お坊さんの修行の意味
先日、千日回峰行を2回も行われた酒井雄哉さんの「一日一生」という本を読みました。とても読みやすく、酒井さんがこれまでの人生や行を通して学ばれた人生におけるものの考え方や、日常の小さな幸せに気づかせてくださる本でした。
ところで、千日回峰行のようなきつい修行は止めるなら死ぬ、というルールがあるみたいですね。このような感情を持ってはいけないのかもしれませんが、なんだか馬鹿馬鹿しい、と思ってしまいました。
『毎日毎日仏様にお祈りし、行をすることで、いったい世の中の何の役に立つのか?』と疑問に思いました。
千日間毎日山の中をぐるぐる回ってお祈りしても、今あらゆることで困っている人々が助かるわけじゃないですよね?
お坊さん方に失礼なことを言っているのは分かっています。ただ純粋に疑問に思ったので質問してみました。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
千日回峰行の意味
昔は山歩きが修行と考えられていたのです。山は神聖な場所で、そこに踏み入ることは、禁じられ、遥拝しかできなかったのですが、修行者たちが山に分け入り、それ自体が修行と化した経過があります。
ですから、比叡山の千日回峰行も三塔巡拝を欠かさずするということで、意味のあることなのです。
私も本山での修行中に三塔巡拝はやったことがありますが、足ががくがくになりました。まだ若かったころですし、1日でこれなんですから、それを千日もなんて気が遠くなります。
比叡山には千日回峰行の他にも12年籠山行というのもあります。これらの山の修行に意味がないと、山を下りられたのが、法然上人をはじめとした鎌倉新仏教の諸師でした。だからあなたの言うことは一面当たっているともいえます。(鎌倉新仏教側から言えばね。)
私は在家から出家しました、浄土宗の僧侶です。千日回峰行のような厳しい修行は私には無理です。もちろん偉い阿闍梨餅さまなどならできると思います。そのような厳しい修行などに耐えられない人に救済はあるのか?という疑問から、誰にでもできる修行(この世のあとはお浄土に往生する)、それがお念仏の道浄土の教えでした。法然上人の時代も疫病や飢饉と本当に大変で人々が苦しんでいるなか、法然上人が目覚められたのが、お念仏の教えでした。その精神のなかには、「平等の救済」という信念があります。自分も人も皆が救われなくては、という思いです。
コロナ禍の最中、私は改めて法然上人の本を読み、先が見えない時代、わけのわからない不安、それを和らげ、苦しいなかでも生きていける希望を与えていただけるのがお念仏だと改めて思いました。様々な修行、どれも尊いです。でも私のような弱気で平凡な人間にも「大丈夫。そのままでいいよ」と支えて下さる阿弥陀さまの教えは改めて今、深く心に入ってきます。毎日お念仏をしながら、していることで感じてくるものを大切にしていくのも、地味ですが修行の実践と受け止めています。
悟りを目指す
私は浄土宗のお坊さんなので、天台宗における千日回峰行の位置づけはわかりませんが、一般的な仏教の修行は、真理を悟り、悩み苦しみの原因である煩悩を消したり制御したりできるようになるためのプログラムです。
戒(生活習慣の修行)、禅定(精神集中の瞑想修行)、智慧(真理に気づくために現象を観察する瞑想修行)の三つの修行(三学)がメインです。
ただ、浄土宗では、この世で三学を完全にマスターするのは難しいから、まずは極楽浄土に往生することを目指します。
極楽浄土で、阿弥陀仏という仏様(実際に悟ったお方)に三学を指導してもらう方が悟り易いという考え方です。
いずれにせよ、悩み苦しみを消したり制御したりするテクニックを学べるのが仏教の特徴です。
質問者からのお礼
お坊さん方にとってはくだらない質問だったと思いますが、丁寧に答えていただきありがとうございます。「真理を悟り、悩み苦しみの原因である煩悩を消したり制御したりできるようになるためのプログラム」と「戒(生活習慣の修行)、禅定(精神集中の瞑想修行)、智慧(真理に気づくために現象を観察する瞑想修行)の三つの修行(三学)」というところがとても分かりやすかったです。仏教における行をすることでサイコパスのように合理的な人間になることができるのですね。そうなったら無駄のない方法で困っている人を助けたり世の中の問題を解決したりすることができるようになる。修行の意味がよく分かりました!