お坊さんへの相談が殺到しており、質問受付数を制限中です。

回答が追いついておりません。今を生きる人のために仏教の智慧を伝えてくれる僧侶の方を募集中です。

虚しいと感じる気持ち、どう対処すればよいでしょうか?

皆さまの問答を拝読し、いつもたくさん勉強をさせていただいております。
今回、自分の気持ちとの向き合い方をご指南いただけないかと思い、相談させていただきます。

私は、自分がとても充実した生活を送っていると思います。
やりたい仕事をさせてもらい、健康で家族にも恵まれ、何不自由なく過ごせていることに感謝をしています。
今以上のことを欲張って願ったりする気持ちはありませんし、自分がいまここに在ることを周囲の人たちにもご先祖さまにも感謝しています。

でも時折、本当に不意に、「虚しさ」が心の中に生まれます。
それまでなんの問題もなく歩んでいた足が突然動かなくなるようにして、心のなかに「空虚」が表れ、それに捕らわれてしまうことがあるのです。
そうなると、全てが後ろ向きに感じられ、自分の存在意義があるのか不安になり、立ち止まったまま途方に暮れてしまいます。
自分はどうして自分なのだろう。
どうしてここにいるのだろう。
なんのために生きているのだろう。
こういう疑問ばかりが、ぐるぐると頭の中を回ります。
なにもかもを投げ出してしまいたくなります。
終いには、それを考えることも放棄してしまいます。
そして、自分の中が空っぽになってしまったような、そういう恐怖を感じてしまうのです。

お坊さまの修行の中や、お釈迦様の教えの中に、そういう心と向き合うためのヒントはないでしょうか。
とても漠然とした質問で申し訳ないのですが、私もその原因不明の漠然とした虚しさに、何度も悩まされてまいりました。
虚しいと思う、空っぽになる心への対処方法、またそういう自分との付き合い方など、なにか参考になるようなことがありましたら、ぜひご教授くださいませ。
宜しくお願いいたします。

生きる意味
有り難し 374
回答 4

質問投稿日: 2013年12月21日 1:19

回答は各僧侶の個人的な意見であり仏教教義や宗派見解と異なることがあります。答えは一つとは限りません。多くの回答(法施)からあなたの人生を探してみてください。

世界は元々ノンフィルター

朝目が覚めて、目の前に映し出される現実世界を新鮮なフルーツにたとえます。
ちょっと手を伸ばせば、すぐそこに無添加・無農薬のフルーツがすでに完熟された最高においしい状態で食べられるにもかかわらず、わざわざ執事がお嬢様に食べさせる前に、たっぷりの消毒をして、ワックスを塗りたくって手元に出されたら、せっかくそのまま皮ごと食べられたはずなのに、添加物漬け、台無しになります。
このように、「これは自分にとって価値ある事 これは価値のないもの」「これは良いものわるいもの」と、良し悪しの隔てをもって取り扱うことは、非常に理知的ではあっても、実は観念・考えというフィルターをいったん通してからこの世の中を観ていることになるのです。
あなたはきっと頭がイイのだと思います。物事を理知的に観察し、考えでもって、価値の高低をつけて観たりすることは世間一般では賢いものの観方とされています。
しかしながら、自分の頭脳というフィルター越しにこの世を頂くことは、どうしても一回余分なことが介入されている、と知るべきです。

「アーナンダよ世界は美しい」
お釈迦様が、弟子のアナンダにこう語りかけました。
アナンダがもし悟りを得ていれば、本当にそのように感じていたはずです。
ところが、アナンダは理知的で、物事を自分の考え越しにみて、私見を交えてお釈迦様のお話を聴いていたのです。それが故に「どうして、こんな虚しい世界が美しいものだろうか」と、憂いが晴れませんでした。
英語でDIS・COVERを仏教的に申せば、その考えの覆いのカバーを、DISするから新しい世界の「発見」になる。考えの覆いを重ねる前の世界はちゃんとあります。
それが般若心経で説かれる所の真実不虚なる世界です。
まさか。自分が考え越しに世の中を観ている自覚はないかもしれませんが、一度坐禅をしてみてください。私の今回の回答が手に取るようにわかるはずです。
東京でしたら、恵比寿の福昌寺、中野の成願寺で井上貫道老師の坐禅会がございます。
坐禅は正しい師のもとで参禅しなければ虚しく過ごすだけです。
私の尊敬する素晴らしい禅師様です。
一度ご参加いただき、お話だけでも拝聴なさってください。

4年4ヶ月前

“浮き世”に生きる我々です。

こんばんは。
そう…時としてそういう気持ちになるの、よく解ります。
この私も、全く同じ気持ちになるからです。
そこには理由などありません。
なんか、エアポケットにはまってしまったような、
そういう感覚です。
私はそれを一種の「無常感」なのだと思っています。

どうやらゆすらさんは、
そのことにすごく引っ掛かってられるみたいですね。
同じ思いの経験者として言えるのは、
立ち止まったあと、スルーしてしまえば良いということです。
また同じ感覚が再来するけど、それはそれでいいのです。
多分、貴女はすごく哲学的な人なのだと思います。

「自分はどこから来て何処へ行くのだろう」…これは、哲学的思考です。
でも宗教は、哲学とはちょっと似て非なるものがある。
というのは、哲学は結論が見えないけれど、
宗教は初めに結論ありきなのです。
その結論とは仏教では成仏ということなのですが、
もっと平たい言い方をしますと、救いに与れるということなのです。

大いに迷っても、ちゃんと収まっていく世界が用意されている、
それが宗教的救済なのだと思います。
何よりもここへご質問頂いていることが、
しっかり自問と向き合っておいでだと思いますよ。

空しさと虚しさ…これは我々が生きている世界をして、
“浮き世”と言われる所以なのであります。

私も貴女と同じ思いにしばしば苛まれる者の一人として、
自ら頂く仏教と対峙しております(^_^)。
だから意外に気楽になれたりするのだと思いますよ…。

4年4ヶ月前
回答僧

観音寺

大鐵

あなたは立派ですね。

 あなたは立派な人ですね。この質問に答えるのが面倒臭い。だって、あなたは答えを知っているから。
なーんでか?
①悩みの順序がお釈迦様や祖師方とほぼ一緒。
②虚しさから悟りが生まれる?これを諸行無常というのか?
③自分が空っぽ。これは無の境地ですな!
多分、「そんなことナイデスヨ。」と言われるかもしれませんが、偉人も凡人も特に変わったことを抱えているものではありません。同じような悩みを抱えて生きてきたのですよ。
 これでちょっとは安心しましたか。以上。もう、ほとんど他の僧侶に言われてしまいましたので、暫く虚しさが増しそうです。

4年4ヶ月前

「空と縁起」

ゆすら様

川口英俊でございます。問いへの拙生のお答えでございます。

この虚しいばかりの世界におきましては、誠に絶望と虚無が去来して押しつぶされそうになること、多々ではございます。

私も昔は、ゴールデンボンバーの歌ではございませんが、「虚しくて、虚しくて、つらいよ~」でございました。冗談はさておいて・・

お釈迦様は、釈迦国・釈迦族の王子にして富貴栄誉に恵まれた身の上でありながら、「四門出遊」によりて、この迷い苦しみのある世界を厭われて、逃れる方法を見つけるために出家の決意を固められました。その動機こそが、ゆすら様のご指摘である「虚しさ」も一つあったのではないかと存じております。

私たちは時になぜこのように「虚しく」なるのでしょうか?

これはふとした時、特につらく悲しいことがあった時などにおいて、誰もが一度は必ず思うことではないかと存じます。

なぜ「虚しく」なるのか?

それは、ズバリ、この世における真理を知らない、知り得ていないからでございます。

いわゆる、「無明」(根本的無知)なる闇路を彷徨っている(輪廻している)からでございます。

では、その「虚しくなる」原因である「無明」を対治するためにはどうすれば良いのか、その教えこそが、まさに「仏教」であるのでございます。

この世における真理なるありようを深く理解できて、しっかりと「無明」を対治していければ、きっとこの「虚しさ」は完全になくなるのではないかと存じております。

その一つの効果的な智慧としましては、「空と縁起」という仏教における存在の捉え方でございます。

これまでの拙回答を色々とお読み賜っておりましたら、度々に「空」だ、「縁起」だという言葉が出てきているかと存じますが、迷い苦しみを超えていく上でそれだけ非常に大切かつ重要な考え方であると拙生は存じているからでございます。

もちろん、拙生自身、まだまだ確かなる理解には至っていないであろう浅学菲才の未熟者ではございますが・・

とにかく、一つ、これから仏教を学ばれていかれるキーワードとして、「空」と「縁起」を頭の片隅に置いて頂けましたら幸いに存じております。

是非、共にこの「虚しさ」を超えていけるように頑張って参りましょう。

川口英俊 合掌

4年4ヶ月前

質問者からの有り難し - お礼

丁寧にお答えをくださいましてありがとうございます。
己の中でも漠然としすぎていて誰にも相談できず、胸の中に澱がたまる一方で苦しく思っていたことでした。
勇気を出して相談をし、それを受け止めてくださる方がいらっしゃるということに、本当に救われました。
皆さまに頂戴したご回答を繰り返し拝読し、不安でいっぱいだった気持ちがゆっくり静まっていきました。
出口のない混沌とした場所にいた自分を、俯瞰で観られるようになった気がします。
お恥ずかしながら、これまでの私はここに質問をするのも申し訳なく思うほど、熱心な信仰というものとは遠い人間でした。この日本に生まれ育ち、身近にあるはずの仏教も神道も、自分から距離をとっていたように思います。
ネット越しのはずなのに、お坊さまをこんなに身近に感じて、少し新しい自分になったような、そんな不思議な気がしています。
ネットのやりとりで心が救われる、という体験を致しました。
皆さまのご回答は、この先も何度も繰り返し拝読させていただきたいと思います。
ありがとうございました。

藤波 蓮凰さま
お答えをくださってありがとうございます。
私が感じていたのは、まさしく「無常感」だったのですね。
虚しさにとらわれているときの私は、ぽっかりと口を開けているブラックホールのふちに立っているような気分でした。何かのきっかけで背中をぽんと押されてしまったら、私はなんの抵抗もなくその中へ落ちていくのだろうという恐怖が、常に共にありました。
スルーしてよい、そして哲学と宗教は違う、というお言葉にはっとしました。
自分自身をもっと大きな視点から見てみなくては、と思いました。生まれてから死ぬまでのことだけでなく、それを離れたもっと大きな流れの中にいることも考えてみたくなりました。
そして「浮き世」という言葉に、非常に親近感を覚えました。
いま生きているのだから、悩んで当然なのですよね。
「解ります」と言ってくださったことで、本当にほっとしました。暗くなっていた心に、光明が見えたような気がします。
私の質問を見つけ、お答えをくださったことに感謝しております。ありがとうございました。

丹下 覚元さま
お答えをくださってありがとうございます。
お釈迦さまとアナンダとのお話に、どきりとしました。
常々、この世界は美しいのに残酷だと感じていました。生きていくということが、清濁入り乱れた水の中を手さぐりで泳いでいるような、そんなイメージでした。
自分が自分のフィルターになる。そんなことは考えてもみませんでした。
私はこれまで学問としての宗教に興味を持ったことはありましたが、このお答えを頂いて「信仰」というものがもっと身近で、実感を伴った存在になりました。
ご紹介いただいた恵比寿も中野も近いです。勇気を出して、一度お訪ねしてみたい。
こんな漠然とした悩みを拾い上げてくださって嬉しかったです。ありがとうございました。

川口 英俊さま
お答えをくださってありがとうございます。
どうして自分がこのような虚しい気持ちになるのか。それは考えてみたこともありませんでした。
そして、どうしたらこの虚しさがなくなるのだろうか、ということも考えたことがありませんでした。
目先の悩みにばかり捕らわれ、動けなくなっていたのだな、と教えていただいた気がします。
こんな漠然として手ごたえのない悩みは、きっと理解されないだろうと思っておりました。
日常生活に恵まれているのに、こんな悩みを抱えているなどとは現実世界ではどうしても言い出せませんでした。
空と縁起、これからきっと勉強させていただこうと思います。
そして、こうして虚しさを感じる私もそうでない時の自分も、同じ私であることを、もう一度いろんな角度から見られるように考え、虚しさから逃げる術を探すのではなく、向き合って学んでいきたいと思います。
質問を受け止め、そしてアドバイスをくださってありがとうございました。

大鐵さま
お答えをくださってありがとうございます。
恵まれた環境にいるのに、こんなことで悩む自分が情けなく、そして恐ろしくもありました。
ですが、私一人ではない、同じように悩みを抱えている方々がいらっしゃるとお聞きして、本当に心が軽くなりました。
答えをもう知っている、というお言葉には、どきりといたしました。
それは、いまは見つけていなくても、それ自体はすでに自分の中にあるということだと理解しましたが、間違ってはいませんでしょうか。
自分で自分の中から正解を見つけていかなくてはいけない、というアドバイスを頂いた心持ちでございます。
悩みの順番がお釈迦様と一緒、というお言葉に、私はこれまで以上に仏教やその教えに興味を持ちました。
背中をぽんと叩いて、励まされたような気持ちでございます。
面倒くさいとおっしゃりながら、心にやさしいお言葉で丁寧にご回答いただき、感謝いたします。ありがとうございました。

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