呼び名について
御坊さまたちは、一般人と会話をする際にご自身のことを何と呼ぶのでしょうか? また御坊さま同士はどう呼び合うのでしょうか? そして、同じお寺に複数の御坊さまいらっしゃる場合、先輩後輩の別があると思うのですが、先輩後輩関係ではどう呼び合っているのでしょうか? 教えていただきたくお願い致します。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
私も「私」ですね。
お坊さん同士では、
寺号の「〇〇寺さん」が普通で、
仲の良い同士なら苗字で「△△さん」と呼び合います。
後輩には下の名で呼ぶ場合もあります。
一般の方からは、
寺号の「〇〇寺さん」か、
「住職さん」・「ご住職」と呼ばれます。
苗字で呼ばれることは少ないです。
ちなみに、
浄土真宗寺院の住職の妻は、
「坊守(ぼうもり)さん」と呼ばれています。
私は私と呼びます。
自分では「私」と呼んでいます。
檀家さんからは副住職と呼ばれています。
職業としては「僧侶」です。
副住職の知り合いを呼び合う時は下の名前で
先輩にはさん付けをしています。
住職の場合は住職、または寺の名前で◯◯寺さんと呼んでいます。
曹洞宗では住職のことを「方丈(ほうじょう)」とも言います。
奥さんが住職を呼ぶ時など方丈を使ったりします。
「拙僧」…というのは冗談で
トオルさま。
「ワタシ」横浜 浄土真宗なごみ庵 浦上哲也と申します。
面白い問いを頂き、有り難うございます。僧侶やその配偶者の呼び方は、地域や宗派によってかなりバリエーションがありそうです。なので私の宗派や地域を最初に書いてみました。
自分自身は最初に書いた通り「私」ですね。時代劇のように「拙僧(せっそう)」を実際に使う方は、お会いしたことはありません。
呼ばれたことがあるのは…
・住職:「ご住職さま」まで言われるとくすぐったい感じです。
・庵主(あんじゅ):私の寺が「なごみ庵」なので、庵の主ということです。
・お上人(しょうにん):「え? 私のことですか?」という反応をしてしまいました。
・和尚(おしょう又はわじょう):これも「え? 私?」となりました。
あと葬祭業界(葬儀社さんや仏具店さん)の方には「先生」と呼ばれることが多いです。
親しい先輩後輩の間柄だと、フランクに名前に〜〜さん付けや、ニックネームでも呼んだりしますよ。
他にも面白い回答が出てくるかもしれませんね。私も楽しみです。
わたしたちはもともと名無しの存在
お望みのご質問の答えは出尽くされた感がありますが、ご質問とは直接的に関係ないかもしれませんが、ちょっと大事な話を一つ。
禅宗では「じぶん」「わたし」という言葉が仮に自分を指す言葉として会話で使われても、あまり「わたし」という意識をふんだんに用いる事を認めません。
認めないというのは、私意識を固定的にさせない、私意識を中心にものを考えさせない、私フィルター越しにものを観ない、そのために「わたし」とか「ぼく」をふんだんに使いません。
昭和の傑僧、玄魯(井上)義衍という禅僧は、提唱という禅のお話をなさるときに、自分の事を指で示しながら自己をあらわす言葉として「このもの」という表現をよく使っておられたそうです。
自分の身体を指して「わたし」とか「自分」とか「自分の名前」で呼ばない理由は、
聞く人たちにも、自分「このもの」という大自然の一部としての活動体である、この法の身が、もともと認識の上で名前をつけて取り扱われるような存在の仕方ではないことを気づくことが大切だからです。
それに気づかせることが、むかしの法話の核心だったのです。
◎自分意識を無くしていくと、自分と外の境界がなくなって、法の活動のありようとして、この身と法界(法の海とゆかいな仲間たち)とのやりとりがある「だけ」になる。
無心、無我といってもこの体がなくなることではなく、自分意識が絶せられた状態なわけですから、向かったものになり、出会っているものになる。
この所を道元禅師「魚行きて魚の如し、鳥飛んで鳥の如し」とお示しです。
自分が自分を忘じて(仏道をならうというは自己を忘るるなり)
鳥が映り、声が響けば、このもの全身が、鳥の如くになりきっている状態こそ、悟りの状態です。
そういう意味では、あなたも一度、名前を忘れきって、自分も忘れきってみてはいかがでしょうか。その時にあなたが自分をさして、何というコトバが出てくるでしょうか。
はたして言葉になるかどうか。
それを知る事がご質問の一番の答えです。
自分はワシと言います。
私は「ワシ」と言います。中学生の時から、時代劇が好きだったので、癖でそう言います。皆さんは初めビックリします。
人のことは「○○さん」と言います。修行時代に修行に来た人に敬意を払う意味でも先輩同輩後輩関係なく必ず、○○さんと呼びなさいと教わりました。たまに呼び捨てもしますが、なるべくさん付けするようにしています。
名前はあくまでも仮の一時のラベルでしかない
トオル様
川口英俊でございます。問いへの拙生のお答えでございます。
丹下様の誠に示唆に富むご回答の内容に触発されまして、少し述べさせて頂きたくに存じます。
問い「お経の種類」
http://hasunoha.jp/questions/186
の拙回答から、
「経典は、真なる「仏智」を顕しうるのかどうか・・」
http://blog.livedoor.jp/hidetoshi1/archives/52135786.html
という小論の中にて、『・・一切が空であるこの世界において、モノ・コトの実体は決して捉えられない以上は、それが本当は何ものであるのかは真なるところ「語り得ないもの」でしかないはずなのであります。自分という実体は何かと聞かれても誰も「これが私という実体です」として示せるものはどこを探しても見あたらないことからでも、このことは少しくは理解できるはずであります。言葉・言語活動はあくまでも世間の慣習、世間の常識を頼りに、便宜的・一時的に「仮」として実体を捉えたつもりのものとして成り立っているだけであり、単語など名称も同じく単なる一時の「仮」のラベルでしかないのであります。言葉・言語活動においては、本来一切は無自性なる空であるということをできる限りに理解しておかないと、煩悩などによる様々な弊害が生じてしまうこととなります。もちろんこの世の存在は、「無」ではなく、確かに存在は存在しています。でもそのありようは、「縁起」にて成り立っている「空・無自性」なるありようなのであります。・・』
と述べさせて頂いております。
問題は、私たちはこの一時の「仮」でしかないラベルの向こう側に、まるであたかも、それがそれとしてその側から実体として成り立っているかのようなとらわれを起こして、迷い苦しむことになってしまっているありようでございます。
もちろん、存在は、何も無いということでありません、存在は縁起によって確かに存在していますが、そのありようを緻密に分析すると、どこにも実体が見い出せない、そのため、このことを「幻の如くのありよう」、「虚空の如くのありよう」と表現することとなります。
上記のことも併せて、丹下様のご回答の道元禅師「魚行きて魚の如し、鳥飛んで鳥の如し」の内容を考える上でも少しく参考になるのではないかと存じております。
川口英俊 合掌
質問者からのお礼
ご回答を頂いた皆様、誠にありがとうございました。宗派によっても違う。確かに自身に関係するのは檀家となってご縁を結んでいるお寺(宗派)だけとなりますが、いやー、正直ややこしい世界だなと感じております。
当方、お経や僧侶の皆様の日々の過ごし方などに興味がありまして、それでこのサイトにたどり着きました。このようなサイトがあるとは実にありがたく、またこのサイトにて諸宗派のお寺の皆様と触れ合うことが出来るとは誠嬉しい限りでございます。
これからもいろいろ勉強させていただきますので、よろしくお願いいたします。
追記:
覚元さま、英俊さま、ご回答ありがとうございます。深遠なる内容にして、愚昧なるこの身にはまだまだ理解が及ばぬ気が致します。
ただ日頃感じていることを申し述べたいと思います。
この世はすべて仮のもの。この肉体すらも仮の宿りです。しかし、その仮の宿りに籠もるがゆえに、さまざまな煩悩、欲を持ち、人は日々活動し生きていると実感しています。そうすることで、人は人としての成を形作り、あらゆるものとの縁をつないでいます。ですが、時に人はこの欲にとらわれ過ぎて、何かを見失ってしまう。あるいは悩み苦しむ。
しかし、人が本来のあり様、即ち空であり無である自分に気がつけば、私達はいつでも救いの道を得ることが出来るのだと思います。なぜなら、その空であり無の世界こそが、御仏に通じる世界だからでしょう。そのことを忘れさえしなければ、人はいつでも御仏とつながることが出来る。すべてはこの身にあって生ずること。そう思いが至れば、心に余裕も出てくるというものでしょう。
私は、お二人のお言葉からやはり『執着(固執)』という教示が見えてきます。人は空(無)の中にありながら、敢えてこの身(色)を生きている。この色に染まりつつも、本来は空であることを忘れずにいれば、私達は如何様にも別の色を生きることも出来る。空にして色と一体と成す。この空という意識を、忘れてはいけないのですね。
私見による勝手な解釈ですが、お二人のご回答から得たものでございます。これからもご指導、ご教授を何卒お願い申し上げます。
ご回答くださった皆様、このサイトにたどり着いたのもご縁なのでしょう。私は御仏がここに連れてきてくださったのだと思っています。
まだ一週間も経っていないと思いますが、このような勉強の場が出来て、心よりうれしく思います。もう少し年をとって、いろんなところに行けるようになったら、皆様のお寺に参りお詣りするのもまた楽しきかなと思い始めております。
ありがとうございました。