仏様にお祈り(?)する内容について
久しぶりに相談させていただきます。もし過去の相談に答えてくださっている方がおられましたら、その節は本当にありがとうございました。
最近、日常生活の中でしんどいことやつらいことが多く、もう死んでしまいたいと思ってしまうこともあります。そのようなことをこの前、クリスチャンの友人に相談したところ、彼女はしんどい時は神様に「状況がよくなりますように、神様支えてください」とお祈りするのだと言っていました。
そこでふと疑問に思ったのですが、浄土真宗(家の宗派なので、他は詳しくなくてすみません)では南無阿弥陀仏とお唱えすれば極楽に行けるといいますよね。しかし、今現在苦しいときに、仏様にお祈りなどをして頼ったり、支えていただいたりすることはできないのでしょうか。仏様にお願いできるのは極楽に行くことだけなのでしょうか。
もしよろしければ教えていただけると幸いです。よろしくお願いします。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
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祈りは入り口となる
ご相談拝読しました。
祈りについてですが、
>今現在苦しいときに、仏様にお祈りなどをして頼ったり、支えていただいたりすることはできないのでしょうか
とのこと、それはもちろんできます。信仰とは支えになるものです。しかしその内容は「(私が思うように)状況がよくなる(こと)」ではないのです。
正直なところ、誰でも望むことは「(私が思うように)状況がよくなる(こと)」でしょう。私だってそうです。
でもそれは仏様の智慧から見れば、いくら状況がよくなろうと迷い苦しみの中にあることは変わらないのです。
なぜならば状況は変わるからです。変わらないものは何もない。変わる時にはまた苦しみが生じますし、変わらないでいる時でも変わる事への不安に脅かされます。
だから仏様は「(私が思うように)状況がよくなる(こと)」を与えて救おうとされるのではありません。
それでもそのようにしか願えない私たちの有り様をお見通しの上で、そんな私たちを真に救おうとされるのが仏様です。
その救いの内容は「悟り」とされるものですが、もう少し身近な表現では言えば、「自分では気づくことのできない私の本当の願いに目覚めさせていただく」というところでしょうか。
「本当の願い」とは「状況がよくなること」でなく、どんな状況の中であろうと「これが私だ」「これが私の人生だ」と主体性を失わず、我が身の事実を引き受けて現実に立ち向かっていくところに、たとえ状況としては苦しみの中にあったとしても虚しくないものがあるということでしょう。
私たちは「祈り」というある種の純粋性を感じさせる在り方一つとっても必ず不純なものが入ります。自分の都合です。
実はその自分の都合に振り回され自ら迷い苦しんでいく。そのことを知らせようと、そしてそれに立ち向かう勇気を与えようと教えを説かれたのが仏様です。
だから安心して祈ってください。祈りを希望の通りには叶えてくれなどしませんが、祈りを通してでも真実に導こうとはたらいてくださるのが仏様です。
祈りについて
琥珀さま
仏教における「祈り」というものは、「菩提心」(悟りへと向けた志の心)を強めて仏道を前へと進めるための一つの糧(燃料みたいなもの)であると存じております。
ですので、「祈り」だけで、結果へと向けた因縁(原因と条件)が調うのは難しく、例えば、大学に合格したいと「祈る」だけで、何も勉強しなければ、実力も不足したままでは、当然に試験の結果が悪く、合格点に足らなければ不合格になってしまうことになります。
もちろん、「祈り」により、仏様、諸尊のお加持のお力を賜れることもございます。
しかし、そのお加持のお力を受けただけで、仏道を前へと進める実践が伴わなければ、当然に悟りへと向けては何ら役に立たないところとなってしまうことには注意が必要となります。
仏教は、菩提心を因として、そして六波羅蜜等の修習により、智慧と福徳という二つの糧を縁として、果としての悟りへと至れるところとなります。
あとは、往生のための因縁と、悟りへと至れるための因縁と、それぞれを混同せずに、何がそれぞれにおける正しい因縁であるのかを慎重に吟味して、しっかりと納得した上で取り組むことが大切となって参ります。
仏教を、盲目的、妄信的な信仰とせずに仏道の実践を確かに進めて、悟りへと向かって参りたいものでございます。
川口英俊 合掌
念仏が支えになる
念仏という修行(行為)が心の支えになるのです。
私たちの日常生活では、欲望の煩悩か怒りの煩悩かのどちらかが発動しているときに悩み苦しみが大きくなります。
と、いうことは、欲又は怒りのアプリが起動されているときに、アプリを閉じてホーム画面に戻りさえすれば、悩み苦しみも鎮まるのです。
この、ホーム画面に戻るきっかけになるのが、念仏という行為なのです。
難しく考える必要はありません。
嫌な気分になったときやむかついたとき、焦ってパニックになったときに、妄想雑念の世界に心が飛んで行っているときに、南無阿弥陀仏と心を念仏に帰すだけでよいのです。
いずれ極楽浄土に往生できるのだから、この世の問題は「まぁどっちでも良いか。南無阿弥陀仏。」で完了です。
人生のハッピーエンドが確定しているのだから、目の前のボスキャラも必ず滅びるとわかっている一時的なエピソードにすぎないのです。
この世で過ごすときは、どうせできることしかできないのだから、できることをできる範囲でやればよいだけ。
失敗しても最後は極楽だから、まぁ適当で良いのです。
質問者からのお礼
川口英俊さん、ご回答ありがとうございました。仏教における「祈り」とはどういうものか、よく分かりました。祈りをただ頼り、妄信するのではなく、しっかりと実践も心がけていきたいと思います。ありがとうございました。
吉武文法さん、ご回答ありがとうございました。「実はその自分の都合に振り回され自ら迷い苦しんでいく。」という文にどきっとしました。まさにその通りだと思います。目先の良い状況/悪い状況ではなく、仏様の導こうとしてくださる救いについて、もっと勉強してみたいと思います。ありがとうございました。
願誉浄史さん、ご回答ありがとうございました。アプリの例えがとてもよく分かりました。嫌な気分になるときやむかつくとき、焦ってパニックになるときが最近は多いので、心を鎮めて念仏をお唱えしたいと思います。この世の問題はまぁどっちでも良いか。と思えるよう、阿弥陀さまのお力をお頼りさせていただこうと思います。ありがとうございました。