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宗派による死後の世界の違い

回答数回答 5
有り難し有り難し 46

いつも多くのお知恵をありがとうございます。
今日は仏教のことで疑問に思う点があり、質問を失礼します。

仏教と一口に言っても、多くの宗派があるのですが、
死後すぐに仏となり極楽へ。
という宗派や、閻魔様の裁きを受ける。とする宗派もあります。
生まれてから死ぬまで、ずっと一つの宗派で、一族皆が同じ宗派であれば良いのでしょうが、
親戚であったり、知人であると宗派はどうしても変わってきてしまいます。

その際考えるのが、
私の死後に行く世界は、
相手の方のいく世界とは異なっており、
あの世で再会することは叶わないのではないか。
一方は四十九日と言わず極楽へ行かれ、一方は裁きを待ち、地獄へといくかもしれない。
などといった具合です。
実際にあった事例としては、法要の時に「今彼女は輪廻のためにあの世で修行をし、乗り越えているところです」というような説法を受けたのですが、別の宗派ではそうではないのだろうな。と、思ったような事です。

実際には死んでみないと分からないことなので、考えても仕様のないことだとは思うのですが。

お坊さまの皆さまは、こういった宗派による教えの違いにから生じる、死後の世界の違い(四十九日の捉え方、三途の川を渡る渡らない)など、どうお考えになられているのだろう。と、質問を失礼しました。


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お坊さんからの回答 5件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

【方便】ナビゲーションシステム

人が死ぬと、
極楽に行く、地獄に行く、天国に行く、この世にとどまる、お空のお星さまになる、やすらかに眠る、化けて出る、千の風になって吹きわたる、土に還る、、、

これらすべて、残された側のための【方便】です。
ですから、どれでもあなたの栄養になりそうなものを選んで下さい。

もちろん、その都度その都度、採用する説が変わっても問題ありません。すべては生きている者の励み、慰め、癒やし、戒めの一助となり、そして【三宝】に帰依していく因となっていく事がねらいです。

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【公認心理師】 【レンタルお坊さん】活動中。 とりあえず何でも相談して...
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そうですね

基本的に、来世でどこに生まれかわるかはわかりません。
昨日食べた鮭は、前世の友人だったかもしれないのです。
欲にとらわれた生物は、天・人・阿修羅・地獄・餓鬼・畜生の六種類(六道)のどれかに輪廻転生をします。
地獄とかも、場所の名前というよりは、生きものの種類の名前なのです。
一方、娑婆世界(私たちの宇宙)とか極楽浄土、浄瑠璃世界などは、場所の名前です。
たとえば帝釈天とか弁天様とかは、生きものの種類は「天」ですが、地球(娑婆世界)にも現れることがある、みたいに。
で、浄土というのは、仏(真理に目覚めた者、仏教のスーパー指導者)が立ち上げた世界(場所)です。
たとえば阿弥陀仏が造った極楽浄土。
この極楽浄土には、地獄・餓鬼・畜生の三種類の生き物(三悪道)はいないと、経典には書かれています。
経典では、2500年以上前の娑婆世界のインドにいたお釈迦様という仏が、弟子や信者への説法の中で、阿弥陀仏が造った西方極楽浄土の存在を紹介しています。
浄土宗では、この経典の中でのお釈迦様の説法を根拠に信仰しています。
経典によると、阿弥陀仏は、南無阿弥陀仏と念仏して極楽浄土に往生したいと願う者は、どんな悪人でも極楽浄土に往生させてみせるぞと誓って、その誓いを実現していると書かれています。
なので、南無阿弥陀仏と念仏を称(とな)えていた人は皆、来世で極楽浄土に生まれることができるという理屈になります。
基本的には輪廻転生で次の来世はわからないけど、念仏していれば極楽浄土への往生が確定していると、浄土宗では考えます。

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がんよじょうし。浄土宗教師。「○誉」は浄土宗の戒名に特有の「誉号」です。四...
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山頂は一つ、登山道は無数にある。

お釈迦さまが説かれた涅槃は一つだけど
そこに至る方法手段が人それぞれなので
いろいろな宗派に分かれたのでしょう。

普通は
生家の宗教宗派に帰依することになりますが
より自分に合う宗教宗派があれば
乗り換えても構わないのです。

私は今のお寺にご縁があって脱サラしましたが
生家の宗派とは違います。
それは全く気にしなかったし
今のこの宗派にご縁が出来て良かったと思っています。

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和田隆恩
 浄土真宗(大谷派)/広島県広島市/17世住職。  1967年京都市生ま...
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自分が信仰している宗教(宗派)の教えに沿って再会できる

こんにちは。亀山純史と申します。

今回のご質問は、「宗教とは何か」という問いと深くかかわる質問だと思っています。そこで、私見になりますが、私の宗教観を通して、死後の世界についてのお話しをさせていただきたいと思います。

さて、私たちが世界を見るときに、3つの見方があると思います。それは「科学」「哲学」「宗教」です。そして、これらの違いを知ることが、死後の世界の在り方を考える上でも重要であると思っています。

そこでまず、宗教と科学の違いについての私見を述べましょう。宗教で言われる内容は「教え」と呼ばれます。それに対して、科学は「教え」とは呼ばれません。たとえば、私たちは「万有引力の教え」とか、「相対性理論の教え」という言葉は使いません。なぜならば、科学は観察や実験によって、客観的にこの世を説明しようとするものであり、「教え」ではないからです。つまり、裏を返せば、「教え」とは客観的にどうあるか、ということではないわけです。

次に、哲学ですが、哲学は理性(筋道を立てて物事を考え判断する能力)によってこの世を説明しようとするものです。哲学は形而上学的な事柄も扱いますので、宗教に近い存在です。

そして最後に宗教ですが、宗教は絶対者(超越者)を立てて世界を説明します。絶対者(超越者)とは、言うまでもなく神様や仏様です。絶対者や超越者は三世(過去世・現世・来世)において存在する者ですから、絶対者や超越者を説く宗教においては、死後の世界も説くことが可能になってくるのです。

すなわち、宗教における死後の世界とは、「客観的な(あるいは物理的な)世界を問題にしているのではなく、客観的な死後がどうであれ、絶対者(超越者)を通して、自分の死後をどう捉えていくべきか、ということを述べたもの」と私は見ています。そして、そうれあれば、宗教Aを信仰してる人から見る死後の世界の人たちは、宗教Aの教えに沿った死後の世界の人たちになり、宗教Bを信仰している人から見る死後の世界の人たちは、宗教Bの教えに沿った死後の世界の人たちになる、ということです。ですから、故人との再会は、自分が信仰している宗教(宗派)の教えに沿って再会できる、ということです。

以上が私からの回答です。少しでもご参考になれば幸いです。

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hasunohaを訪れてくれた皆さん、こんにちは。私は浄土真宗本願寺派の僧...
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宗派の教えと釈尊の教え

日本の各宗派の開祖は、漢籍の仏典(漢訳経典と中国語の論文。漢訳経典は大乗経典がほとんどです)を頼りに勉学と修行をしてきました。それが、本来の釈尊の教えと修行のままだったかどうかというと、今の上座仏教(テーラワーダ)に伝わるパーリ語の仏典とその通りにやっている上座仏教の比丘の在り方を見ると、ちょっと疑問が生じます。
 上座仏教もパーリ語の仏典も釈尊の通りとは言えない!という人は多いのですが、それでも、漢籍仏典よりは釈尊の教えにはるかに近いでしょう。
 パーリ仏典の内容を基準にして、各宗派の教えがそれと同じなら、「釈尊以来の教えかも」と受け取り、各宗派独自の教えがパーリ仏典の内容と違うようなら、「ここは、変容してしまったところかも」と用心しておけば良いと思います。
 最初は一味和合の釈尊の教えだったのに、だんだん部派が分裂して、大乗や密教が出てきて、どんどん変わっていったのですから、教えが違うのも無理はありません。どれが正しいかと言えば、釈尊の教えに近いものがより正しい仏教だと言えるでしょう。
 上座仏教のスマナサーラ長老が、日本語でたくさん釈尊の教えの本を出しています。

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初期仏教というか仏教本来の教えを学びつつ、その在家信者のあり方から見た日本...
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質問者からのお礼

この度はいくつものお話をありがとうございました。

願誉浄史様
生き物の種類と、場所もいう例え話、とてもよくわかりました。
ありがとうございました。

藤本晃(慈照)様
宗派とは、教えとは。という点についてのご説明、ならびに書物のご紹介ありがとうございました。
調べてみようと思います。

和田隆恩様
辿り着く場所に向かい、どう向かって行くかというお話わかりやすく、イメージしやすかったです。
ありがとうございます。

亀山純史様
人によっては死後に再開できないのでは?という思いがあったので、宗派の世界に沿ってくれるという点、考えさせられました。ありがとうございます。

転落院様
ナビゲーションシステムという例えがとてもわかりやすく、自分のその時々に寄り添って、時に励ましてくれ、時に慰めてくれる、故人との距離などに関して考えさせられました。
ありがとうございました。

沢山のお答えを頂き、一つ一つに対し、それぞれ違ったことを考えさせられました。
それだけ宗派や教えの解釈ですとか、多くが存在するもので、自分がどう思い解釈して、どう生きて行くかと、深く考えさせられました。
本当にお忙しい中、ご回答をくださいましてありがとうございました。

「死について」問答一覧

死別シングルマザー

夫と死別し、半年経ちました。 死後の手続きなどでバタバタと、忙しくしていましたが、この頃PTSDの症状がでて、とうとう仕事にいくこともできなくなりました。 一ヶ月の休職ですが、休んでる間に収入の不安、子どもたちのこと…色々と考え過ぎてよけいに具合が悪くなっている気がします。 職場からは、また笑顔で戻ってくることを待ってますと温かい言葉を掛けてもらっているのですが、夫を看取った病院が職場の直ぐ側であることや、救急車が頻繁に通ることなどから、正直一ヶ月休んだところで復帰する元気があるかわかりません。何も前に進めない自分に自己嫌悪の毎日です。お金の不安と、パートナーを失くしたことから『風俗』で働いて少しでもお金を…と浅はかな考えも拭えません。時間が長く感じます。こんな姿を夫が見たらなんて思うだろう。夫じゃなくて、不器用な私が先に亡くなればよかったのにとまで考え込んでしまいます。周りには自分のように30代で配偶者を亡くした人はおらず、まるで腫れ物のように感じます。他の家庭を見ると、赤ちゃんが生まれた…家を建てる…夫婦仲良く子育てできてて自分にないものばかり目に映り、生きづらいです。

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「周りの人間の死」への向き合い方

「周りの人間の死」への向き合い方が分からず、恐らく変な方向に価値観が向かってしまい、常に一定の苦しみを抱えてしまっています。 無理やり挙げるとすれば、恐らく一番大きなきっかけは、2年前に母の母である祖母が急死されたことだと思います。大きな病気やケガもなく元気に畑で過ごしていた祖母の急死に頭が追い付かず、又様々な状況を理由にしばらく会えなかったことや、恩返しなども出来なかったと感じたことによる後悔と主に、「人は急に死ぬこともある」といった至極当然のことに恐怖を覚える様になりました。 その"急死"は脳内で"事故死"等に変換されたようで、現在は「自分が何か人に頼むことで事故死するかも」といった恐怖をもってしまっています。私が親に頼んだ買い物の道中で死ぬかも、私が選んだ待合場所のせいで、指定した時間のせいで友人が死ぬかも、と思うと、所謂"普通の価値観"で人に頼る事、あまつさえ意見や提案事の提示も難しくなってしまいました。 正直自分の死は大して怖くはありません。ただ、もしそういった状況で知人が亡くなってしまえば、仮に明らかに自分のせいではなくとも「自分がこの人を殺した」と思ってしまうに違いないと感じています。又そういった気持ちを抱えてその後の人生を全うできるとは到底思えません。 バタフライエフェクトのレベルで「人の死に関与したくない」といった気持ちが大きくなってしまい、生き苦しさを感じてしまっています。 この価値観が、俗にいう「変・ずれている・間違っている・過剰」ということは頭では理解できているつもりです。ただ、どうにも心がこういった考えを除いてくれません。 もし仏教などを用いて少しでも楽に生きることが出来るのであれば、と思い、相談させていただいている次第であります。ご意見をお伺いできますと幸いです。よろしくお願いいたします。

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