hasunoha お坊さんが必ず答えてくれるお悩み相談サイト

お坊さんに質問する
メニュー
メニューを閉じる

自殺に救いはないのですか

回答数回答 2
有り難し有り難し 41

私自身精神疾患により、希死念慮に悩まされています。
ただ、幼少期に母親を病気で亡くしているので自傷、または自分から死へ向かうことは母に申し訳なくてできません。
(錯乱状態になったりした場合はわかりませんが。まずそうはならない疾患です)

長患いの中で、とても澄んだ心を持つ友達ができました。
彼女は自分だけを責めて、病気のせいなのに「こんなこともできない自分はダメだ」との思いを抱えて自ら旅立ちました。
私個人の考えでは彼女は自殺というより「病死」だと考えています。

身体的疾患での死は仕方ないととらえられますがやはり自死というのは公にするには憚れることもあるようで私が彼女の死を知ったのは旅立ってから3か月ほど後のことで、もちろんお葬式にもいっておりませんし、ご両親が特殊な宗教をなさっている関係からお墓参りもさせてもらえません。

「霊能者」というような人は「自殺した霊魂は救いがない」とか「ずっと真っ暗闇をさまようだけ」などと言う人が多いようです。
そんなのひどすぎる。あんなに苦しんだ挙句、誰も責めず自分だけを責めて、精神疾患による考え方の歪み・・あまりこの言葉使いたくありませんが・・もあっていってしまいました、あんなに苦しんだのにまだ苦しまねばならないなんて・・・

自らいのちを絶つということをよしとしているわけではないのです。
ただ、精神疾患(心の病気≠精神疾患)によりこのような結果になった方々にも救いはないのでしょうか。
もう一度申し上げますが、彼女が生きていた頃を知っている私は
彼女のことは今でも「病死」ととらえています。


この問答を娑婆にも伝える
facebookTwitterLine

お坊さんからの回答 2件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

大悲、 倦(ものう)きことなくして常に我を照らしたまう。

こんばんは。亀山純史と申します。

まずは、大切なお友達を亡くされたことに、お悔やみ申し上げます。
仏様の私たちに降り注がれている慈悲(救い)の働きには、仏様から私たちへの条件は何もないのです。つまり、「こうしなければ仏様はあなたを救いませんよ」とか、「このような人は仏様は救いませんよ」ということはないのです。
浄土真宗の開祖の親鸞聖人がお書きになられた「正信念仏偈」の中に、「大悲無倦常照我(だいひむけんじょうしょうが)」という一節があります。「無倦(むけん)」とは、「飽きることなく、見捨てることなく」という意味です。つまり、「仏様の慈悲(大悲)は、どのような人に対しても、見捨てることなく、常に私たちを照らし続けておられるのだ。」ということです。したがって、自死した人も救われるのです。それが仏様の慈悲(大悲)なのです。

以上が私からの回答です。そして、仏様の眼から見れば、私たちは決して、自死した人を責めることが出来るほどの存在ではなく、私たちも自死した人も、ともに同じ存在なのだ、ということです。

{{count}}
有り難し
おきもち

hasunohaを訪れてくれた皆さん、こんにちは。私は浄土真宗本願寺派の僧侶です。令和6年3月に、公立高校の教員を勧奨退職しました。その後、縁あって、令和6年4月からは「まちサポ雫石」というNPO法人のお手伝い、また、令和6年10月からは公立高校の非常勤講師をしています。 浄土真宗における僧侶は、仏さまの教えに生き、その教えを伝える者であり、人を悩みから救う能力を有した者ではありません。人の悩みを救う救いの主は阿弥陀さまです。ですので、hasunohaにおける私の回答では、仏さまの教えに救われているこの私の生き方、考え方を、皆様にお見せするだけです。そして私自身、お答えできるご相談の範囲はそう広くはありませんが、皆様のお役に少しでも立てればと思い、回答させて頂いております。

みんなで救ってあげましょう。

酷いことを言われてさぞかしお辛かったことであろうと思います。

ご自身も大変お辛い人生を歩まれてきたのではないでしょうか。
どうしてこの世で生きることだけでさえ辛かったからこそ、自ら命を絶ってしまわれたのに、どうして、されに追い打ちをかけるようなことを言われなければならないのか。
それは言葉というものが両面・双方・二つの意味、いや、それどころか無数の意味、沢山の響きを持つものだからです。だからこそ、救いの方向へ向けられなければなりません。
本当はその言葉というものは、これ以上自ら命を絶つ人が生まれないようにという願いも込められているのではないでしょうか。ですが、言葉ゆえに別の人には違う響きを持って生まれてしまうものです。悲しいこと、苦しいこと、痛ましいことに向けてはいけないのではないかと私は思います。

自ら死を選んだ方であっても、病死であられても、不慮の事故に遭われて命を失った方でも、震災で亡くなられた方も、人の死というものはその死としては「亡くなられてしまった」という事なのではないでしょうか。誰であってもこの世に生きて存在していた偉大なる尊厳の死であると思います。

人が亡くなられた後、あの人はきっと今も苦しんでいるのではないかと思われるのは、亡くなられた方ではなく、生きている人たちやご遺族の方々です。

だからこそ、大事なのは遺族の方々が、その後「どこへ向かうべきか」なのです!
人間は誰であっても、望ましくないことが起こりますと心が彷徨います。
心がどこに行っていいのかわからなくなってしまうのです。
辛いこと、悲しいこと、望ましくないことが起こった後に、心は本当はどこへ向かうべきでしょうか。
苦しいまま、辛いままでいるべきではないのです!
人は不慮の事故で亡くなられてしまったにしても、寿命で亡くなられてしまったにしても、その死そのものには差があるわけでもなく、格差があるわけでもないはずです。
ちゃんと生きて、存在していたわけです。
その人の死は死だけに用があるのではありません。
生があるからこその死なのですから、死という一瞬の出来事よりもその生きた証、偉大なる尊厳を讃えるべきです。
仏教では菩提心を説きます。
心を最高最上の心へ向かわせるのです。
あなたが菩提心をもって自分のその友人もお母様も他者も皆を救ってあげようという心を持つことで救いの道は開かれます!

{{count}}
有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

質問者からのお礼

私の稚拙な疑問に答えていただき、ありがとうございました。
仏様はどのような人もお見捨てにならない、その言葉が心に響きました。
私は友を責めてはいませんが、所謂「霊能者」なる人々であっても自死した人を貶めることができるような人間ではない、みんな同じ。
友は短い一生を駆け抜けました。私にどれほどの生が残されているかわかりませんが、仏様の大きなお慈悲に抱かれていることを忘れないように一生を大切に生きていきたいと思います。

ご回答ありがとうございます。
友が生きていた頃の楽しい思い出はたくさんあります。
話は違いますが、ペットが亡くなった時に亡くなる前病気などで苦しんだことばかりにとらわれて
「ごめんなさい」の気持ちでいるのではなく、ペットと楽しく元気に過ごした頃のことを考えて
「ありがとう」の気持ちでいなさい、というようなことを読んだことがあります。
おっしゃる様に人間は誰しも死に向かうものですが「自殺した人(霊?)に救いはない」という言葉は簡単に死を選ぶことを諫める働きもあると思うのです。
ただ友の場合は精神疾患もあり、あまりにも澄んだ心の持ち主でもあったため、この憂き世で過ごすのは限界ではなかったのか、という思いがありました。
私も苦しい人生を歩んでいます。完治のない疾患に苦しみ、理解されない中での生ですので。
でも寿命が来るまで一生懸命生きていようと思いました。
友との楽しかった思い出を大切にし、彼女の親御さんは特殊な宗教で弔うことを禁じているので難しいかと思いますしお墓も教えていただけませんが、私は私のいるところで彼女を悲しみの中でではなく一緒にいられたころの楽しかった思いを持って、私自身頑張って生きていこうと思います。
ありがとうございました!

煩悩スッキリコラムまとめ