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僧侶の皆様でも

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有り難し有り難し 102

前回の質問では、僧侶の先生方の的確で分かりやすいご回答ご指導を頂きまして、心より感謝申し上げます。俗世間の人々は、怒ったり恨んだり色々な事柄に悩み苦しんだり致します。僧侶の先生方も、怒ったり恨んだり、悩み苦しんだりすることはあるのでしょうか?仏道を歩まれて、十善戒・六波羅密・八正道等の実践をされていることであろうと思いますが、それでも腹を立てたり、怒ったり、恨んだり、妬み嫉みの気持ちを起こされることはありますか?大変気になっています。どうかご回答の程、よろしくお願いいたします。


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お坊さんからの回答 4件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

煩悩は無くなりません。

それに振り回されることは少なくなったのかも知れませんが、
腹を立てたり、怒ったり、恨んだり、妬み嫉みの気持ちは
相変わらず湧いてきます。

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有り難し
おきもち

和田隆恩
 浄土真宗(大谷派)/広島県広島市/17世住職。  1967年京都市生ま...
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感情はなくならない

感情が無くなったら人間じゃありません。
心理作用は誰にでも生ずるものです。
たとえば怒りの作用は原因があるわけです。その原因を取り除けば怒りが生じなくなるというだけです。
人間は知らず知らずのうちに自分アプリ・自分ルール・マイルール・マイワールドが起動され、展開されています。
その状態で生きていれば誰であっても怒りが出てくるのは当然という事です。
だから、仏の教え・法を聞いて自己を学び、坐禅や瞑想や念仏などの仏道修行という自己を見つめ、自己をおさめる行を通して心を安らかに保つ必要があります。
一度やったらもうそれで良いという事はありません。
歯磨きだって洗濯だって毎日行われるものでしょう。
坊さんだから怒らない、坊さんだからなんちゃらではなく、
人間は誰でもそういう心情が生ずるからこそ、そこで苦しまないように生活するという事です。
修行というものは何をどう修行するかが大事です。
心のおさめかた、処し方、日々の心のありようをどうするか。
そこが明らかになることで、本当にやるべきことが明らかになります。
本を読む、電話する、人と話す、料理を作る、ご飯を食べる、何をするにも「どう」するかが大事ですからこそ、その軸となる心のおさめ方、あり方が「どう」あればよいのか。それを説いたのが仏教の様々な教えです。お坊さんだからどうだという事は無いと私は思っています。
(*´Д`)

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おきもち

悟りには程遠い凡夫ですから、毎日のように沸き起こります。日々、一瞬一瞬、努力するだけです。

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有り難し
おきもち

私は浄土宗の坊さんです。 少しでも何か参考になればと思って回答しています...
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菩薩五十二位

尾上松雀様

川口英俊でございます。問いへの拙生のお答えでございます。

煩悩、無明の対治は、そう容易なことではありません。

確かに、ご縁があって、ここ日本において一応は「僧侶」と言われる立場となりますが、僧侶となるための修行を、まあそれなりにしたところでも、そんな簡単に煩悩を無くすことはできないものでございます。

もちろん、菩提心を持って、仏道を歩む自覚があれば、その分は、多少の律義を守れるところがあっても、煩悩・無明自体を無くせるところまではなかなかであります。

菩薩の修行の過程として、「菩薩五十二位」にまとめられていますが、

十信(願心・戒心・廻向心・不退心・定心・慧心・精進心・念心・信心)

十住(灌頂・法王子・童真・不退・正信・具足方便・生貴・修行・治地・発心)

十行(真実・善法・尊重・無著・善現・離癡乱行・無尽・無瞋根・饒益・観喜)

十廻向(入法界無量・無縛無著解脱・真如相・等随順一切衆生・随順一切堅固善根・無尽功徳蔵・至一切処・等一切諸仏・不壊一切・救護衆生離衆生相)

十地(法雲・善想・不動・遠行・現前・難勝・焔光・発光・離垢・歓喜)

最後に、「等覚」と「妙覚」とあり、五十二位となりますが、このうち、煩悩が完全に無くなるのが、十地の第八地に至ってにて、ようやくそこで聖者(阿羅漢・縁覚)と言えることができるのであります。

しかし、煩悩を断じたものの、それで終わりではなく、煩悩の習気としての所知障がまだ残っており、それを断じることを第八地以上にて努力し、やがてその所知障を断じることにより悟りを開き、ようやく如来となることができるのであります。

では今の拙生はと申せば、まだ十信の段階にあるかないかぐらいにて・・煩悩を断じるまでも遥か及ばないところであります・・

それでも諦めずに、とにかくできるだけ前へと向けて一歩一歩努めて参りたいものでございます。

川口英俊 合掌

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有り難し
おきもち

Eishun Kawaguchi
最新の仏教論考はこちらでご覧頂くことができますが、公開、非公開は随時に判断...
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質問者からのお礼

今回も4名の先生方にご指導頂き、ありがとうございました。

和田先生 前回に引き続きご指導賜りありがとうございました。心振り回されないように、仏道に沿った生き方をして参ります。

丹下先生 前回に引き続きご指導賜りありがとうございました。先生のご指導を伺って、スッキリしました。自己を抑える行を僕も行って行きます。

川口先生 前回に引き続きご指導賜りありがとうございました。大変詳しくご指導下さり、勉強になりました。

三宅先生 この度はご指導賜りありがとうございました。やはりそういう心は起きるのですね。僕もそれを踏まえた上で、日々仏道に沿った生き方をして参ります。

「お坊さんのことを知りたい」問答一覧

他人がやってる寺を兼務で引き受けたくない

40代独身で、500件ほどの檀家がいる田舎の寺の住職をしております。 近所の住職死亡後、やり手のない寺を数件、兼務しており、合わせると500件ほどになります。 もともと別の自宅住まいでサラリーマンをしてましたが、途中親が病気にかかり、長男で跡取りだった私に、やってくれと親から頼まれて継いだのがきっかけで、仕事を辞めて継いだのですが、もともと私は他人とコミュニケーションを取るのが苦手なので、現在寺の檀家との関りが大変で、葬式が入る都度、寺の仕事が嫌でたまりません。 そのような状態で、精神科に通院しながら、精神安定薬と睡眠薬を処方してもらいながらなんとか寺の仕事をしてます。独身の姉にも協力してもらい、私が檀家の対応全般、姉は裏で火事全般しながらどうしてもの時だけ檀家の対応・・・みたいな感じでやってます。 近所に檀家100件にも満たない兼業住職がおり、結婚してますが子供に恵まれなかったようで、私はその寺のほうるいという立場になってます。 その寺の行事を手伝っているのは私だけで、ほかにもほうるい住職が数名いますが、書類の名前だけで、何かあっても一切かかわりたくないような状態になってます。 その住職が近々危なく、後もいない状態で、その住職の兄弟などの身内はいても、皆仕事をしており、寺なんかやりたくないと皆いっております。 今後その住職はなくなった際は、ほうるいの私がその寺を兼務として引き受けないといけないのでしょうか? 今現在500件ほどの檀家の対応を私と姉で行っており、相当きつく、これ以上ほかの住職がやってる寺の檀家のめんどうまで見れません。 正直な話、もう今なんとかやってる自分の寺の檀家の対応だけでも相当大変なので、これ以上ほかの寺の檀家まで兼務で押し付けられたくなく、関わり合いになりたくありません。 こういった場合、今後その住職がなくなった際、その寺の兼務を断ることは可能でしょうか? 本山に事情を説明し、頼めばだれか代わりの住職を派遣してもらい、後を継いでやってもらうことはできるのでしょうか?

有り難し有り難し 3
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お坊さんの勤務形態について教えて下さい

離婚問題で悩んでいる時、バツイチのお坊さんと知り合いました。最初彼から遊びの誘いがあり。失礼な人と断りました。今は友人として付き合っています。 友人関係が続いたのは、後日先日の行動が人として大変失礼な対応だった。反省していると、彼から謝罪があったからです。その際にも、ちゃんとしたお付き合いの話はありませんでした。 私は元夫から多種のDVをうけ男性不信になりました。いつか恋愛出来たらいいなと夢見ながら、男性が怖いです。結婚は絶対に無いです。 加えて彼は寺の跡取りで一緒に家庭を築き、寺に入り子供を産める人を探しています。私は子供を産むこともできません。だからあえてハッキリさせないようにしてました。 その後仲良くなるにつれ、プライベートを明かさなかった彼が以前より私にプライベートを見せるようになりました。気付けば毎日メールで連絡をし、月2~3回程度、昼夜時間を割いては健全に遊んでいます。トキメキはないけど気持ちは【凪】です。友達以上恋人未満の1番いい感じの時 自然と今以上仲良くなる予感があり、仲良くなりたそうな行動が見えたり、泊りがけで旅行に行くような話もチラホラ、ただ、お坊さんの勤務形態ってどうなんでしょう? 私は会社員で有給もあります。毎月月末に翌月の予定が未定。次のデートの約束は大抵決まりません。休みがまだ決まらない。分からないって、そんな事ありますか?もうずっとそんな状態で、深く付き合いたくないから、遠回しにそう言ってるのだと思うようになりました。 嫌なら嫌と言って欲しいのに旅行は行きたい、遊ぶのも仕事終わりなら全然大丈夫、凄いケチなのに自分から遊びにも誘って車も出してくれます。 どうゆうこと?と、モヤモヤしてますが、でも誰にも聞けず、彼もはっきり言わないので、やっぱり遊ばれているのでは?と思う反面、彼は嘘をつくのがべらぼうに下手で、私には嘘をついた事がない為、もしかして本当なのかも?と思いたい気持ちからこちらにお聞きしました。 休みが分かりにくいって業界的に本当ですか?何でですか?ちなみに彼は実家の住職をしながら、別のお寺に本業で務めています。本業の休みの日に実家で法事をしたりしています。 この関係がハッピーエンドにはならないと分かっていますが、一緒にいるだけで気持ちが穏やかになれる相手です。嘘ばかりの元夫の毒が抜けていく気がして魂が救われています。

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尊重とはどこまでですか?

ハスノハのお坊さまのおかげで「他者を尊重することが大事」なのはよくわかったのですが、尊重とはどこまでするものでしょうか? モラルに欠けた発言なども尊重するべきなのかと考えたりします。そもそもモラルというのも曖昧だと思うのです。人によって違うと思うので。 「平和だからこそ戦争が必要だ」なんて言う人もいると思うのです。これは一般的には理解されないし尊重されないことだと思いますが、「他者を尊重することが大事」ならそれすらも認めることになるのかなと思います。 これが"尊重"なら、もし私が仮にいじめを受けたとしても「これ(いじめ)すらもその人の一部なのだな...」と思うのではないかと思います。 いじめや犯罪や浮気や不倫など、世界の"事"全てです。 社会のルールを基準にするのかな?とも思いましたが、それは"社会の思い込み"の可能性もあると思いますし、何よりそれは「他者を尊重できている」のでしょうか? 社会のルールという名の"正義"で個人個人を存外に扱っているのでは?と思います。 倫理も一緒です。全て人によって違うと思うのです。 例. Aさん「別に人をいじめてもいいでしょ?」← これも"Aさんの考え"で「Aさんの一部」なのかなと捉えてしまいます。この場合、Aさんは他者を尊重できていないと思います。ですが、それを注意すればAさんの価値観や考えを否定している(尊重できていない)ことになるのかなと思います。 そうなると無関心に見えると思いますし、この文章の通り「〜と思います」や「〜なのかな」などボヤっとしてハッキリしなくなると思います。 その結果、他人が「〜でしょ」や「〜です」と言うことに神経質になると思います。なぜなら、それがその人の思い込みの可能性があるからです。 でも、その人の思い込み = その人の意見なのでモヤモヤしても無理して尊重する。 尊重とはどこまでですか? 行き過ぎれば無関心に見えてきます。"相手とは違う自分の意見"を言えば否定されていると思われ、注意すれば「他者の意見を尊重できていない」ことになり、じゃあ何も言わないとなれば、無関心と見える。 お坊さまは尊重する際、何を"基準"に持ってらっしゃいますか? 乱文で申し訳ございません。

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温かい気持ちになるお坊さん説法まとめ