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どうしても笑いを耐えられない。

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今私は学生で、 学校に通っているのですが一つ問題があります。

それは、先生の前でなぜか笑いが込み上げてきて、爆笑とまではいかないのですが、にやにやしてしまいます。

先生の顔が面白いわけでもなければ、誰かにくすぐられたりと言う ちょっかいを出されたわけでもありません。

ただ先生の顔を見てしまうだけで なぜか知らないんですけれども笑いがこみ上げてきます。

もちろん先生にも怒られました。 なので自分のせいでもないのになぜか怒られてることが苦しくて大変です。

たまに先生に怒られてる時にも笑いそうになるので、そのときは 本当に地獄です。

先生や友達家族に相談しても みんな 分かってくれません。 なのでネットで調べてみたところを失笑恐怖症というのが出てきました。 対人恐怖症の一つらしいです。 まだ失笑恐怖症と決まったわけではないですけれども 自分がそれのような気がして、 将来的な接客業などはとても難しくなるのではないか と そこまで思うようになって悩んでいます。

この文章を読んでいただいてる僧侶様にも 仏教とは全然関係ないのですがご回答いただければ幸いだなと存じます。


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お坊さんからの回答 2件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

失笑恐怖症

私もテレビで初めて知りましたが、
その可能性を感じるなら
1度診察を受けてみられては?
そこがハッキリするだけでも
少しは安心できるかと思います。

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 浄土真宗(大谷派)/広島県広島市/17世住職。  1967年京都市生まれ。山形大学理学部卒業後、証券会社で勤務。30歳で脱サラし、親戚筋の超覚寺に入寺、45歳で住職継職。  遺族の分かち合いやお悩み相談などグリーフサポート活動を続け、お寺の掲示板による法語伝道にも尽力している。カープ坊主の会会員。
こちらに法事が入っていなければ、ご希望の日時に相談させていただきます。 想いを吐き出しても、あなたの環境は変わりませんが、あなたの気持ちは変わっていきます。 どうぞ安心してお話しください。

本当は笑いは最重要課題ではない

今やお笑い番組は毎日テレビをつければ目にする光景で、お堅いNHKですら笑いを番組に取り入れるようになりました。
面白いことを言った方が、場が和むということはありますが、深い意味においては本当は「じっとしていられない心理」なのではないかと思うことがあります。
人前に出ると何か取り繕わなきゃいけないんじゃないかという心理やリップサービス精神が生じてしまうのかもしれません。
社会に出て上手に用いれば人を和ませるトークスキルになるでしょう。
人間に備わっている能力で悪いものはありません。
時と場所と状況における活用次第で悪いものになったり、良いものにもなります。
あなたの個性として上手に用いてください。

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有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

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