修行の道を選ぶことは社会の弱者より自分を優先すること?
(すべての宗派がそうではないことは理解していますが)座禅をすることによって悟りへの道が開かれる、ということへの質問です。何十年も修行をしたり座禅をしたりすることは確かにその僧侶にとっては悟りへの一歩かもしれません。
でも、その間に途上国ではその日をも生きられるかわからないひとたちがたくさんいます。この日本でも貧困層は存在します。もしも座禅をするかわりにそのひとたちの手をとってくれたら、パンを与えてくれたら、生き延びる道を一緒に検討してくれたら、助かる命もたくさんあるはずです。
修行の道(とくに長い期間社会から断ち切る行為)というのは、ある意味で自分を選択、優先することになる、と思ったことはありませんか?(これは侮辱ではなくて、本当に疑問、のレベルです。本当に本当に悪い意味でいっているのではないことをご理解ください)
自分の道に専念するその思いは素晴らしいと思う。そして得たものを周りのひとに伝えていこうとする気持ちも。でも、現実のこの社会のなかで、仏教が天台宗で言うような「一隅を照らすひとになる」ことが大切だとすれば、それはどこか矛盾していると感じてしまうことは間違っているでしょうか。
僧侶として、途上国や先進国を問わずに、貧困や飢餓などで今日をいきられるかわからないひとたちを前に仏教はなにができると思われますか?
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
自分が定まらないようでは誰も幸せに出来ない
修行とは行いを修理すること。すなわち悪いと思ったらすぐ修正できる心を作ることと心得ています。
その心は、本質を見抜く力を養うことです。
私は僧侶になる前、お寺生まれであるというだけで友達の相談を受け生き方のアドバイス、お経にはこんな風に書かれてるといった事を指南しました。結果友人はそれを受け入れられなかったのもあったでしょう。自殺してしまいました。
私の安易な言葉が彼女を追い詰めたんです。
坊主とは僧侶とは何なのだ。悩みを抱える人に教えを説くことが救いなんじゃなかったのか!?
自問自答の毎日でした。
修行とは何も滝に打たれたり座禅をしたりするだけではありません。一に掃除、二に勤行、三に学問と私は教わりました。その中で、私が身につけたのは、本質を見抜くためには自分の考えを一旦横に置くことだと気づきました。
修行を通して培った私自身は以前より少しだけ「悩める相談者さん達」に寄り添えるようになりました。それもあるのかもしれませんが、「今まで誰にも言えなかったんだけど、関本さんにお話を聴いて欲しい」と私を信じてお話を聴かせてくださる方も増えてきました。
修行を通さねば、今の私はありません。
般若心経というお経の最後に「羯諦羯諦 波羅羯諦 波羅僧羯諦 菩提薩婆訶」という言葉が出てきます。
この言葉は最も大事な言葉なのであえて翻訳しないことで意味が変わってしまうのを避けた言葉です。
私はどうしても意味が知りたくて、このお経の原点となった中国西安にある興教寺の常明長老さまにおたずねしたことがあります。そのときの常明長老さまは、「行こう行こうさあ行こう、行ったら戻ってきなさいよ」という解釈をされていました。
修行を通して悟りの世界を知ったなら、それを携えて悩み多い世界の人を一人でも多く救えと私は教わりました。
安易にパンを与えるだけではダメなんです。パンを与えることが争いにならず、懈怠を生まず、かつ慈悲を養うものでなければならないと思います。
それを知るために修行するのかもしれませんね。
禅僧です。1つ1つ誤解を解いていきます。
>何十年も修行をしたり座禅をしたり
実際の修行道場は本人が長くいたくても「ここは学校のような所だ。いつまでもいる所ではない。ここで習ったことを社会の中で実践していけ。それが修行だ。」と追い出されます。何十年も山籠りして社会に出ないお坊さんはいません。
また、坐禅とは自己中心的な心を手放す修行です。僧侶は修行『生活』を通じて慈悲とは何かを経験的に学びます。救いとは何かわからない者に、救いへ導くことはできません。だから修行道場は学校です。
算数を習っている暇があったら、パンを送りましょうという話にはなりません。パンが安定的に供給される社会を確立するために算数の教育は不可避ですね。それと同じです。僧侶は慈悲が安定供給される社会を目指すため、仏道を学びます。
>「一隅を照らすひとになる」ことが大切
このようなアクションはどの宗派でも行っています。私が属する曹洞宗ではグリーン・プラン運動という取り組みがなされています。
http://www.sotozen-net.or.jp/activity/ecology
また、曹洞宗のボランティア団体から発展し、今も曹洞宗と密接な関係にあるシャンティ国際ボランティア会(SVA)という公益社団法人は、東南アジアを中心に貧困問題を原因のレベルから解決するため、学校の建設や移動図書館の運営など、教育対策や女性の地位向上のための雇用対策に取り組んでいます。
http://sva.or.jp
阪神大震災の時に最も数多く現地入りしたボランティアはお坊さんですし、災害があるたびお坊さんは走り回っています。しかし、陰徳を積む伝統からアピールしないので知られていません。
私にできることは、そのような知られざるお寺の実態をお伝えし、1つの潮流としての仏教を活性化することです。この回答が世界平和のためです。
本当はお釈迦さまは深山幽谷にお寺を作れとは言っていませんし、迫害を逃れて山奥に永平寺を開いた道元禅師でさえ、不本意だったことが分かる発言があります。仏教は誤解されすぎています。
最後にこのリンクで仏教は自分の道に専念するものという誤解を解きます。
http://hasunoha.jp/questions/3160
さぁ、一緒に仏道しましょう。
>たとえ不完全~多いのでは
それを菩薩と言い、既出です。仏教は上手くできていますよ。字数限界
仰るとおり
まず、末法の時代には悟りを得る者は一人も出てきません。それが末法という時代です。
さて、自己の内面を見つめる暇があれば貧困層にパンをという。その通りです。
家庭、子育てについて少し考えていただきたい。
掃除洗濯、食事の用意。子育てもすべて主に妻、母親がやっているように見えるものです。しかし、その土台を守っているのは外で働き給料を貰ってくる夫、父親です。
形は違っても家庭を守り、子を育てているのです。
僧侶が座禅することが直ちに貧困層の空腹を満たすことはありません。しかし、僧侶の修行する姿が人々に勇気なり希望を与えていることも少なからずあるのです。座禅をする修行僧から何かを得た人が貧困問題に目を向けるようになれば、それは直接的ではないにせよ、座禅が貧困層を救ったと言えるのです。これを「お蔭様」と申します。
目に見えるだけが力ではないとご理解ください。
優先であるとか優先でないとかの問題ではない
自分自身が修行や勉強をほったらかしにして手を差し伸べたいのであれば、僧侶なんかやめてそういったNPO法人に入ればいい
しかし、そうではありません
どちらを優先するであるとかそういった問題ではなく、仏教に関わらず宗教は生きる道しるべであると思っています
それを如何に伝えていくか、如何に納得していただくか、気付いていただくか。
そのためには結局何をしなければいけないか、結局は自分で研鑽を積まなければ出来ることではありません。
貧困を解決するためには根本的解決が必要です
たとえ一時に食べるものを与えても何も変わりません、必要なことは「メシを食うこと」ではなく「メシを食えるようにすること」です
ですが、技術を覚えればメシは食えるようにはなるでしょうが、同時に仏教なり宗教を通じて心を育てることも必要になります、それが我々僧侶の努めでもあります
そのためにはどうするか、結局はやはり自分を高めなければ、人に何かを伝えるということは為せないでしょう
口でどうとでも言ったところで心に訴えかけるには、やはりそれ相応の努力が当然必要となります
つまり生き延びる道を一緒に模索するためには修行や勉強というのは切っても切り離せません。
1人の人間が世界をどうにかしようとするのは中々に至難の業でしょう、ですが日本を少しずつどうにかしようとすれば自らの周りから対応していくことは可能です。
現代社会の中で我々僧侶が何をどうしていくのか、というのは人それぞれのやり方次第です。
当然協調すべきことは協調すればいいと思います、しかしこうでなければならない、そのようなやり方ではだめだ、と言っているだけではいけませんし、当然それぞれの方のやり方というものがございます。
たとえば一見して、そんな活動に何の意味があるのかと思われていたとしても本人がそこに信念と確固たる動機をもって臨めばそれがその人としての貧困を救う方法です
たとえ他人に何を言われようと己が結果として救える方法であると信じるならば、それがその人にとっての貧困をなくす一歩です
すべては過程です
自分の力だけでは結果までたどり着けないなら次の世代へ引き継いで、最終的な結果までの過程にすぎません
自分を高めることというのは、最終的には近道遠回りはあれどマイカさんの憂う問題の解決へと繋がっているものであると思います
質問者からのお礼
皆様大変ご丁寧なお返事をありがとうございます。
関本和弘さま。本質を見抜く力を養うこと、僧侶になる前の自殺なさったお友達のこと、貴重なお話をありがとうございました。私はまるで仏教とは関係のない環境で育ち、途上国や紛争をしている国のなかで現場で多くの不条理と死を目にしてきました。その度に思ったのは、仏教ではなくキリスト教の聖職者に対してでしたが、聖書を読み祈る前にまず現状をどうにかするために手を貸してほしいということでした(これは現場のことなので環境によってまた緊急度なども違うことは理解しています)。確かに修行を通してしか分かり得ないことはたくさんあるのだと察しています。そしてそれが意味が無いことといっているのではなく、仰るとおり、より相談なさってくる方に寄り添うために必要なことだということは疑う余地もありません。ただ、例えば荒行などで何年も何年も別の世界にいらっしゃるよりも色々な現実の世界で様々なひとに携わっていくことから学ぶことは修行にはならないものなのでしょうか。本当にたとえば山にこもることが、色々な環境にある人々の感情、状況、思い、そういったものを理解できる礎になるのでしょうか。パンを安易に与える、確かにそれは答えではないかもしれません。でも現実の世界では、そのパンが今日なければ生きていけないひともたくさんいる。明日がないひともいます。私にはどうしても現場の状況が頭に浮かんでしまい、もしも本当にひとを慈悲で救うのであれば、修行というものの形は別の形ではありえないのかという疑問がでてきたので質問させていただきました。修行の意味、私もきちんと理解できていなかったかもしれないので、その点はどうか御無礼をお許し下さい。ご丁寧にありがとうございました。
大慈さま。先日12年籠山行というのがあるというのを聞いて、その時に疑問がわいてきたのです。普通のかたは多分そんなにこもることはないのでしょうね。そして、慈悲を実践していくことの大切さも、座禅とはまた別問題ということ、どれもこれもごっちゃになっていたかもしれません。すみません。救いがわからないものに救いへ導くことはできない。それは確かに算数とパンの話でもとてもわかります。ただ救いを理解するまでの間、生活の中で慈悲を実践しながら(たとえ不完全であったとしても)、様々な経験をするなかで、ひとと関わっていく中で、得るものも多いのではないでしょうか。海外の援助の件もリンクなどありがとうございました。こちらは把握していましたが、日本国内でボランティアとしてお坊さんがいろいろ手伝っているというのは私は日本にいなかったので知りませんでした。リンク先の説明、ものすごくユーモアたっぷりに描かれていましたので思わず笑みがこぼれました。でもものすごく本質をついていたので、とてもこころに残りました。ありがとうございます。「一緒に仏道しましょう」、これはいい言葉ですね。
常在さま。確かに僧侶の真剣な姿はこころをうつものがあり、感動します。目に見えるものだけが力ではない。それはその通りです。でも、世界の現状はそれではすまないくらいの不安定要因が今混在していて、そのなかで仏教というものができること、僧侶というものができること、を考えた時に、ただ、修行している姿をみる、だけでは正直難しいかと思い質問させていただきました。決して修行僧を非難する目的はなく(むしろこころから尊敬しているので)あくまで別の視点から考えた時に、修行と仏教とそして貧困と、どう結びつくのか、と疑問に思ったのです。色々な視点から見ることの大切さをご指摘いただきありがとうございました。
翔玄さま。私は「自分自身が修行や勉強をほったらかしにして手を差し伸べたいのであれば、僧侶なんかやめてそういったNPO法人に入ればいい」ということは思ったことはありません…!僧侶としての勉強や修行は仏教の僧侶になるのであればそれは不可欠な要素だということはわかっています。そうではなく、あくまで何年も長い行に携わっていることと、現実社会で現実の人々に携わってそこから学んでいく現実から学ぶものと(私からすればそれも行ではないかと・・・)そのバランスについてお聞きしたかったのです。正直、現実の社会を学ぶのに、ただ、山の中で行をしているだけでは見えてこない現実があると私は思ってしまったのです。紛争地域やテロの現場もそうですが貧困地域もそうですが、言葉にできるものではない状況です。日本では、メディアもコントロールされているため綺麗な画像しかでませんが、想像できない残虐さ、がそこにはあります。それこそ首のない死体が転がっていて、貧困地域では身寄りの無い子供などが安置所にゴミのように積み上がっていたりします。仏教が生きる道標であるのであってそれをひとびとに伝えていくことが使命であるとおっしゃるのであれば、自分の世界から飛び出して世界の中で別の形の修行の形であってはいけないのか、ということをお聞きしたかったのです(座禅を否定はしていません。座禅は大変大切な要素だということは知識として理解しています)。貧困の解決法は様々な試みがあり、ただパンを与えることが答えでないことは、現在援助ではなく支援の方向で世の中が動いていることからも明らかです。そしておっしゃっているように僧侶がひとびとに訴えて「こころをそだてて」いく必要性があることも、大切なことだと思います。ただ、「自分を高めなければひとになにかをつたえられない」という部分。その高める「方法」に、いわゆる長期の修行以外に可能性はないのかと思ったのです。(私の誤解で長期の修行ばかりではないことは先程ご指摘いただきましたが)。「本人がそこに信念と確固たる動機をもって」「己が結果として救える方法であると信じるならば、それがその人にとっての貧困をなくす一歩です」というのも説得力はあります。最終的に遠回りかもしれなくても解決につながっている、それも信じたいし、それも真実だとどこかでは思っています。ただ、現実に世界の大半が現状では慈悲どころかかけ離れた状況で、それを目にするうちに、そのなかで仏教がどのように関わっていけるのか、そのありかたというものが私にはまだはっきりと見えていないのです。
私個人としては世界で人種・国籍・性別・その他諸々の違いをも、そして異宗教のひとをも包み込む大きさをもっているものは、他宗教にはなく、まさに仏道の慈悲そのものだと思っています。だから、ひとりひとりの僧侶の方々がどう考えていらっしゃるのか、とても興味深かった。今回のお返事はとても考えさせられました。ご丁寧なお返事を皆様どうもありがとうございました。