回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
そう都合よくはない
「苦しいという感情」がなくなるわけでも、「苦しい境遇」にあわなくなるわけでもないですよ。
あるとしたら
苦しみと向き合えるようになる
苦を活かせるようになる
苦に学ぶようになる
という感じかな。
感情の無いロボット人間になるわけでも、超絶幸運な人間になるわけでもないですからね。
八万四千の法門
”仏道的な歩み方をしていれば”
ひと口に「仏道的な歩み方」と言っても多種多様ですが…
どの道を歩もうが、問題は「徹底できるか」どうかでしょうね。
行者当に知るべし、もし解を学ばんと欲わば、凡より聖に至るまで、乃至仏果まで、一切碍なし、みな学ぶことを得るとなり。もし行を学ばんと欲わば、必ず有縁の法に藉れ、少しき功労を用いるに多く益をうればなりと。『教行信証』「信巻」
どんな法門も理論だけなら、勉強すれば大抵学べます。しかし、それを実現、つまり実際に苦を解決していこうとするなら、やはりあなたにとって相応しい法に選ぶべきでしょう。
仏道は仏道を見出した途端に苦しみが無くなる
脳みそが仏道状態になれば法に則した生き方、法そのものになるのですから、あらゆる人間的な苦しみから解放されるのは当然です。
知識。情報で仏道を追うことは仏道・仏教業界の情報を追うことをやっているだけだから仏道にならない。
だから道元禅師は「仏道をならうというは自己をならうなり」と説かれるのです。
「自己をならうというは自己を忘るるなり」
自分が苦しいというのは、自己意識・自分意識が盛んになって炎上状態になっているのです。仏教的に言うと五蘊盛苦。自分意識・自我意識が盛んになって、思い通りにならんで苦しい状態。
だから、盛んに暴れる🐎自分意識をおさめ・しずめ・落ち着かせる必要がある。
赤子も大人も安らかに眠っている時や静かにしている時に自我はない。
自我が無いというのは自我が立ち上がっていないこと。
「自己を忘れるというは万法に証せられるなり。」
自分意識・我を仏道修行・禅定によって静(鎮)めていくと、自我意識の立ち上がりの無い状態=人間本来の静けさに目覚めることができます。特殊な状態ではありません。誰にでも実現可能なことです。この自己の身心の上に「私・自分・俺・あたし」という意識アプリが起動していない時は、寝ても覚めても立っても座っても、吉野家食べても天下一品🍜食べても心安らかなる事この上なし。
コトにコトせられて、モノにモノせられるのです。自分とそのものとが純一無垢になっていることを「証」という。無垢というのは人間の我が混ざっていないからです。
「万法に証せられるというは、自己の身心及び他己の身心をして脱落せしむるなり。」
ものにものせられている時。ことにことせられている時=証せられている時は、仏の世界に自己を投げ入れている状態ですから、自我が立ち上がらない。快適なることこの上なし。
自分と外との隔てもない。隔てが無いというのは人間の見解の介入が生ぜず分断なきこと。
仏法・仏道のど真ん中。人間の見解が生じていない心こそ悟り・涅槃状態ですから、本来の静寂な心が実現されているのです。
このように仏道という事はまったく特殊なものではなく、誰にでも実現可能な道です。
外に求めるのではなく、自己の身心の本来のあり様にこそ用があるのです。
そこを求めるには、本人がそれを明らめたいと志すよりほかにありません。
↑これは文字・情報です。あなた自身が明らめるのが仏道です。
明るくなる
仏と、仏が説いた教えを信じると、「大丈夫だ」という明るい気持ちになります。
そして、現実のあるがままを受け入れる柔軟な心になっていきます。
ですから、仏道を学ぶと、悩みやストレスは減るはずです。
もちろん、四苦八苦の苦しみはあります。
一切は苦です。
ただ、妄想雑念で苦を何倍にも膨らませるようなことは、仏教を学ぶと減ります。
予防接種の注射をされたら痛い。
しかし、小さな子供は妄想雑念で、注射をされる前から泣いて苦しんでいます。
実際の苦痛は一瞬なのに、その何倍にも悩み苦しみを増やす幼児。
仏教徒は、痛い時は痛がるけど、痛くないときは笑って明るく過ごせばよいのです。
四聖諦
釈尊は、初転法輪において四つの聖なる真理、「苦諦・集諦・滅諦・道諦」をご説示なさられました。
仏道を歩めば、苦しみを滅することができるとおっしゃられておられます。
頑張って参りましょう。
川口英俊 合掌
質問者からのお礼
たいへん、貴重なご回答を頂きましたこと、本当にありがとうございました。