友人と疎遠になり寂しさを感じています。
私は元々、心許せる友人と少人数で集まるとか、一人で読書等をする方が好きな方で、人の私生活に深く立ち入るのも、自分の私生活に立ち入られるのもあまり好まない所があります。
それでも、少なければ少ないなりに仲のいい友達はいていい関係だったと思いますし、夫、舅姑とも円満にやっていました。
しかし、年を重ね、友人とも物理的に離れたり、お互いの生活が違ってくると交流もままならず、話も弾みにくくなるので疎遠になる事も多くあります。女子会などが好きな方ではないので、なかなか新しい友達もできにくく、寂しさを感じています。無理して同調するのも疲れる気がしますし、つるむだけの友達ではなく、もっと深い部分で親しくなりたいと思っています。
今のところ、健康には不安がなく、生活の心配もありません。
結婚十年以上になりますが、夫、姑との関係も良好です。しかし、近くにいる友達らしい友達は1人か2人だけになりました。
もっと大変な悩みを抱えている人からしたら贅沢な悩みになるのかもしれませんが、子供もいないのでいつか一人になるような気がして不安になる事が時々あります。もっと明るく前向きに生活するにはどのように考えたらいいのでしょうか。助言を頂けたらと思います。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
友達は何のために必要か?再確認しましょう。
くるみさん。私からは何のために友達が必要か?を考えて付き合っていく方が賢明かもしれません。実はワシも同じ悩みを持っていました。「友達100人出来るかな♫」などという歌があるもんだから、友達を作らねばならないと思って、生まれてから頑張ってきました。しかし、ある日を境に止めてしまいました。「お前友達だろ。」の一言に何度無理難題を吹っかけられたか、いじめ、無視、裏切りは日常茶飯事。自分がこれがしたいのに友達がしたくないがためにどんなに諦めてきたことか。そのうち「何だ、どんなに親切にしても私の話を聞いてくれない。自分のしたいことも出来ない。こんな友達ならいらない。まだ一人の方がどんなに楽か?」と思い、『下妻物語』を観て、一気に目が覚めました。「友達100人いらない。自分がしたいこと、行きたいところに行くぞ。」と決意し今に至っています。でもね、不思議なことに自分のしたいこと行きたいところに行っている内にそのコミュニティーごとに仲間が出来、世間一般に友達と呼べないかもしれないですが、心が通じ合える仲間が出来た気がします。相手がどう思っているのかは解りませんが・・・。
自分勝手に生きるのとは違う気がしますが、恐らく他人から言わすと自分勝手かもしれません。嫌われ者、はぐれ者、変り者が当てはまるのかな?他の人は強い人の顔色を窺いながら関係を築いているのに私は空気読めないことばかりする。やりにくい人なのかな?嫌いな人は私の事嫌いと思いますが、それなりに関心を持っている人は行動を共にすることもあります。
くるみさん、一人が寂しいと感じるのは友達の多さではありません。自分が何に生きがいを持っているかないかです。今自分が何をすべきか、何をしなくてはならないかということを見つけてください。友達と呼べる人は後からついてきますよ。
私は万人の友である
お釈迦様には、友達はいませんでした、びえーん。(ToT)
、、、とは申しません。
お釈迦様は「私は万人の友である」という尊い生き方。
「アイツはイイ奴だから友達、あいつはヤな奴だから友達じゃない」という小さなくくりではないのです。
友達がいるからって毎日、毎週べたべたするもんでもないでしょうし、あの世にゃ連れてけません。それより孤独感そのものを滅する方法。
それが、お釈迦様の「私は万人の友である」という広くフカい生き方。
主婦ならば洗い物が終わったらスポンジは手離すでしょう。ずっとつかんでいる必要はありません。ワタクシ意識というタワシをいつまでも握ってないで、思いの泡を洗って手離しの状態。持ち物の何もない余裕状態。そこにもうひとスパイス説法
・坐禅をすると世界中がゴチソーになります。
・坐禅になると一切の存在が語りかけてくれます。
・よって日々坐禅状態になると万物と友達になれます。
ここでいう坐禅に「なる」とは、坐禅をするということでなく、日常生活が坐禅の時と同じように考え事から外れたホトケ意識状態のことです。
たとえるにココロの鍋の中にボコボコと泡が出てくる原因である自我の火を消してしまう。
自然に思いの泡は出ても消えてもホットケさま。かき回さず、手をつけず、何もせずレンジで数分チン状態。
そうするとアレコレ考えを起こす以前の閑寂なこころになります。
その時、自分という雑穀意識は米粒、ひえ、あわ程もアマランサス。
自分が無いからいいのです。自分ジブンした意識が無いからこそ誰とでも、物とでも友達になれるのです。もはや、そこに孤独はありません。
あなたのお皿には孤独だ、孤独だという意識がべったりとついています。
一度一切のワタシ意識をワタシでよくこすって泡もよくあらい流してみましょう。
綺麗なお皿、プレートであれば毎日どんなものを乗せてもおいしく食べられます。
お皿をこすってキュコキュコ♪音が鳴るくらい綺麗にな心にならないと気持ちも晴れやかになりません。
洗い立てのお皿のようなアナタを取り戻すためにも一度坐禅会にお越しください。
茨城県ですと耕山寺というお寺で知人の松浦師がソウルフルな参禅会を開いています。
友だちの友だち
お昼時に人気を博している長寿テレビ番組が間もなく終了だそうですが、その番組内で繰り返されたフレーズが「友だちの友だちはみな友だちだ」というものでした。くるみさんは現在お友だちが1,2人と書かれていらっしゃいましたね。もしこれがゼロなら、友だちの友だちはいないことになってしまいますが、そうではありません。
大切なお友だちをさらに大切になさってください。いつかきっとそこから広がりが生まれてくるはずです。
もし万が一、ひとりぼっちになったとしても、同じように寂しい思いをされている方が必ずおります。
「ひとりぼっちが二人いれば、それはもう一人ぼっちじゃないんじゃないか」
これは重松清の小説『青い鳥』で先生が生徒に語る言葉です。
くるみさんが、深い部分で分かりあえる人が欲しいと願う限り、たとえ時間がかかっても必ずそのような方と巡り合えると私は信じています。
覚悟
兼業主婦くるみさま
なごみ庵の浦上哲也と申します、よろしくお願いします。
ご家族との仲も良く、人数は少なくても友人はいる。ご相談の文を読んで、くるみさんの心配は遠い将来のことなのではないかと感じました。
必ずしも順番通りではありませんが、親御さんが先に亡くなる可能性の方が高いです。
そして、男女の平均寿命を見れば、将来ご主人が先に、という可能性もありえます。
その時、くるみさんはお一人になります。不安で、心細いのではないですか?
実は私も子どもの縁に出逢えなかったので、同じ不安があります。考えると、とても心細くなります。友人や親しい人は今はいますが、ずっといてくれるかは分かりません。
「もっと明るく前向きに生活するには」と仰いましたね。いつかやってくる問題から目を背ければ、表面上は明るく前向きに生きられるかもしれません。でも私は、目を背けるのではなく真っ正面から見つめて、覚悟をしておく生き方のほうが、本当の意味で前向きなのではないかと思います。
私は、もし仏教に出逢っていなかったら、この覚悟は持てていないと思います。いつか辛い別れがあった時、もし私が耐えられるとしたら、それは仏の教えのお陰だと思っています。
参考までに、よろしければリンク先ご覧下さい。
http://www.hongwanji.or.jp/mioshie/howa/min111001.html
追伸
悩みに比較は馴染まない、という言葉があります。どんな内容であっても、悩んでいる当人にとって、それは大きなものなのですから、「贅沢な悩み」などと仰らず、ご相談下さい。
「縁」
兼業主婦くるみ様
川口英俊でございます。問いへの拙生のお答えでございます。
かつて同じような悩みをお抱えの方からも下記のようにご質問を賜りました。
問い「縁を結ぶのが苦手」
http://hasunoha.jp/questions/246
この際には「ご縁」につきまして少し述べさせて頂きました。
何事も「縁」によりて成り立っている「縁起」なるありようの世界だと仏教ではご説明申し上げます。
人付き合いもこの「縁」次第となりますが、もちろん、人との縁も出会いを求めていけばいくほどに、色々と人付き合いも増えていくでしょうし、全く逆に出会いを求めなければ、人付き合いは減っていくことになります。
また、縁には、良縁もあれば、悪縁もございます。
上記の拙回答からの引用となりますが・・
「色々なご縁は確かに大切なことですが、やはり自分のしたいこと、やりたいこと、必要なことに応じて、人付き合いもうまく考えていくことが肝要となるのではないかとは存じます。また、逆に人付き合いが過度にストレスとなったり、トラブルの原因になることもありますから注意することも必要となります。とにかく、縁には、良縁があれば、もちろん悪縁もございます。それもうまく見極めながら、悪縁は素早く断ち切り、できる限りに良縁を呼び込めるように調えて行くためにも、一つには人付き合いも、あまりとらわれず、かたよらず、こだわらずのバランス関係を保つことと併せて、できるだけ相手への気遣いや思い遣りの心を養うことも必要になるかと存じます。・・」
縁を調えていくためには、「縁尋機妙 多逢聖因」と申しますように、一つは良い縁を呼び込めていけるように、良い縁を大切として、また良い縁に恵まれるように調えること、更には、良い人たちとの交わりにより、良い結果にも恵まれるように調えることが肝要となります。
良い縁を呼び込むためには、自身を調えることも必要となります。自身が暗く、元気なく、後ろ向きに暮らしていては、到底良い縁を迎えることはできません。明るく、元気に、前向きにを心掛けていくことも大切になるかと思います。
また、下記問いへの皆様のご回答も色々と参考になることがあるかと存じます。
問い「前向きに生きるには」
http://hasunoha.jp/questions/332
川口英俊 合掌
不請の友を持ちましょう
兼業主婦くらみ様、ご質問ありがとうございます。
近くにいる友達が少なくなり、いずれひとりぼっちになるのではないか?
そういう漠然とした不安を抱いている方も、たくさんおいでかもしれません。
「不請の友を持ちましょう」と書きましたが、「不請(ふしょう)の友」とは、お経に出てくる言葉です。
様々な人と進んで友となる、というくらいの意味で、「仏説無量寿経」というお経の言葉です。
じつは、これは仏様や菩薩様の働きのことをたとえています。
衆生が求めていなくても、仏や菩薩の方から、進んで友となる。
今現在、人間関係も好調とお見受けいたしますし、さしあたっての不安は見あたらないようですね。
急ぐ必要はありません。
お互いが「不請の友」として、進んで友情を交わし合う人がきっと見つかることと思います。
ただ、あなたからも「進んで」友情を示していきましょう。
質問者からのお礼
ありがとうございます。急がず、焦らず、進んで友情を示していこうと思います。
いろんな回答をいただき感謝しています。
友人知人はいつまで傍にいてくれるかはわからない、親はたいていの場合先立つ、平均寿命から言えば夫もその可能性が高いわけですから、焦りや不安がありました。大人になると友人はなかなかできないのに、生活環境の変化などで離れていく人も多くなりやすいように思えますし。
そう云った覚悟をしつつ、友人の必要性も再確認し、自分の生活を大事にしていこうと思います。
明るく前向きに生活していくつもりで頑張ります。