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僧侶の皆様でも

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前回の質問では、僧侶の先生方の的確で分かりやすいご回答ご指導を頂きまして、心より感謝申し上げます。俗世間の人々は、怒ったり恨んだり色々な事柄に悩み苦しんだり致します。僧侶の先生方も、怒ったり恨んだり、悩み苦しんだりすることはあるのでしょうか?仏道を歩まれて、十善戒・六波羅密・八正道等の実践をされていることであろうと思いますが、それでも腹を立てたり、怒ったり、恨んだり、妬み嫉みの気持ちを起こされることはありますか?大変気になっています。どうかご回答の程、よろしくお願いいたします。


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お坊さんからの回答 4件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

煩悩は無くなりません。

それに振り回されることは少なくなったのかも知れませんが、
腹を立てたり、怒ったり、恨んだり、妬み嫉みの気持ちは
相変わらず湧いてきます。

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有り難し
おきもち

 浄土真宗(大谷派)/広島県広島市/17世住職。  1967年京都市生まれ。山形大学理学部卒業後、証券会社で勤務。30歳で脱サラし、親戚筋の超覚寺に入寺、45歳で住職継職。  遺族の分かち合いやお悩み相談などグリーフサポート活動を続け、お寺の掲示板による法語伝道にも尽力している。カープ坊主の会会員。
こちらに法事が入っていなければ、ご希望の日時に相談させていただきます。 想いを吐き出しても、あなたの環境は変わりませんが、あなたの気持ちは変わっていきます。 どうぞ安心してお話しください。

感情はなくならない

感情が無くなったら人間じゃありません。
心理作用は誰にでも生ずるものです。
たとえば怒りの作用は原因があるわけです。その原因を取り除けば怒りが生じなくなるというだけです。
人間は知らず知らずのうちに自分アプリ・自分ルール・マイルール・マイワールドが起動され、展開されています。
その状態で生きていれば誰であっても怒りが出てくるのは当然という事です。
だから、仏の教え・法を聞いて自己を学び、坐禅や瞑想や念仏などの仏道修行という自己を見つめ、自己をおさめる行を通して心を安らかに保つ必要があります。
一度やったらもうそれで良いという事はありません。
歯磨きだって洗濯だって毎日行われるものでしょう。
坊さんだから怒らない、坊さんだからなんちゃらではなく、
人間は誰でもそういう心情が生ずるからこそ、そこで苦しまないように生活するという事です。
修行というものは何をどう修行するかが大事です。
心のおさめかた、処し方、日々の心のありようをどうするか。
そこが明らかになることで、本当にやるべきことが明らかになります。
本を読む、電話する、人と話す、料理を作る、ご飯を食べる、何をするにも「どう」するかが大事ですからこそ、その軸となる心のおさめ方、あり方が「どう」あればよいのか。それを説いたのが仏教の様々な教えです。お坊さんだからどうだという事は無いと私は思っています。
(*´Д`)

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有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

悟りには程遠い凡夫ですから、毎日のように沸き起こります。日々、一瞬一瞬、努力するだけです。

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おきもち

私は浄土宗の坊さんです。 少しでも何か参考になればと思って回答していますが、無知未熟ゆえに質問を読ませていただくことしかできないことも多々ありますがお許しください。 回答は私個人の意見や解釈もあり、場合によっては浄土宗の教義とは少し異なることもあるということをご了承ください。 また、寺の紹介ページに電話相談についても紹介していますのでどなたでも気兼ねなくご利用ください。 ハスノハのお坊さんがもっと増えますように。 合掌 南無阿弥陀仏

菩薩五十二位

尾上松雀様

川口英俊でございます。問いへの拙生のお答えでございます。

煩悩、無明の対治は、そう容易なことではありません。

確かに、ご縁があって、ここ日本において一応は「僧侶」と言われる立場となりますが、僧侶となるための修行を、まあそれなりにしたところでも、そんな簡単に煩悩を無くすことはできないものでございます。

もちろん、菩提心を持って、仏道を歩む自覚があれば、その分は、多少の律義を守れるところがあっても、煩悩・無明自体を無くせるところまではなかなかであります。

菩薩の修行の過程として、「菩薩五十二位」にまとめられていますが、

十信(願心・戒心・廻向心・不退心・定心・慧心・精進心・念心・信心)

十住(灌頂・法王子・童真・不退・正信・具足方便・生貴・修行・治地・発心)

十行(真実・善法・尊重・無著・善現・離癡乱行・無尽・無瞋根・饒益・観喜)

十廻向(入法界無量・無縛無著解脱・真如相・等随順一切衆生・随順一切堅固善根・無尽功徳蔵・至一切処・等一切諸仏・不壊一切・救護衆生離衆生相)

十地(法雲・善想・不動・遠行・現前・難勝・焔光・発光・離垢・歓喜)

最後に、「等覚」と「妙覚」とあり、五十二位となりますが、このうち、煩悩が完全に無くなるのが、十地の第八地に至ってにて、ようやくそこで聖者(阿羅漢・縁覚)と言えることができるのであります。

しかし、煩悩を断じたものの、それで終わりではなく、煩悩の習気としての所知障がまだ残っており、それを断じることを第八地以上にて努力し、やがてその所知障を断じることにより悟りを開き、ようやく如来となることができるのであります。

では今の拙生はと申せば、まだ十信の段階にあるかないかぐらいにて・・煩悩を断じるまでも遥か及ばないところであります・・

それでも諦めずに、とにかくできるだけ前へと向けて一歩一歩努めて参りたいものでございます。

川口英俊 合掌

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おきもち

最新の仏教論考はこちらでご覧頂くことができますが、公開、非公開は随時に判断しています。 https://blog.goo.ne.jp/hidetoshi-k

質問者からのお礼

今回も4名の先生方にご指導頂き、ありがとうございました。

和田先生 前回に引き続きご指導賜りありがとうございました。心振り回されないように、仏道に沿った生き方をして参ります。

丹下先生 前回に引き続きご指導賜りありがとうございました。先生のご指導を伺って、スッキリしました。自己を抑える行を僕も行って行きます。

川口先生 前回に引き続きご指導賜りありがとうございました。大変詳しくご指導下さり、勉強になりました。

三宅先生 この度はご指導賜りありがとうございました。やはりそういう心は起きるのですね。僕もそれを踏まえた上で、日々仏道に沿った生き方をして参ります。

煩悩スッキリコラムまとめ