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自分よりすぐれた者とはどういうひとでしょうか

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有り難し有り難し 55

旅に出て、もしも自分よりすぐれた者か、または自分にひとしい者にであわなかったら、むしろきっぱりと独りで行け。愚かな者を道連れにしてはならぬ。
「ブッダのことば」で読みましたが、自分よりすぐれた者、ひとしい者とはどういった人間をさすのでしょうか。どう判断するべきなのでしょうか。
そもそも、ひとと自分とを比較して優劣をつけることはすべきでないと思っていましたが、意図する内容が違うのでしょうか。


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お坊さんからの回答 3件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

自灯明 法灯明

 これは、お釈迦様が亡くなる前に弟子に示された遺言です。「他者に頼らず、自己を依り処にし、法を依り処にしなさい」ということです。

 ご質問の「すぐれた者」とは、このような生き方をしている方を指すのではないでしょうか。自分よりすぐれた者、自分にひとしい者とは、能力の優劣や悟りの深さとかではなく、同じ道を歩んでいるかどうかだと思います。

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おきもち

 浄土真宗(大谷派)/広島県広島市/17世住職。  1967年京都市生まれ。山形大学理学部卒業後、証券会社で勤務。30歳で脱サラし、親戚筋の超覚寺に入寺、45歳で住職継職。  遺族の分かち合いやお悩み相談などグリーフサポート活動を続け、お寺の掲示板による法語伝道にも尽力している。カープ坊主の会会員。
こちらに法事が入っていなければ、ご希望の日時に相談させていただきます。 想いを吐き出しても、あなたの環境は変わりませんが、あなたの気持ちは変わっていきます。 どうぞ安心してお話しください。

正師

心を迷いの状態から、明るみに導いてくれる力量のある自分がハッキリした人の事を言います。
道元禅師は仏道は正しい師匠の元で学ばなかったら学ばないほうがイイとさえ言っておられます。正師(しょうし)といいます。力にならない仏教は仏教であるようでも、実践生活で役に立たない仏教と言わざるを得ません。私も何百冊も仏教書を読みましたがぶっちゃけ役に立たないものばかりでした。なぜなら書いている本人が悟りを得ていないから推測ネタばかりなのです。実際の生活で、自分を救う、役に立つ、効果的な、キチンと救われる教えを提供してくれる人のことこそ、優れたる人、というべきでしょう。
我々の業界では悟った人のことです。
「無上菩提を演説する師にあわんには種性を観ずることなかれ、容顔を観ることなかれ、非を嫌うことなかれ、行いを考うることなかれ」と。
(日常生活でスクワレる悟り、実践的な教えを提供してくれる師匠に出会ったならば、立場をがどうだとか、見た目がどうだとか、悪いトコ探しだとか、行いがどうだとかとやかく言わずその方の元でしっかりと学ぶべきである)

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おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

ハラオチ〜気づく人・自分のフィルターを知っている人

聞いたことは聞いただけのことと知り、見たことは見ただけのことと知り、知ったことは知っただけのことと知る者どもでも、、、

Kakaさん、こんにちは。
自分よりすぐれた者とはどういうひとか。ひとしい者、おろかな者、とはどういうひとか。
どういうひとかが問題ではないように思います。
すなわち「上から目線で、あの人は素晴らしい!同レベル!ひっくいわ〜!と思考停止するな」。とくに「上から目線であの人は素晴らしい!」と思ってはいやしないか、がミソです。

“比較して優劣をつけることはすべきでない”と思いつつも、何かしらの判断をせねば、私たちは生きていけませんよね。
あっちよりこっちがいいな、とか。たとえば、選挙・レストランでの食事やお弁当。人生は選択の連続です。
ではそこに“自分との比較”が本当に無いのかというと、どうでしたでしょうか。
候補者同士を比較するだけではなくて、「この人に票を投じるくらいなら、自分の方がまし」。料理同士を比較するだけではなくて、「こっちを食べると、より幸せを感じるかもしれない」。
判断するのは自分ですから、どこかに自分が出てきます。当たり前のことです(誰かの判断に盲目的に従うことは置いといて)。

自分との比較はしていいのです。
ただその時の判断にたいして、どのようなスタンスをとるか?が問われるところなのだと思います。
すぐれた者、ひとしい者、おろかな者。その判断は自分やまわりに左右されている。くだした判断も、自分やまわりに影響をおよぼしている。
この事実にハラオチしていることです。深い部分で気づいていることです。それはどういうことか、と自分の言葉で考えられている表現できていることです。
とてもパーソナルな行為ですね。

きっばりと独りで行く。愚かな者を道連れにしない。
パーソナルなトレーニングをつむことの大切さを、説いているのだと思います。

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おきもち

個別相談可能
臨済宗妙心寺派 陽岳寺 住職 1985年生まれ。 東京都江東区深川出身・在住。 大学卒業後、鎌倉の円覚寺専門道場で修行。 2010年に陽岳寺に戻り副住職となった後「ようがくじ不二の会」を立ち上げ坐禅会、ゲーム部、お茶の会などを企画開催。 昔からお寺はお手繋ぎをしていました。もっとご縁を結んでいただきやすくしたいと思い、結婚相談所を開所いたしました(門前仲町 下町結婚相談所)。 hasunnohaでは、微力ながら考えたこと、思ったことを回答させていただきます。

質問者からのお礼

皆様、大変ありがとうございました。
自己を依り処にし、法を依り処、とはありがたい支えになります。

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