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死にたい

回答数回答 5
有り難し有り難し 95

前回質問した時
生きがいは後から見つけるものと教えてもらったのですが結局見つかりませんでした

まだ若いからそんなに早く見つかるわけないと思うかもしれませんが、今生きている理由が欲しいです

というのも自分は周りにお道化て接していて
知らないうちに本当の自分ではない
所謂もう1人の自分のようなものが生まれました

前までは特に気にならなかったのですが
高校に入り、彼女ができ、
一年過ごし、今、彼女と別れそうになっていて
お互い精神が不安定で、相手はいいですが
僕はもう生きている理由が見つからず
どんな趣味より死んだ方がずっと楽だと思います

死ぬことが芸術のように美しいとおもいます
人の血を見ると性的に興奮するほどです

自分の人格が壊れていく事が怖いです
周りの目が怖いです
完全なる第三者以外信用できないです
親にも本当の自分をみせられないです
自分でも本当の自分がどっちなのかわからなくなってきました。

もはや生きていないといけないとか、生きてさえいればどうにかなるとか、全然響きません。

でも心の何処かにまだ生きていたいと思うのかもしれません。こうやって質問する事で少しでも生きてみようとしてるのかもしれません。

もう生きるのに疲れました。
このまま苦しい人生を送るなら
死んだ方がましです
最近は自傷をしそうになり、
結局やめました
しかし、自傷したい衝動が抑えられません。

ただ死にたいという感情だけが頭の中にあります。
寝ても覚めても死ぬことを考えています。

頑張れとか期待されると苦しくなります。
優しくされると死にたくなくなります
でも優しくしてくれるのは
かりそめの自分に対してで本当の自分ではありません。

そうしてかりそめの自分に触れた時死にたいとおもいます。そうすれば僕に関係した人の中にはかりそめの自分だけが残り、本当の自分になるからです
そうして本当の自分を消してしまいたくなります。

無意識に嘘をついてしまって
直せません。
何度も直そうとしても
そのたびに嘘を重ね、自分の首を締めています。

生きている事がそんなに偉い事なのでしょうか
死ぬのは本当に悲しいことなのでしょうか
じぶんには死ぬことは名誉だと思えてなりません

この悩みについてお坊さんの意見が聞きたいです。
めんどくさい人間ですいません。
こんな質問困りますよね…


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お坊さんからの回答 5件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

「死にたい」またか。

”前回質問した時生きがいは後から見つけるものと”
”教えてもらったのですが結局見つかりませんでした”
十代の若造がちょちょいのちょいと考えたくらいで簡単に見つかるかよ。

”この悩みについてお坊さんの意見が聞きたいです”
いかにも病んでるアピール満載で救いを求めているように言葉を綴っているようだが、人生を賭して取り組むべき重要な課題を前回の回答僧から頂戴しておきながら、ものの一週間で「結局見つかりませんでしたー」などと軽々しくぬかしている様子を見ていると、いくら諸師方が思いを巡らし言葉を尽くしても、どうやらおまえさんのほうは真剣に聞く耳を持ち合わせてはいないようだ。おまえさんの魂胆は「僕ってかわいそうでしょう?」というアピールで同情を誘い「やっぱりかわいそうな僕」に浸りたいだけなんだろう。

その不幸自慢が止められんうちはなんともならんな。

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有り難し
おきもち

【公認心理師】 【レンタルお坊さん】活動中。 とりあえず何でも相談して...
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生き方は死に方に繋がる!

質問読ませていただきました。

死というモノに勝手な理想を抱いている方は少なからずいらっしゃいます。
しかし、死というモノを理解しようと仏教を学べば、簡単に死を選ぼうという楽観的な考えには至りません。
死というモノについては、先に川口師が述べておられますので、参考にしてみて下さい!

さて、それを踏まえて述べさせていただきます。
よく言われることですが、「死は平等」とあります。たしかに、「死」という結果だけでみれば、全ての人に平等に訪れることでしょう。
しかし、死に至る過程は平等ではありません。どういう道を歩んで、どういう心持ちで死に臨むか、これは人それぞれなのです。そして仏教では、「どういう心持ちで死に臨むか?」をとても大切にするのです。
なぜなら、「臨終の一念」と申しまして、臨終の際の心持ちによって次に生まれる場所が決まるというのです。未練や執着や怒りや貪りといった煩悩に満たされて亡くなるなら、地獄・餓鬼・畜生といった境界に生まれるかもしれません。それは今のviviさんの境遇より比較にならない程の苦しみに満ちた世界かもしれません。
しかし、仏様の教えを心に抱いて心安らかに臨終を迎えることが出来れば、来世は必ず苦しみのない世界に生まれることが出来るでしょう。

このように「どういう心持ちで死に臨むか?」は、生き方に直結します。不満や怒りや煩悩にまみれた状態で生きてきて、いざ死に臨むときだけ心安らか、なんてことは出来ません。死とは人生の総決算です。自分が生きてきたように、その心持ちが現れてきます。
ではviviさんが今の状態で死を迎えたら、そのときはどんな心持ちか・・・想像に難くないでしょう。

また、本当の自分に悩んでおられるようです。しかし考えてみて下さい。自分の嫌いな部分を変えようとすれば、元々の自分を変えるのですから、部分的にではありますが新たな自分を作って塗り替えます。すると過程においては、元々の自分と新たな自分が存在します。
しかし、新たな自分が当たり前になれば、元々の自分は塗り替えられます。そうなれば本当の自分というのは新たな自分の方となるでしょう。
このように、本当の自分はいくらでも作り替えれます。それが「人間はいつでも変わることが出来る」と言う所以なのです。

何か少しでも参考にしてみて下さい。

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有り難し
おきもち

京都府・大阪府・奈良県の県境に当たる、京都府京田辺市の天王院というお寺でお...
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仏教を人生の羅針盤に

vivi様

川口英俊でございます。問いへの拙生のお答えでございます。

仏教では、自殺が一律に悪いものとして括られているわけではありません。

かと言って推奨されるものでもありません。

もっとも、仏教では自殺という行為の場合でも、「業」(カルマ)の問題を考えなければならないことになります。

この生以降の自分のありように、「業」は何よりも多大な影響を与えていくことになります。

特に、無明(根本的な無知)、煩悩による行いとしての自殺は、「悪業」となるため、やはり、次の赴きへと向けては、悪い結果を生じさせる因縁(原因と条件)になることは必定であり、とても薦めることができないところとなります。

もしも、自殺が、怒りや嫉妬、憎しみや、惛沈、貪りなどを動機とするところであれば、やはり悪業となるのは避けられないものとなることでしょう。

もちろん、悪業とならない自殺ならば善いのか、動機が清らかなものであれば善いのか、となれば、それはそれで構わないものにはなるのですが、では、私たち凡夫において、そんなことが可能であるのかと申せば、ほとんど不可能に近いものであると言わざるを得ないのが現実であるのであります。

また、業、その動機について、善業、悪業、中性と、私たち凡夫では容易には図りかねないところでもあるため、拙生などが軽々にも、その自殺がどちらになるのかということを判断することも憚られるところとなります。

いずれにしても、真なる幸せ、真なる安心となる悟りへと向けては、この仏法のある現世において、恵まれた生を受けられたのであれば、何とかご仏縁を頂いて、業を清らかに調える道を歩んで参りたいものとなります。

また、世間的な幸せ、安心のためにも、もちろん仏教は資するところでもあります。

是非、これから仏教を人生の羅針盤として学び修していって頂けましたら有り難くに存じます。

川口英俊 合掌

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有り難し
おきもち

Eishun Kawaguchi
最新の仏教論考はこちらでご覧頂くことができますが、公開、非公開は随時に判断...
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彼女と別れそうになっていて?
そうではなく、もう別れたのでしょ。
いつまでも未練を引きずってはいけませんよ。
そしてこれからはただの友達として笑顔で接しなさいね。
それが彼女にとって幸せなのだと思います。
それができることが本当の愛情なのです。
できなければ単なる恋、あるいは単なる性欲だったということです。
本当の愛情とは、彼女の幸せを願うこと、彼女の苦しみを取り除くこと、仏教では慈悲と言います。
あなたの心の中の本当の愛情を育ててくださいね。
あなたが将来、仕事ができて収入も安定していて本当の愛情を持った大人の男に成長した時に、もしも彼女がまだフリーだったらもう一度告白してみたらいい。
その為に今やるべきことに専念してください。

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有り難し
おきもち

私は浄土宗の坊さんです。 少しでも何か参考になればと思って回答しています...
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拝読させて頂きました。あなたが今抱えている悩み苦しみはあなただけが抱えている独特のものではなく、有史以前から人が抱えている問題そのものかと思います。
人は生命を与えられていずれは死んでいくことをわかってはいても、生きている中で悩み迷い苦しみます、そしてこんな自分は死んでしまいたい、消し去ってしまいたいと思ってしまうことは多々あります。
他人が見ている自分はかりそめの演技している自分であって本当の自分はそんなものではなく、無残な姿でしかないと思うこともあります。

とはいえそのような自分からは決して逃げることはできないのではないでしょうか。自らの命を絶ったとしてもそのような自分からは決して逃げることはできないと思います。

みにくく愚かで救いようのない自分ではあっても心の奥底にはそんな自分自身を見つめて守りたい、いとおしいと思っている自分もいるのではないでしょうか。

今すぐどうしようとか答えがわかるわけではありませんし、心身ともに疲れ果ていては迷いは増すばかりです。

しばし心身ともに休んでみて心落ち着けてみることも人生合間合間には必要かと思います。

迷い悩み苦しみながらも休み休みながら合間合間にじっくりと見つめなおしてみる中で答えにつながるようなとっかかりやきっかけが見つかるかもしれませんし、気づいていくかもしれません。

あなたがおっしゃる死が名誉と思われるならばどのように人が生きて死んでいくことが名誉なことなのかの問いに答えを出していっても良いかと思います。
それはあなたの問題であると共に人人の問題であるのですからね。

答えはそれほど簡単ではありませんし、ゲームのように人が作ったものではありません。

せっかく頂きました機会ですからあわてずにあせらないでこれからじっくりとその問題にお向き合いなさってみてくださいね。

必ずどこかにとっかかりやきっかけが見えてくるでしょうからね。

再度拝読させて頂きました。
あなたはもうすでに様々な生きる意味や価値や目的を見つけはじめていらっしゃるように思います。どうぞ焦らずじっくりとこれからお向き合いなさって下さい。あなたを心より応援させて頂きますね。

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有り難し
おきもち

Kousyo Kuuyo Azuma
脱サラして10年が経ちました。栃木県佐野市の一向寺に勤めています。(佐野ラ...
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質問者からのお礼

お返事ありがとうございます

しにたいと思っていると意外と他人にも見透かされているようで、友達になんかあった?と声をかけていただきました。

死ぬために生きるのではなく、
来世のため、今一瞬のために
精一杯前向きに努力しようとおもいます。

多くの御師様のアドバイス、また叱咤激励に励まされました。今回の経験を次に活かすいい機会だと思いましたので、忘れることはせず、糧として胸に刻ませていただきます。

また、少しずつ不幸自慢から幸福自慢できるよう、
精進して参りますので、
またご相談した折には、御師様の有り難いお言葉を頂きたくおもいます。

最後に、微量ではありますが、仏教に触れ、体感した私が、このような考えを抱いたことを、自ら恥、これからの生活で挽回しようと思います。

今回は本当にありがとうございました

温かい気持ちになるお坊さん説法まとめ