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大悲心陀羅尼について

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有り難し有り難し 72

私は家が曹洞宗の息子です。
大悲心陀羅尼というお経ですが
ネットで曹洞宗青年団というサイトでは
聖観自在菩薩よ
と訳されています。
しかし、他のサイトでは
千手千眼観世音菩薩という説明がほとんどで
千手観音についてのお経と思っていましたが
実際はこのお経はどの菩薩様についてのお経ですか
またこの功徳は、私たちが生きる上で内を伝えているのでしょうか?
よろしくお願いします。


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お坊さんからの回答 3件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

菩薩とは誰かを自身に問うべし 無我とは何か自身に問うべし

観自在ボサツとは誰のことでしょうか。
実はあなたのことなのです。
あなたが仏道修行に目覚めて、菩提心をもって我見・我念を黙させるところ、能動的な意識のはからいが休まって思考活動ではない眺め「非思量」になっていくのです。
これを無我のはたらき智慧と言います。
無我の作用の中で物事を眺めていくと、思考を介さずにものをみることができます。
それが千手千眼なる観自在なる菩薩の広大にして円満無礙なる大慈悲心を自覚せしむる大悲心陀羅尼こと千手千眼観自在菩薩広大円満無礙大悲心陀羅尼 (長ッ💦)です。
ひとえに無我を自覚し無我を煮詰めていけば意味がなるほどと分かるようになります。
文字だけで読んでも私も修行小僧時代は意味不明でした。ナンダコリャ?(´-ω-`)
私が修行していた曹洞宗大本山総持寺では毎朝必ず読みます。夕方のお勤め晩課や供養でも読みます。総じて年間5,600回は読んでいるものと思われます。
ところが、ある時私は大きな疑問を持ちました。
どうして大慈悲心のダラニを読んでいながら先輩僧(古参)たちはみんなイカツィーのだろう?当時は殴ったり蹴ったり長時間罰で正座させたりとかが当たり前の道場でしたから、私にはこの大悲心陀羅尼というお経が意味不明でならなかったのです。
ある時、師匠から解説本を渡されましたがそれもチンプンカンプンでした。
「観自在菩薩とは汝がことなり。」
天桂禅師の教えや仏法を明らめられた老師方との出会いによってようやく真意がわかりました。ああ、これは文字や勉強・勉学として読んでも、慈悲も智慧も沸いてこないのだ、と。
自己の本来性である無我を説いたものがこのお経です。
わたくし意識、能動意識、自己を忘ずるなりの坐禅禅定を会得してようやく真意が得られました。真意が得られると暇なときはこのhasunohaで法の斧や薬やうちわや火を振り回して多くの人を助けてあげることもできますし、サボることもできます。
衆生を助けることもできるしホットケるようにもなれます。
無我なるところ無限の働きになるからです。
師匠からこんな公案をあたえられました。
「観音はなにゆえ千手千眼なのか」❝参ぜよ❞と。
どういうことなのかご自身に参じてみてください。
いろんな考えはあるでしょうが禅は参禅。この自身に参ずる道。外に観音様らしいものを思い描かず自身の観自在心=観音に参ずる道です。

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おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

千手千眼観自在菩薩広大円満無礙大悲心陀羅尼

大悲心陀羅尼は『千手千眼観自在菩薩広大円満無礙大悲心陀羅尼』という名の千手観音のお経です。
千手観音は観音さまの三十三の姿の1つです。聖観音もその三十三の姿のうちの1つですが、人間と同じ姿でありましていわば基本形です。だから千手観音と聖観音と別人ではないのですよ。
聖観音が千光王静住如来から千手千眼を授かったことが書かれていますので、主語はやはり聖観音なのでしょう。

また、大悲心陀羅尼は般若心経でいう「ギャーテーギャーテーハーラーギャーテーハラソウギャーテーボージーソワカ」に当たる部分だけを書き出したものです。意味を学ぶための経文ではなく、一種の聖音のようなものです。お唱えする坐禅のように思っていただくといいでしょう。

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曹洞宗副住職。タイ系上座部仏教短期出家(捨戒済み)。仮面系お坊さんYouTuber「仏教・お寺ch 大慈」。 【現代日本仏教最大の課題のひとつはコミュニケーション不足】をミッションに10年以上、インターネット上で情報発信をしています。 YouTubeでは仏教の教えや読経だけでなく、お寺の真相やお坊さんの生活が分かる動画を配信しています。(リンクは↓のURL)

同一の菩薩さまです

 こんにちは。

 手元の「梵字大鑑」(種智院大学密教学会編)の大悲心陀羅尼の説明によると、
『大悲心陀羅尼、もしくは大悲呪という。千手千眼観音の威徳をたたえ、その絶対的慈悲によって罪障消滅を祈るのである。唐代の伽梵達磨訳の「千手千眼観世音菩薩広大円満無礙大悲心陀羅尼経」によると、慈悲のほとけである観音菩薩は、我々すべての衆生が救われるまで、自らは悟りを開かないという誓いを立てられた。そして、あらゆる生きとし生ける者を救うために千手と千眼を授かったという。』
 と書かれています。千手千眼観世音菩薩は、(聖)観世音菩薩のひとつの姿という事になると思います。

 ちなみにこの本の訳も、「南無阿唎耶婆盧羯帝爍盋囉耶菩提薩埵婆耶摩訶薩埵婆耶摩訶迦壚尼迦耶」部分は、「聖なる観自在菩薩摩訶薩大悲者に帰依し奉る」と訳されています。検索して最初の方に出てきた臨済宗のお寺さんの解説も「聖観自在菩薩」となっています。 http://www.anjyuji.net/daihisyuu.html

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・曹洞宗/静岡県/50代 平成27年鳳林寺住職。平成28年hasunoha回答僧登録。 好きな言葉は「和顔愛語」。和やかな顔と思いやりの言葉という意味です。曹洞宗開祖道元禅師は、愛語には世界を一変させる力があると仰っています。回答には厳しい言葉を入れることもありますが、相手を思いやる気持ちがあってこその言葉と捉え、受け止めていただきたいです。 ※質問の答えについて、話の大筋は変えませんが、投稿してから誤字脱字を直したり、内容をよりわかりやすくするため、若干加筆修正することがあります。ご了承ください。 ※「お礼」は必ず拝読していますが、それに対して回答の追記は原則しないことにしています。ご了承ください。 ・回答する件数は減っていますが、ほぼ全ての質問とつぶやきに目を通しています。
話すのが苦手なので、原則不可とさせていただいています。どうしても!という場合は運営さんに問い合わせてみてね。

質問者からのお礼

解答いただいた僧侶の方、ありがとうございました。
私は一般人ですので
説明を聞いても理解できたかというと、難しいところですが
何度も読み直して、私なりにこのご回答を基に理解したいと思っています。
ありがとうございました。

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