱文失礼しましたがよろしくお願い致します。

有り難し有り難し 4
回答数回答 1

関連する問答

温かい気持ちになるお坊さん説法まとめ

相談カテゴリ
-四苦八苦 SickHack!▼ 全カテゴリを見る