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呼び名について

回答数回答 6
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御坊さまたちは、一般人と会話をする際にご自身のことを何と呼ぶのでしょうか? また御坊さま同士はどう呼び合うのでしょうか? そして、同じお寺に複数の御坊さまいらっしゃる場合、先輩後輩の別があると思うのですが、先輩後輩関係ではどう呼び合っているのでしょうか? 教えていただきたくお願い致します。


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お坊さんからの回答 6件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

私も「私」ですね。

お坊さん同士では、
寺号の「〇〇寺さん」が普通で、
仲の良い同士なら苗字で「△△さん」と呼び合います。
後輩には下の名で呼ぶ場合もあります。

一般の方からは、
寺号の「〇〇寺さん」か、
「住職さん」・「ご住職」と呼ばれます。
苗字で呼ばれることは少ないです。

ちなみに、
浄土真宗寺院の住職の妻は、
「坊守(ぼうもり)さん」と呼ばれています。

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和田隆恩
 1967年京都市生まれ。山形大学理学部卒業後、証券会社で勤務。30歳で脱...

私は私と呼びます。

自分では「私」と呼んでいます。
檀家さんからは副住職と呼ばれています。
職業としては「僧侶」です。
副住職の知り合いを呼び合う時は下の名前で
先輩にはさん付けをしています。
住職の場合は住職、または寺の名前で◯◯寺さんと呼んでいます。
曹洞宗では住職のことを「方丈(ほうじょう)」とも言います。
奥さんが住職を呼ぶ時など方丈を使ったりします。

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50代、妻と娘2人。 若い頃はタイやインドなどアジアを中心に10年程旅行...

「拙僧」…というのは冗談で

トオルさま。
「ワタシ」横浜 浄土真宗なごみ庵 浦上哲也と申します。

面白い問いを頂き、有り難うございます。僧侶やその配偶者の呼び方は、地域や宗派によってかなりバリエーションがありそうです。なので私の宗派や地域を最初に書いてみました。

自分自身は最初に書いた通り「私」ですね。時代劇のように「拙僧(せっそう)」を実際に使う方は、お会いしたことはありません。

呼ばれたことがあるのは…
・住職:「ご住職さま」まで言われるとくすぐったい感じです。
・庵主(あんじゅ):私の寺が「なごみ庵」なので、庵の主ということです。
・お上人(しょうにん):「え? 私のことですか?」という反応をしてしまいました。
・和尚(おしょう又はわじょう):これも「え? 私?」となりました。

あと葬祭業界(葬儀社さんや仏具店さん)の方には「先生」と呼ばれることが多いです。

親しい先輩後輩の間柄だと、フランクに名前に〜〜さん付けや、ニックネームでも呼んだりしますよ。

他にも面白い回答が出てくるかもしれませんね。私も楽しみです。

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浦上 哲也
横浜市神奈川区で、新しく小さなお寺を営んでいます。 仏教の教え・浄土真宗...

わたしたちはもともと名無しの存在

お望みのご質問の答えは出尽くされた感がありますが、ご質問とは直接的に関係ないかもしれませんが、ちょっと大事な話を一つ。
禅宗では「じぶん」「わたし」という言葉が仮に自分を指す言葉として会話で使われても、あまり「わたし」という意識をふんだんに用いる事を認めません。
認めないというのは、私意識を固定的にさせない、私意識を中心にものを考えさせない、私フィルター越しにものを観ない、そのために「わたし」とか「ぼく」をふんだんに使いません。
昭和の傑僧、玄魯(井上)義衍という禅僧は、提唱という禅のお話をなさるときに、自分の事を指で示しながら自己をあらわす言葉として「このもの」という表現をよく使っておられたそうです。
自分の身体を指して「わたし」とか「自分」とか「自分の名前」で呼ばない理由は、
聞く人たちにも、自分「このもの」という大自然の一部としての活動体である、この法の身が、もともと認識の上で名前をつけて取り扱われるような存在の仕方ではないことを気づくことが大切だからです。
それに気づかせることが、むかしの法話の核心だったのです。
◎自分意識を無くしていくと、自分と外の境界がなくなって、法の活動のありようとして、この身と法界(法の海とゆかいな仲間たち)とのやりとりがある「だけ」になる。

無心、無我といってもこの体がなくなることではなく、自分意識が絶せられた状態なわけですから、向かったものになり、出会っているものになる。
この所を道元禅師「魚行きて魚の如し、鳥飛んで鳥の如し」とお示しです。
自分が自分を忘じて(仏道をならうというは自己を忘るるなり)
鳥が映り、声が響けば、このもの全身が、鳥の如くになりきっている状態こそ、悟りの状態です。
そういう意味では、あなたも一度、名前を忘れきって、自分も忘れきってみてはいかがでしょうか。その時にあなたが自分をさして、何というコトバが出てくるでしょうか。
はたして言葉になるかどうか。
それを知る事がご質問の一番の答えです。

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丹下覚元(たんげかくげん)
☎お悩み相談 質問 📞08020659278 どなたでも。

自分はワシと言います。

 私は「ワシ」と言います。中学生の時から、時代劇が好きだったので、癖でそう言います。皆さんは初めビックリします。
 人のことは「○○さん」と言います。修行時代に修行に来た人に敬意を払う意味でも先輩同輩後輩関係なく必ず、○○さんと呼びなさいと教わりました。たまに呼び捨てもしますが、なるべくさん付けするようにしています。

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ちょい悪坊主を目指しています。尊敬する人は一休さん。

名前はあくまでも仮の一時のラベルでしかない

トオル様

川口英俊でございます。問いへの拙生のお答えでございます。

丹下様の誠に示唆に富むご回答の内容に触発されまして、少し述べさせて頂きたくに存じます。

問い「お経の種類」
http://hasunoha.jp/questions/186

の拙回答から、

「経典は、真なる「仏智」を顕しうるのかどうか・・」
http://blog.livedoor.jp/hidetoshi1/archives/52135786.html

という小論の中にて、『・・一切が空であるこの世界において、モノ・コトの実体は決して捉えられない以上は、それが本当は何ものであるのかは真なるところ「語り得ないもの」でしかないはずなのであります。自分という実体は何かと聞かれても誰も「これが私という実体です」として示せるものはどこを探しても見あたらないことからでも、このことは少しくは理解できるはずであります。言葉・言語活動はあくまでも世間の慣習、世間の常識を頼りに、便宜的・一時的に「仮」として実体を捉えたつもりのものとして成り立っているだけであり、単語など名称も同じく単なる一時の「仮」のラベルでしかないのであります。言葉・言語活動においては、本来一切は無自性なる空であるということをできる限りに理解しておかないと、煩悩などによる様々な弊害が生じてしまうこととなります。もちろんこの世の存在は、「無」ではなく、確かに存在は存在しています。でもそのありようは、「縁起」にて成り立っている「空・無自性」なるありようなのであります。・・』

と述べさせて頂いております。

問題は、私たちはこの一時の「仮」でしかないラベルの向こう側に、まるであたかも、それがそれとしてその側から実体として成り立っているかのようなとらわれを起こして、迷い苦しむことになってしまっているありようでございます。

もちろん、存在は、何も無いということでありません、存在は縁起によって確かに存在していますが、そのありようを緻密に分析すると、どこにも実体が見い出せない、そのため、このことを「幻の如くのありよう」、「虚空の如くのありよう」と表現することとなります。

上記のことも併せて、丹下様のご回答の道元禅師「魚行きて魚の如し、鳥飛んで鳥の如し」の内容を考える上でも少しく参考になるのではないかと存じております。

川口英俊 合掌

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川口 英俊
チベット仏教 ツォンカパ大師中観思想・後期二諦説の研究

質問者からのお礼

ご回答を頂いた皆様、誠にありがとうございました。宗派によっても違う。確かに自身に関係するのは檀家となってご縁を結んでいるお寺(宗派)だけとなりますが、いやー、正直ややこしい世界だなと感じております。

当方、お経や僧侶の皆様の日々の過ごし方などに興味がありまして、それでこのサイトにたどり着きました。このようなサイトがあるとは実にありがたく、またこのサイトにて諸宗派のお寺の皆様と触れ合うことが出来るとは誠嬉しい限りでございます。

これからもいろいろ勉強させていただきますので、よろしくお願いいたします。

追記:

覚元さま、英俊さま、ご回答ありがとうございます。深遠なる内容にして、愚昧なるこの身にはまだまだ理解が及ばぬ気が致します。

ただ日頃感じていることを申し述べたいと思います。

この世はすべて仮のもの。この肉体すらも仮の宿りです。しかし、その仮の宿りに籠もるがゆえに、さまざまな煩悩、欲を持ち、人は日々活動し生きていると実感しています。そうすることで、人は人としての成を形作り、あらゆるものとの縁をつないでいます。ですが、時に人はこの欲にとらわれ過ぎて、何かを見失ってしまう。あるいは悩み苦しむ。

しかし、人が本来のあり様、即ち空であり無である自分に気がつけば、私達はいつでも救いの道を得ることが出来るのだと思います。なぜなら、その空であり無の世界こそが、御仏に通じる世界だからでしょう。そのことを忘れさえしなければ、人はいつでも御仏とつながることが出来る。すべてはこの身にあって生ずること。そう思いが至れば、心に余裕も出てくるというものでしょう。

私は、お二人のお言葉からやはり『執着(固執)』という教示が見えてきます。人は空(無)の中にありながら、敢えてこの身(色)を生きている。この色に染まりつつも、本来は空であることを忘れずにいれば、私達は如何様にも別の色を生きることも出来る。空にして色と一体と成す。この空という意識を、忘れてはいけないのですね。

私見による勝手な解釈ですが、お二人のご回答から得たものでございます。これからもご指導、ご教授を何卒お願い申し上げます。

ご回答くださった皆様、このサイトにたどり着いたのもご縁なのでしょう。私は御仏がここに連れてきてくださったのだと思っています。

まだ一週間も経っていないと思いますが、このような勉強の場が出来て、心よりうれしく思います。もう少し年をとって、いろんなところに行けるようになったら、皆様のお寺に参りお詣りするのもまた楽しきかなと思い始めております。

ありがとうございました。

「お坊さん・僧侶全般」問答一覧

不謗三宝戒について

お世話になっております。 僧籍を持つ方との関係について相談します。 以前ご相談した方なのですが、授戒をためらっている理由の一つである方との関係です。その方はお寺のご住職の弟子で、僧籍をお持ちです。 その後、こちらでいただいたアドバイスを受けて少し距離を置いていました。お寺のご住職の法話は拝聴していました。 数カ月して必要があり、またそのお弟子さんの経営するお店にお世話になりました。 当時私はかなり苦しい状況にありました。その方に近況をお話したところ、特に悩み相談をしたつもりではなかったのですが、規定の時間をオーバーしてずっとその方の人生や人生観について語られました。 私の助けになればと思ってお話をされたのだと思いますが、正直、私には見当はずれなお話でしたし、何をお話しなさりたいのか、どうしてそういうお話になるのかもよくわかりませんでした。当時私は極めて多忙な時期で、なんとか時間を作って伺っていました。そのことはその方にもお話していました。一分一秒も惜しく、早く帰りたいと思いながら、でも途中でお話を遮るのは失礼だと思い、最後まで伺って、お礼を言って失礼しました。 距離を置いている間、僧籍を持っている方のことは敬わなければならないと戒にあるのだから、意見を素直に聞けない自分がわがままなのかもしれない、ご縁があったのだからすぐに捨てることは良くないと思い、今回改めて伺いました。しかしやはりその方のことを尊敬することができません。 ご住職は身体が丈夫ではないらしく、現在は仕事のほとんどをお弟子さんにさせているそうです。私たちとも直接会うことはなく、もちろん私もこれまで直接お話したことはありません。ただ、ご住職の法話から、こちらの状況は伝わっているのかなと少し推測する程度です。 お話したお弟子さんは後継者にはならないと思いますが、ほかのお弟子さんのお話も少し疑問に思うところがあり(上の、「受け入れられないのはあなたがわがままだからだ」ということはほかのお弟子さんから言われました)、今後、そのお寺とかかわって良いのか迷っています。 ご住職がおられる間はずっと法話を拝聴したいと思いますが、ほかのお弟子さんのことは心から尊敬する気持ちがわきません。このような考えは、戒に背いているのでしょうか。

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ご住職の対応について意見を聞きたいです

長文を失礼いたします。 私の母が亡くなった折、私の父が私の母の永代供養のお願いのためにお寺へ出向いた折、私からいくつか住職に質問をいたしました。 「私、葬儀社の方にかなりお世話になりまして、で、その方たちは亡くなった方に対して一礼を欠かさず、敬意を尽くしているようにみられました。 私はお経の意味などはわかりませんが、この一連の(お経をあげる式の)動作中に、何かそうした「敬意を表す」ような行動は含まれるのでしょうか」 といった内容のものです。その住職の言動などに、どこか投げやりっぽい感じを受けましたもので。 住職の回答ですが、端的に「お経をあげることがこうした敬意になります」というものでしたが、なんとなく私は納得できませんでした。 続けてあげていただいたお経の意味をおたずねして、それについても説明していただきました。 「納得いただけましたか」という問いに対して、私は「あとは個人個人のとらえ方になってくると思います」みたいなことを言ったと思います。 その直後にご住職が激高しまして・・・。 「お前、俺のあげるお経より葬儀社の人間のほうが礼を尽くしてるっていうのか、そうなら全部葬儀社の人間に供養してもらえ!」 「俺の方が(葬儀社より)上にきまってるだろ!」 「こっちは商売でやってるんじゃないんだ!お前がそんな態度なら金は返す、そのかわりこの戒名は返してもらう」 「●●(父の名前)とのご縁もあって、特別に永代供養という形をとったが、こんな態度をとられるとは思わなかった」 私も「それは違う」「誤解だ」と色々言いましたが、聞き入れようとはされなかったように見受けられます。 最終的には「お前の言うとおり誠意なんてのは個人個人のとらえ方だろうから、それならお前が納得する寺を探せ!」と怒鳴った後、住職は席を立って退席されてしまいました。 私自身「お経なんて何の役に立つのか」といった気持ちがありましたし、そうした気持ちを見透かされていたのかもしれません。 それにこうした質問は「場」にそぐわないものでしょうし、私のような気持ちを持つ人と接する場合、かなり不愉快であっただろうとも思います。 しかし、あそこまで面罵されるとは思いませんで・・・。 二人で平謝りしたことでとりなしを得ましたが、個人的には今後の事も考えています。ほかの方のどんな見解でも聞きたいです。よろしくお願いいたします。

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嫁ぎ先がお坊さん便を使うこと

死後の世界はわからないものだとこちらでも他質問でいくつか拝読いたしました。 現代では亡き親族の供養の仕方は様々かと思います。いろんな考え方があって当たり前だと思うのに、いざ自分のことになると気持ちがついていきません。 私は名家出身とかでは全くないですが、両親はあるお寺の檀家として必要だと思うことはやってきておりました。父は亡くなっております。 私自身、それが普通だと思って生きてきまして、嫁いだら私の実家のお墓に入れなくても、宗派は違えども、嫁ぎ先のお墓・御先祖を大切にし、供養や法要等やるものだと思っていました。 しかし、主人の実家では檀家などの概念がありません。そのような考えがない方も現代にはいらっしゃると分かってはいます。 こちらでも、葬儀は必要なのか、法要は必要なのか、お墓は必要なのか、、、などと、類似の質問はあるかと思います。 ただ、義祖父の亡き後、葬儀はお坊さん宅配便…法要は最低限…。なんだか寂しいような、理解できない気持ちになってしまいました。 ですが、そのときに来ていただいた和尚さまには私としては感謝しかありません。 私自身、正直仏教について詳しく存じている訳では全くありませんのでこのような質問をさせていただくこともどうかとは思うところもあります。 ただ、気持ちの置き所をどうしたら良いのかわかりません。厳しいお言葉でも構いません。何かお示しいただけたら幸いと思い、質問をさせていただいました。よろしくお願いいたします。

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乞食と喜捨に関する考え方

こんにちは、托鉢や乞食に関して、周囲の理解を得たいです。 私は地方都市に住んでいるのですが、街中でよく托鉢を行う人を見かけます。 お財布にゆとりのある時には小銭程度ですが、托鉢を行う方にお分けする事もあります。 …しかし、基本的に一緒に居る連れにはいい顔をされません。 「仏教には喜捨という概念があって、捨て去る事を有り難いと思う、そういった機会を与えてくれる事に感謝するっていう考えがあるんだよ」と説明はするのですが、あまり納得してもらえません。 私は小額で人の為になれれば嬉しい、そんな程度の考えで托鉢をなさる方に施しをします。 ですが、連れには大体の場合、「ああいうのはホームレスとかが僧侶などに変装してやっている。何も知らない人の善意を踏みにじる行為だからそんなものに手を貸すなんて」という具合の反応を返されてしまいます。 連れの言いたいことはわかります。ですがそもそも喜捨に関しては相手が誰だろうと関係ないものと認識しています。 しかし、それを連れに言ってしまうのまるで大事な連れを分からず屋扱いしてるような言葉になってしまいそうな為、いつも「小銭でも喜ぶんだからいいだろ」と終わらせます。しかしその言葉もまた托鉢をしてる方を、私が悦に入るための道具扱いしてるようであまりいい気分ではありません。 ところで私は敬虔な仏教徒ではありません。 人の為にどうのというのも、昔やっていたボーイスカウト活動にて「困っている人を助ける機会は善行を積む機会を頂ける」という考えを持っているからです。(この辺りは喜捨と似ているかもしれませんね) そのせいもあって、あまり詳しい仏教的な教えなどは語れなくもあるのです。 長文乱文になってしまいましたが、要は人は助け合うべきものであり、自分もいつホームレスの方々のようにモグリの托鉢や乞食をせねばならなくなるかわからない以上、誰かに何か出来る時はしておくべきだと思うのです。 こういった考え、仏教的な価値観を持たぬ身近な人に、角を立てずにわかってもらうにはどうしたらいいでしょう? わがままな話ですが、友人は大切なので「アイツは変わり者だ」と思われて距離を置かれるのも、「なんだか面倒くさいヤツだ」と思われて距離を置かれるのも嫌なんです。 支え合いこそ人類の本質にして美徳、そして自己のためでもあるのだとただわかってもらいたいのですが……

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