自分よりすぐれた者とはどういうひとでしょうか
旅に出て、もしも自分よりすぐれた者か、または自分にひとしい者にであわなかったら、むしろきっぱりと独りで行け。愚かな者を道連れにしてはならぬ。
「ブッダのことば」で読みましたが、自分よりすぐれた者、ひとしい者とはどういった人間をさすのでしょうか。どう判断するべきなのでしょうか。
そもそも、ひとと自分とを比較して優劣をつけることはすべきでないと思っていましたが、意図する内容が違うのでしょうか。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
自灯明 法灯明
これは、お釈迦様が亡くなる前に弟子に示された遺言です。「他者に頼らず、自己を依り処にし、法を依り処にしなさい」ということです。
ご質問の「すぐれた者」とは、このような生き方をしている方を指すのではないでしょうか。自分よりすぐれた者、自分にひとしい者とは、能力の優劣や悟りの深さとかではなく、同じ道を歩んでいるかどうかだと思います。
正師
心を迷いの状態から、明るみに導いてくれる力量のある自分がハッキリした人の事を言います。
道元禅師は仏道は正しい師匠の元で学ばなかったら学ばないほうがイイとさえ言っておられます。正師(しょうし)といいます。力にならない仏教は仏教であるようでも、実践生活で役に立たない仏教と言わざるを得ません。私も何百冊も仏教書を読みましたがぶっちゃけ役に立たないものばかりでした。なぜなら書いている本人が悟りを得ていないから推測ネタばかりなのです。実際の生活で、自分を救う、役に立つ、効果的な、キチンと救われる教えを提供してくれる人のことこそ、優れたる人、というべきでしょう。
我々の業界では悟った人のことです。
「無上菩提を演説する師にあわんには種性を観ずることなかれ、容顔を観ることなかれ、非を嫌うことなかれ、行いを考うることなかれ」と。
(日常生活でスクワレる悟り、実践的な教えを提供してくれる師匠に出会ったならば、立場をがどうだとか、見た目がどうだとか、悪いトコ探しだとか、行いがどうだとかとやかく言わずその方の元でしっかりと学ぶべきである)
ハラオチ〜気づく人・自分のフィルターを知っている人
聞いたことは聞いただけのことと知り、見たことは見ただけのことと知り、知ったことは知っただけのことと知る者どもでも、、、
Kakaさん、こんにちは。
自分よりすぐれた者とはどういうひとか。ひとしい者、おろかな者、とはどういうひとか。
どういうひとかが問題ではないように思います。
すなわち「上から目線で、あの人は素晴らしい!同レベル!ひっくいわ〜!と思考停止するな」。とくに「上から目線であの人は素晴らしい!」と思ってはいやしないか、がミソです。
“比較して優劣をつけることはすべきでない”と思いつつも、何かしらの判断をせねば、私たちは生きていけませんよね。
あっちよりこっちがいいな、とか。たとえば、選挙・レストランでの食事やお弁当。人生は選択の連続です。
ではそこに“自分との比較”が本当に無いのかというと、どうでしたでしょうか。
候補者同士を比較するだけではなくて、「この人に票を投じるくらいなら、自分の方がまし」。料理同士を比較するだけではなくて、「こっちを食べると、より幸せを感じるかもしれない」。
判断するのは自分ですから、どこかに自分が出てきます。当たり前のことです(誰かの判断に盲目的に従うことは置いといて)。
自分との比較はしていいのです。
ただその時の判断にたいして、どのようなスタンスをとるか?が問われるところなのだと思います。
すぐれた者、ひとしい者、おろかな者。その判断は自分やまわりに左右されている。くだした判断も、自分やまわりに影響をおよぼしている。
この事実にハラオチしていることです。深い部分で気づいていることです。それはどういうことか、と自分の言葉で考えられている表現できていることです。
とてもパーソナルな行為ですね。
きっばりと独りで行く。愚かな者を道連れにしない。
パーソナルなトレーニングをつむことの大切さを、説いているのだと思います。
質問者からのお礼
皆様、大変ありがとうございました。
自己を依り処にし、法を依り処、とはありがたい支えになります。