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執着を手放すには

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以前、流産と不妊について相談させていただいた者です。その節は心のこもった回答をありがとうございました。

ご回答やそれ以前の問答を拝見したりして、少しずつ落ち着きを取り戻していますが、なかなかすぐに元気にというわけにはいかず、まだやっぱりもがいています。

ところで、以前TVでストーカーのニュースを見ていたとき、「ストーカーの人が幸せになれるとしたら、それは執着を手放して、他の道を進んだときだよね」と、家族に話しかけて自分でもはっとしたことがありました。私もそうだ、と思ったからです。

たぶん私は子供がほしいと思うあまりそのことに執着しているのではないだろうかと気がつきました。繰り返し流産して、いったん手にしたと思ったものを何度も失ったことで、余計にそれが強くなってしまったのかもしれません。
なんとかこの執着を手放したいと思ってきましたが、なかなか難しいようです。もともとこんな気持ちが背景にあったので、こちらの仏教に関連したサイトにご相談させていただいたのかもしれません。

説明が長くなってしまいましたが、このような執着を手放すための心の持ちようはあるのでしょうか?ご助言をいただければ幸いです。


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お坊さんからの回答 5件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

気付きの積み重ね

 「子どもへの執着を手放したい」という執着・・・・・と、次々と連鎖していくのが我欲です。

 手放したいと思っている間は逆に手放せません。他者にめんたいこ様自身の姿が重なった時に初めて「そうだったのか」と気付かされたように、その積み重ねで徐々に執着は離れていくものと思います。

 「執着を手放すための心の持ちよう」は、逆に手放そうとせずに自分の執着をシッカリ引き受け、それに真向き合うことだと思います。

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和田隆恩
 浄土真宗(大谷派)/広島県広島市/17世住職。  1967年京都市生ま...
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あなたは 母 であるのです

めんたいこ様 初めまして
過去問も読ませて頂きました。

「執着」とおっしゃいますが、
愛する方との証として子供がほしい、自分の子をこの手で抱きしめたい。
これは、人として、生き物としての「本能」だと思います。
ただ過去の辛い経験や年齢的な問題で何とか諦める方向を見出せないのか?
という、めんたいこ様の心の言葉が聞こえてきます。

うちのお寺の地図を詳しく見てもらえれば判りますが、
そう遠くない場所に金沢市東斎場、いわゆる火葬場があります。
火葬場に最も近い寺ということもあり、過去に3回ほど死産児の火葬に依頼を受け立ち会いました。
葬儀という形ではないので、
段ボール箱や発泡スチロールの容器に入った状態。
死産ですから、親指大や手のひらに小さく納まる程度の大きさの「子」
けれどご両親とりわけお母さまにとっては、
自分の身に宿した〔いのち〕ですので、
その哀しみと愛おしさを表わす姿は、今でも眼に焼き付いています。

他愛の無い実例を申しましたが、哀しい結果になったとはいえ、めんたいこ様もその母体にわが「子」を宿した事を忘れないでください。
その「子」たちは、いつも何処かからあなたを優しく(時には心配そうに)「おかあさん」として見守っていてくれているはずです。

不妊治療を諦めるのは未練が残る様な感じですので、
今までの様な焦る心持ちではなく、ご夫婦お互いの身体状態を考慮しながら、
ご主人様との愛を紡ぐように歩まれては如何でしょう。
もしも最終的に我が子をあなたの手に抱くことが出来なかったとしても、
あなたは 母 であるのです。
「執着」というより、
今の哀しみ・苦しみは避けようの無いものとして受け入れ、
何処かで見守ってくれている、
あなたの「子」らのために前向きに生きて頂ければと思います。

甥子さん姪子さんに対する時も、
母・叔母の目線で優しく接してみてください。
視点が変わるとおもいますヨ!

私には幸いにも、子供が3人おります。
けれどその3人に恵まれる途中で
この手に抱けなかった命がひとつありました。
今、その子が話しかけてくれている気持ちで、
この回答を書かせてもらいました。

卑下する必要はありません。

あなたも 母 なんですよ!

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おきもち

石川県金沢市内の城北地区鳴和町で浄土真宗本願寺派のお寺をお預かりしておりま...
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求めるものが得られない苦しみのメカニズム

大熊さんの素晴らしい回答で十分だと感じましたが、私はあなたの苦しみだけは取り除きたいと思いましたので、苦を除くことにだけ焦点を当ててお考えください。
私には今もどうしても欲しい状況があります。それは願ってもいまだ手に入りません。
一生変わらないかもしれません。
理想的な状況にするべく努力もしましたが、得られませんでした。
禅の師でもあり父である弊師は「葛藤」に学びなさい、とお示しくださいました。
木に巻き付いて取り外すことができない(求めてもそれがかなわない)葛藤は、葛藤そのものであってそれ状況それ自体には罪はありません。
「それ以上変化を求めず、そこから改変しようともせず。」
より良い状況を望んでも得られない事は無限にあります。
確実にその状況であって逃れようもない。
木自らではその状況から変えようがない。
でもそれ以上でもそれ以下でもない。
わたしたち人間はその状況を変えようとするからギャップで苦しむのでしょう。
じつはその心の動かし方にこそ、苦しみを生み出している原因があるのです。
この世にはどうしても思い通りにならないことがある。
求めることが得られなければ苦しみが生じることがあります。
苦しいです。
ならば、せめてその苦しさだけは取り除きましょう。
その時に私が自分自身を考察して感じたことは、
あなたでいうところの
子宝に恵まれない
Aというその状況を、Bという理想の状態に改変しようとしている、別のものにしようとしている心の動きがあるから苦しいのだ、ということに気づきました。
今の状況ではない子宝を授かりたいBという理想の世界を描かれてしまうのです。
でも現実はAという真実で変えられません。つまりAをまるで度外視しているのです。
葛藤に学ぶ生きかたとはその状況Aを、受け入れる、肯定する、求めない、逆らわない…
ともいえますが、
「それがただそれ」
「それでしかないんだ」「それそのものなんだ」という本当の現実を知る。
脚色抜きの情愛感情一切抜きのどうしようもない真実を、それそのものとして受け止める視点が大切であると感じました。目を開けばそこに現実がある。その現実が今の現実です。
Bをもとめず今の現実のままに処すとき、心は静かなのだと知ることです。

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おきもち

執着を放すのではなく・・・。

 めんたいこ さん。以前の文章より柔らかくなった気がします。大分落ち着いて嬉しく思います。今の気持ちが執着を捨てた状態だと思いますが、違いますかね。ここから、執着を捨てようと意識しだすとそれが執着となり、さらに心が苦しくなりますよ。今の気持ちのまま暫くいましょう。
 ストーカーのニュースを見て、色々と考えられましたが、このような人もそうですが、犯罪に手を染める人はどうしてその気持ちをもっと別のところに使えないかねと思います。あのしつこさは真実を突き止める研究者にはなくてはならない素質だと思います。科学の進歩にホント一躍かって欲しいくらいです。執着が強い人はその反対も非常に強いものを持つようになるとワシは思います。修行時代、1年目では全くやる気のなかった者が3年目にして立派な僧侶に変化したことをすごく、印象に残っています。「霧の中にいれば衣が湿る」ように修行を続ければそれなりに僧侶の形を成していくものだと思います。これは色々なことにでも言えることと思いますので、あなたもこれから紆余曲折はありますが1歩1歩前進してみては如何でしょうか?

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あなたの小さな悩み相談お答えします  私があなたの悩みを解決するのでは...
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「執着」の原因とは・・

めんたいこ様

川口英俊でございます。問いへの拙生のお答えでございます。

「執着を手放すための心の持ちよう」・・

まず、めんたいこ様が、お子様を授かりたいという想いは、何も特に否定されるべきことではありません。人間生きていくためには、様々な欲求・動機が必要であり、それが悪い行いへと向けたものでなく、あまりにも度が過ぎる極端なものでない限り、必然なることでございます。特に人間の生殖の欲求を否定してしまうことは、人間という種の存在意義の否定、自己の存在意義の否定にも繋がることとなるため、宜しくないことでございます。

また、様々な欲求・動機も善い行いへと向けたものであるならば、当然により推奨されることとなります。例えば、仏教においては、悟りを求めるという意志である菩提心を起こすこと、更にその菩提心を何度も何度も繰り返して心に起こして馴染ませて、より強い意志へと調えていくことを執着だとは考えませんし、むしろ必要な欲求・動機であると考えます。

そこで、執着ということに対して、仏教が本来問題とするのは、「実体」へのとらわれというものであり、めんたいこ様がここで少し考えておられることとは、やや異なるものとお考え頂けましたらと存じております。

もちろん、ストーカーの人における執着というものを考えた時、その対象者への執着を無くすことができれば、それはそれで良いのでしょうが、その執着を起こす原因には、煩悩、あるいは無明(根本的無知)というものがあるため、その煩悩、無明を対治しなければ何ら根本的な解決にはならないのであります。

その無明・煩悩の根源的原因としては、「実体」へのとらわれがあるため、それを私たちは執着として問題とするのであります。

特にその「実体」へのとらわれを無くしていくために、仏教では「空と縁起」の理解を進めていくことが必要となります。ですので、「執着を手放すための心の持ちよう」とは、空と縁起の理法を理解して、執着の原因となっている煩悩と無明を対治していくということが大切となる次第でございます。

と・・仏教的な難しいことは少し置いておきまして・・とにかくお子様を授かるための良き「縁」が調いますことを祈念申し上げたくに存じます。

川口英俊 合掌

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Eishun Kawaguchi
最新の仏教論考はこちらでご覧頂くことができますが、公開、非公開は随時に判断...
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質問者からのお礼

お礼が遅れて申し訳ありません。ご回答ありがとうございました。

[観音寺 大鐵 様]
別のところに気持ちをというお話、目からウロコの感じがしました。不妊治療は苦しみでしかないと思っていましたが、私はエネルギーもつぎ込んでいたんですね。 そのエネルギーを別のことに使えるように少しずついろいろなところを見て、今はむりでもいつかは私も誰かの役に立てるようになれればいいな、と思いました。

[養法寺 大熊範隆 様]
読ませていただきながら、涙が止まりませんでした。私は母親にもなれない中途半端な人間だとずっとずっと思ってきました。それがむなしさや、喪失感を強くしていたのかもしれません。自分で自分を貶めるのはもうやめるようにがんばります。

[超覚寺 和田隆恩 様]
我欲という言葉を教えていただきありがとうございました。言葉として知ってはいましたが、自分に重ね合わせたことはありませんでした。我欲とは自分の利益だけを追求することと捕らえていいでしょうか。私の抱いている苦しみの大半は、なんだかこの我欲からきているような気がしてきました。でも、モチベーションの大半もそこから来ているような。我欲を捨てて生きていければ理想的ですが、本当に難しそうですね。

[安穏寺 丹下 覚元 様]
お礼が遅くなって大変申し訳ありません。苦しみを取り除くことを考えてくださってありがとうございます。見ず知らずの私のために、心からありがたいと思います。
実は、最初少し難しく思えて何度も読み返していました。そもそも求めることが苦しみを生む、ということでしょうか。目指すべきはその境地なのですね。今の社会のせいか、子供の頃から、努力+合理性+成果=幸せ という公式で育ってきたような気がします。そして今、その公式では決して解けない難問に向き合っているのだと感じます。いつか心がこの「葛藤」を受け入れてくれる日を待ちたいと思います。

[川口 英俊 様] まずはご回答いただきありがとうございました。
お恥ずかしい限りですが、正直なところ私には難しくあまり理解できませんでした。
要約すると、「実体」へのとらわれを無くしていくために、空と縁起の理法を理解して、執着の原因となっている煩悩と無明を対治していく。ということになるのでしょうか。内容につきましては、少し書物などで勉強させていただくとして、良き「縁」が調うことを祈ってくださり、ありがとうございました。とてもうれしかったです。

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