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虚しいと感じる気持ち、どう対処すればよいでしょうか?

回答数回答 4
有り難し有り難し 412

皆さまの問答を拝読し、いつもたくさん勉強をさせていただいております。
今回、自分の気持ちとの向き合い方をご指南いただけないかと思い、相談させていただきます。

私は、自分がとても充実した生活を送っていると思います。
やりたい仕事をさせてもらい、健康で家族にも恵まれ、何不自由なく過ごせていることに感謝をしています。
今以上のことを欲張って願ったりする気持ちはありませんし、自分がいまここに在ることを周囲の人たちにもご先祖さまにも感謝しています。

でも時折、本当に不意に、「虚しさ」が心の中に生まれます。
それまでなんの問題もなく歩んでいた足が突然動かなくなるようにして、心のなかに「空虚」が表れ、それに捕らわれてしまうことがあるのです。
そうなると、全てが後ろ向きに感じられ、自分の存在意義があるのか不安になり、立ち止まったまま途方に暮れてしまいます。
自分はどうして自分なのだろう。
どうしてここにいるのだろう。
なんのために生きているのだろう。
こういう疑問ばかりが、ぐるぐると頭の中を回ります。
なにもかもを投げ出してしまいたくなります。
終いには、それを考えることも放棄してしまいます。
そして、自分の中が空っぽになってしまったような、そういう恐怖を感じてしまうのです。

お坊さまの修行の中や、お釈迦様の教えの中に、そういう心と向き合うためのヒントはないでしょうか。
とても漠然とした質問で申し訳ないのですが、私もその原因不明の漠然とした虚しさに、何度も悩まされてまいりました。
虚しいと思う、空っぽになる心への対処方法、またそういう自分との付き合い方など、なにか参考になるようなことがありましたら、ぜひご教授くださいませ。
宜しくお願いいたします。


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お坊さんからの回答 4件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

世界は元々ノンフィルター

朝目が覚めて、目の前に映し出される現実世界を新鮮なフルーツにたとえます。
ちょっと手を伸ばせば、すぐそこに無添加・無農薬のフルーツがすでに完熟された最高においしい状態で食べられるにもかかわらず、わざわざ執事がお嬢様に食べさせる前に、たっぷりの消毒をして、ワックスを塗りたくって手元に出されたら、せっかくそのまま皮ごと食べられたはずなのに、添加物漬け、台無しになります。
このように、「これは自分にとって価値ある事 これは価値のないもの」「これは良いものわるいもの」と、良し悪しの隔てをもって取り扱うことは、非常に理知的ではあっても、実は観念・考えというフィルターをいったん通してからこの世の中を観ていることになるのです。
あなたはきっと頭がイイのだと思います。物事を理知的に観察し、考えでもって、価値の高低をつけて観たりすることは世間一般では賢いものの観方とされています。
しかしながら、自分の頭脳というフィルター越しにこの世を頂くことは、どうしても一回余分なことが介入されている、と知るべきです。

「アーナンダよ世界は美しい」
お釈迦様が、弟子のアナンダにこう語りかけました。
アナンダがもし悟りを得ていれば、本当にそのように感じていたはずです。
ところが、アナンダは理知的で、物事を自分の考え越しにみて、私見を交えてお釈迦様のお話を聴いていたのです。それが故に「どうして、こんな虚しい世界が美しいものだろうか」と、憂いが晴れませんでした。
英語でDIS・COVERを仏教的に申せば、その考えの覆いのカバーを、DISするから新しい世界の「発見」になる。考えの覆いを重ねる前の世界はちゃんとあります。
それが般若心経で説かれる所の真実不虚なる世界です。
まさか。自分が考え越しに世の中を観ている自覚はないかもしれませんが、一度坐禅をしてみてください。私の今回の回答が手に取るようにわかるはずです。
東京でしたら、恵比寿の福昌寺、中野の成願寺で井上貫道老師の坐禅会がございます。
坐禅は正しい師のもとで参禅しなければ虚しく過ごすだけです。
私の尊敬する素晴らしい禅師様です。
一度ご参加いただき、お話だけでも拝聴なさってください。

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有り難し
おきもち

“浮き世”に生きる我々です。

こんばんは。
そう…時としてそういう気持ちになるの、よく解ります。
この私も、全く同じ気持ちになるからです。
そこには理由などありません。
なんか、エアポケットにはまってしまったような、
そういう感覚です。
私はそれを一種の「無常感」なのだと思っています。

どうやらゆすらさんは、
そのことにすごく引っ掛かってられるみたいですね。
同じ思いの経験者として言えるのは、
立ち止まったあと、スルーしてしまえば良いということです。
また同じ感覚が再来するけど、それはそれでいいのです。
多分、貴女はすごく哲学的な人なのだと思います。

「自分はどこから来て何処へ行くのだろう」…これは、哲学的思考です。
でも宗教は、哲学とはちょっと似て非なるものがある。
というのは、哲学は結論が見えないけれど、
宗教は初めに結論ありきなのです。
その結論とは仏教では成仏ということなのですが、
もっと平たい言い方をしますと、救いに与れるということなのです。

大いに迷っても、ちゃんと収まっていく世界が用意されている、
それが宗教的救済なのだと思います。
何よりもここへご質問頂いていることが、
しっかり自問と向き合っておいでだと思いますよ。

空しさと虚しさ…これは我々が生きている世界をして、
“浮き世”と言われる所以なのであります。

私も貴女と同じ思いにしばしば苛まれる者の一人として、
自ら頂く仏教と対峙しております(^_^)。
だから意外に気楽になれたりするのだと思いますよ…。

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有り難し
おきもち

モットー 「寺は心に溜まったゴミを捨てに来る所」。回答数は決して多くありま...
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あなたは立派ですね。

 あなたは立派な人ですね。この質問に答えるのが面倒臭い。だって、あなたは答えを知っているから。
なーんでか?
①悩みの順序がお釈迦様や祖師方とほぼ一緒。
②虚しさから悟りが生まれる?これを諸行無常というのか?
③自分が空っぽ。これは無の境地ですな!
多分、「そんなことナイデスヨ。」と言われるかもしれませんが、偉人も凡人も特に変わったことを抱えているものではありません。同じような悩みを抱えて生きてきたのですよ。
 これでちょっとは安心しましたか。以上。もう、ほとんど他の僧侶に言われてしまいましたので、暫く虚しさが増しそうです。

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有り難し
おきもち

ちょい悪坊主を目指しています。尊敬する人は一休さん。
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「空と縁起」

ゆすら様

川口英俊でございます。問いへの拙生のお答えでございます。

この虚しいばかりの世界におきましては、誠に絶望と虚無が去来して押しつぶされそうになること、多々ではございます。

私も昔は、ゴールデンボンバーの歌ではございませんが、「虚しくて、虚しくて、つらいよ~」でございました。冗談はさておいて・・

お釈迦様は、釈迦国・釈迦族の王子にして富貴栄誉に恵まれた身の上でありながら、「四門出遊」によりて、この迷い苦しみのある世界を厭われて、逃れる方法を見つけるために出家の決意を固められました。その動機こそが、ゆすら様のご指摘である「虚しさ」も一つあったのではないかと存じております。

私たちは時になぜこのように「虚しく」なるのでしょうか?

これはふとした時、特につらく悲しいことがあった時などにおいて、誰もが一度は必ず思うことではないかと存じます。

なぜ「虚しく」なるのか?

それは、ズバリ、この世における真理を知らない、知り得ていないからでございます。

いわゆる、「無明」(根本的無知)なる闇路を彷徨っている(輪廻している)からでございます。

では、その「虚しくなる」原因である「無明」を対治するためにはどうすれば良いのか、その教えこそが、まさに「仏教」であるのでございます。

この世における真理なるありようを深く理解できて、しっかりと「無明」を対治していければ、きっとこの「虚しさ」は完全になくなるのではないかと存じております。

その一つの効果的な智慧としましては、「空と縁起」という仏教における存在の捉え方でございます。

これまでの拙回答を色々とお読み賜っておりましたら、度々に「空」だ、「縁起」だという言葉が出てきているかと存じますが、迷い苦しみを超えていく上でそれだけ非常に大切かつ重要な考え方であると拙生は存じているからでございます。

もちろん、拙生自身、まだまだ確かなる理解には至っていないであろう浅学菲才の未熟者ではございますが・・

とにかく、一つ、これから仏教を学ばれていかれるキーワードとして、「空」と「縁起」を頭の片隅に置いて頂けましたら幸いに存じております。

是非、共にこの「虚しさ」を超えていけるように頑張って参りましょう。

川口英俊 合掌

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有り難し
おきもち

Eishun Kawaguchi
最新の仏教論考はこちらでご覧頂くことができますが、公開、非公開は随時に判断...
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質問者からのお礼

丁寧にお答えをくださいましてありがとうございます。
己の中でも漠然としすぎていて誰にも相談できず、胸の中に澱がたまる一方で苦しく思っていたことでした。
勇気を出して相談をし、それを受け止めてくださる方がいらっしゃるということに、本当に救われました。
皆さまに頂戴したご回答を繰り返し拝読し、不安でいっぱいだった気持ちがゆっくり静まっていきました。
出口のない混沌とした場所にいた自分を、俯瞰で観られるようになった気がします。
お恥ずかしながら、これまでの私はここに質問をするのも申し訳なく思うほど、熱心な信仰というものとは遠い人間でした。この日本に生まれ育ち、身近にあるはずの仏教も神道も、自分から距離をとっていたように思います。
ネット越しのはずなのに、お坊さまをこんなに身近に感じて、少し新しい自分になったような、そんな不思議な気がしています。
ネットのやりとりで心が救われる、という体験を致しました。
皆さまのご回答は、この先も何度も繰り返し拝読させていただきたいと思います。
ありがとうございました。

藤波 蓮凰さま
お答えをくださってありがとうございます。
私が感じていたのは、まさしく「無常感」だったのですね。
虚しさにとらわれているときの私は、ぽっかりと口を開けているブラックホールのふちに立っているような気分でした。何かのきっかけで背中をぽんと押されてしまったら、私はなんの抵抗もなくその中へ落ちていくのだろうという恐怖が、常に共にありました。
スルーしてよい、そして哲学と宗教は違う、というお言葉にはっとしました。
自分自身をもっと大きな視点から見てみなくては、と思いました。生まれてから死ぬまでのことだけでなく、それを離れたもっと大きな流れの中にいることも考えてみたくなりました。
そして「浮き世」という言葉に、非常に親近感を覚えました。
いま生きているのだから、悩んで当然なのですよね。
「解ります」と言ってくださったことで、本当にほっとしました。暗くなっていた心に、光明が見えたような気がします。
私の質問を見つけ、お答えをくださったことに感謝しております。ありがとうございました。

丹下 覚元さま
お答えをくださってありがとうございます。
お釈迦さまとアナンダとのお話に、どきりとしました。
常々、この世界は美しいのに残酷だと感じていました。生きていくということが、清濁入り乱れた水の中を手さぐりで泳いでいるような、そんなイメージでした。
自分が自分のフィルターになる。そんなことは考えてもみませんでした。
私はこれまで学問としての宗教に興味を持ったことはありましたが、このお答えを頂いて「信仰」というものがもっと身近で、実感を伴った存在になりました。
ご紹介いただいた恵比寿も中野も近いです。勇気を出して、一度お訪ねしてみたい。
こんな漠然とした悩みを拾い上げてくださって嬉しかったです。ありがとうございました。

川口 英俊さま
お答えをくださってありがとうございます。
どうして自分がこのような虚しい気持ちになるのか。それは考えてみたこともありませんでした。
そして、どうしたらこの虚しさがなくなるのだろうか、ということも考えたことがありませんでした。
目先の悩みにばかり捕らわれ、動けなくなっていたのだな、と教えていただいた気がします。
こんな漠然として手ごたえのない悩みは、きっと理解されないだろうと思っておりました。
日常生活に恵まれているのに、こんな悩みを抱えているなどとは現実世界ではどうしても言い出せませんでした。
空と縁起、これからきっと勉強させていただこうと思います。
そして、こうして虚しさを感じる私もそうでない時の自分も、同じ私であることを、もう一度いろんな角度から見られるように考え、虚しさから逃げる術を探すのではなく、向き合って学んでいきたいと思います。
質問を受け止め、そしてアドバイスをくださってありがとうございました。

大鐵さま
お答えをくださってありがとうございます。
恵まれた環境にいるのに、こんなことで悩む自分が情けなく、そして恐ろしくもありました。
ですが、私一人ではない、同じように悩みを抱えている方々がいらっしゃるとお聞きして、本当に心が軽くなりました。
答えをもう知っている、というお言葉には、どきりといたしました。
それは、いまは見つけていなくても、それ自体はすでに自分の中にあるということだと理解しましたが、間違ってはいませんでしょうか。
自分で自分の中から正解を見つけていかなくてはいけない、というアドバイスを頂いた心持ちでございます。
悩みの順番がお釈迦様と一緒、というお言葉に、私はこれまで以上に仏教やその教えに興味を持ちました。
背中をぽんと叩いて、励まされたような気持ちでございます。
面倒くさいとおっしゃりながら、心にやさしいお言葉で丁寧にご回答いただき、感謝いたします。ありがとうございました。

「虚無感・空虚・毎日が虚しい」問答一覧

寂しさや虚しさに向き合うこと

こんばんは。 最近、訳もなく寂しさや虚しさを感じることが増え、何故なんだろうと思い質問しました。 例えば誰かと一緒にいる時、楽しいはずなのに「寂しいな」と感じてしまったり、目標に向かって頑張っている時、ふと「虚しいな」と感じてしまったりします。 昔からそういう感覚はありましたが、最近になってそれが顕著になり、どうにも気力が続かない日々が増えたように思います。 私は26歳の独り身で、ある程度社会人生活にも慣れ、周りが結婚や出産といった新たなライフステージを進んでいく年代になっているため、漠然と将来に不安があるのだろうなとは思います。 私は今まで恋人がいたこともなく、結婚に対してあまり良いイメージを抱いていないため、誰かと人生を歩む未来を上手く想像できません。これから仮に一人で生きていくとなっても、自分が納得しているなら別にそれでいいと思っていました。 けれど、あと何十年も、自分が生きるためだけに汗水垂らして必死になって働いて、果たして私はこの寂しさや虚しさに耐えられるのだろうかと不安になります。 よく「自分のためではなくて、他人のために行動しなさい」と言われますよね。 私自身も、誰かの役に立てた時、心から嬉しいし、満たされていると感じられる気がします。 だから、というと押し付けがましいですが、周りの人たちには感謝していますし、優しくしてもらった分私もたくさん返していきたいと思っています。 義務感からではなく、本当に大切にしたいと思える人に、そう接しているつもりです。 それでも「虚しい」と感じるのは無意識に見返りを求めているからでしょうか。 「寂しい」と感じるのは、やっぱり一人に耐えられなくて、誰かを羨んでいるからでしょうか。 私は、結局自分のことばかり考えている利己的な人間なのでしょう。そんな自分に辟易とします。 いつか自分を好きになりたいと思いながら日々を生きています。自分の良心に従って、自分の気持ちに素直に生きようと考えて日々を生きています。 そしていつか、誰かを愛することができたら、私は満たされるのかもしれないとも思います。相手がいるからどう、という訳でもないかと思いますが。 こういう「寂しさ」や「虚しさ」はきっと死ぬまで付き纏ってくると思うのですが、お坊さんたちはどのような心構えで向き合ってらっしゃるのか、ご意見をいただきたいなと思います。

有り難し有り難し 13
回答数回答 2

虚無感に苛まれています。

3年前に母が乳がんであることが分かりました。 でも母は告知されたのにも関わらず一人息子の私に何も告げず職場にもずっと隠していました。 看護師という職業柄なのか父が癌で亡くなっていて壮絶な闘病生活をみてるからなのか分かりませんが自分一人で抱え込み誰にも癌のことは言いませんでした。 そして2年前から出血が酷くなり大きな病院での診察をきっかけに僕に乳がんであることを打ち明けてその時点で私は知りました。 僕は必死で母の通院や入院の際の送り迎えや書類関係の手続きを、一人で行ってきました。何とか母に生きてほしいという一心で仕事も出来ず辛かったですが必死で頑張ってきました。 ただ、母からは黙っていたことへの申し訳ない気持ちや送迎や書類関係の手続き等に対して「ありがとう」や「ごめんなさい」、「悪いね」ということを言われたことが無く、「親の介護をするのは当たり前だ」と常々言ってきたので不遜な態度でいつも我儘をずっと言ってきて、何とかそれに答える気持ちで対応していました。 でも母は昨年の2月にお隣に住む方から借金をしていることを知りました。生活費や治療費が足りないと泣きついたそうです。 それをお隣さんから聞いた時、今まで母の為に一生懸命看病してきて自分なりに頑張ってきたのに猛烈に裏切られた気持ちになり、家を飛び出してその当時お付き合いしていた女性宅に転がり込みました。 母と大好きで10年連れ添った愛犬を実家に残して。 その4か月後母は入院先の病院でたった一人で亡くなりました。葬儀もせず無縁仏の状態で役所に遺骨は保管されています。 愛犬もすごく大事にしていたのに、母が最後に入院する際どなたか分かりませんが譲渡したと病院職員から聞いています。 今、スマホのカメラロールを見ると愛犬が出てくるたびに悲しく虚しい気持ちになって胸が張り裂けそうです。 愛犬はどこで何をしているのか。また今生きていれば14歳になるので元気なのだろうか。もしかして亡くなっているのではないだろうか。 母と愛犬を見捨てる形で家を出てきて、もう1年半ほど経ちますがずっと心の片隅にモヤモヤしたものが残っています。 12月からは地元を完全に離れて東京に行きます。地元にいると上記のことを含めて嫌な思い出が蘇るのです。 本当に虚しく寂しい気持ちが心を蝕んでいきます。

有り難し有り難し 20
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学会で虚しさ、疲れ。全てが嫌に。

いつもお世話になっております。 私は今、とある学会に出るために、はるばる関東から、北国の地に来ております。今日はその学会で発表したり、色んな先生たちとお会いしました。ただそれだけのことですが、どっと疲れており、悲しい気分になっているので、お助けを求めて、ここにまいりました。 私も皆んなも、好きで始めた研究なのに、そこは純粋に学問をする場というより、人脈を広げたり、根回しする場になっていると感じました。表面的な会話に絶望していますし、なんか自分はこういう感じに人と関わるのは無理だと思いました。他の人たちが研究者同士、ワイワイやっている中、私はひとりぼっちで疎外感を感じました。発表を聞いてくれた方々には感謝、学会の準備をしてくれた方々にも感謝ですが、なぜか変な満たされなさと疲れがあります。 なぜ学会のことだけで、と思うかもしれませんが、学会が終わった後、なんかもう色々な社会的なことが嫌になってしまい、誰とも会いたくないし、これ以上何かを目指して生きるのは無理だ、という気分になっています。本当は、自分のキャリアや家族の問題でやらなきゃいけないこと、考えなきゃいけないことがたくさんあるのに、もう無理だ、と人生に降参したくなっております。 明日は学会2日目なのですが、もう帰りたくなってしまいました。もう誰にも会いたくない、もうこの感じ無理だわ、と思います。カフェで1人で本でも読んでた方が、よっぽど豊かな時間になりそうです。なんで突然こんな気分になるのか、戸惑っています。こんな私に、お言葉いただけたら嬉しいです。

有り難し有り難し 25
回答数回答 2

大勢に流されるだけの無力な塵

「何をしたところで、自分の命など他人次第でしかない」「結局は圧倒的な力で簡単に殺される」という事実に無力感を抱いています。 官僚もメディアも利益重視なので日本はもう沈むだけですし、今は救命ボートに誰を乗せるか、誰を蹴落とすかの時代です。だから、生き物が元々持っている「価値の無いものへの差別的感情」が抑えきれません。労働が「ただの苦役」でしかないから誰もが最低限の仕事しかできず、終わりゆくこの国を救う革新的な方法を誰も編み出せません。私を含め、誰もが、「自分が被害者だから救って欲しい」としか言えないからです。 現実を見れば見るほど「ものすごいスピードで進む、いつ先がなくなるかわからない、けれど先がなくなることだけは確定しているトロッコに乗せられているだけ」という感覚が強くなるため、自分の生活に集中したくなります。しかし、それでは逃げるタイミングが見極められずに沈んでしまいそうで恐ろしくもあります。 私よりもずっと賢くて優秀なはずのたくさんの人が「もう日本は終わりだ」「戦争は避けられない」と言っていて、誰も解決策を見出せていないのだからきっとそうなのでしょう。私は、他者を害しなければ生存を保つことができない「生き物」そのものに強い不信感を抱いているため、どれほど恵まれようと、一生働かなくてもいい程の富を持っていようと、漠然とした絶望感を抱き続けるのだと思います。そして、現代はその絶望感を煽る事実ばかりが蔓延する時代です。 頑張らなければ生きられないのに、頑張ったところで生きられるとも限らない。結局、他人に対して「自分を生かす価値」を証明できるかどうか。そして、それさえ押し流す国家間戦争や自然の強大な力だってある。「殺される」という気持ちばかりが強くなっています。 「生きない」ことが最善で、全生命が同時に安楽に死滅するのが最も賢く幸せだという思いは10年近く変わってはいませんし、きっと一生変わりはしません。私自身がまともに働いて生きるという当然のことができない人間なので、子供を持つつもりは一切ありません。自分に安楽な老後があるとは一切思っていません。ただ、希望のないこの世界が続いていくのがどうしても腹立たしくて許せなくて仕方ありません。死んでもどうせまた生存競争の中に放り込まれる。やがては太陽と共に死滅する。そこらの塵でしかない自分を惜しんでしまうのが嫌なのかも。

有り難し有り難し 2
回答数回答 1

毎日が虚しい、悲しい、もうやだ

長文になりますが読んでいただけると嬉しいです。 のこと申します。今年21になった女です。 去年結婚し、現在は失業保険を貰いながら規定内でパートをしています。実質専業主婦みたいなものですが、夏頃までにはと、正社員での就職を目指しています。 最近無性に孤独でたまりません。 旦那と結婚式の話をした時、自分だけ呼べる人が誰もいないことに気づきゾッとしました。 10代半ばから今まで、苦しいことだらけでした。いじめ、不登校、大量のアームカット、援交、風俗、中絶、家庭内不和、と人には絶対言えないようなことをたくさん経験してきました。 逃げるように結婚し、今はだいぶ落ち着きましたがやはり頻繁に苦しくなります。過去の後悔、今後の不安、周囲への申し訳なさ、相談相手のいない孤独から押しつぶされそうです。 だけど、今まで起きた苦しいこと全て、自己責任です。 もともと友達もたくさんいて、家庭も裕福で、幸せだったはずなのに、何が気に食わなかったのか、自分でそれを壊してしまいました。 学歴も高卒で、職歴も大したものではなく、友達とも全員縁が切れている、こんな状況にしたのは全部自分です。 誰にされたでもなく、全て自分でやりました。 癖がついてしまったのか、今でもわたしは自分を不幸にする選択をしてしまう時があります。頭ではわかっているのですが、無意識に、そうしてしまうのです。 苦しいです。 やりたいことも頻繁に変化し、自分が何をしたいのか全くわかりません。 自分がどこへ向かっていくのか不安でたまりません。死んだ後地獄に落ちても構いませんが、せめて生きている間は幸せでいたいです。 わたしは一体どう生きたらよいのでしょうか?このまま生きていくと廃人になる気がしてなりません。 私なんかと結婚してくれた旦那には申し訳ないです。 消えてしまいたいです。 支離滅裂な文章でごめんなさい。

有り難し有り難し 5
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温かい気持ちになるお坊さん説法まとめ