浄土宗信仰について
夜遅く申し訳ございません。
僕は今年26歳になります。浄土宗総本山知恩院おてつぎ運動にも参加しています。
毎日勤行は行っています。
家族親族にいつも言われるのは、なぜそこまで若いのに仏教に興味あるのか、仏教を信仰するのは年老いてからだと。
信仰の自由を知らないんですかね。歳が何歳でも、仏教、浄土宗の教えを信仰してもいいですよね。
なぜ浄土宗かといいますと、出身の高校が浄土宗系の高校であったため、浄土宗の授業がありまして、そこで興味を持ちました。
心理の学校の先生でも、融通念仏宗の僧侶をされながらカウンセラーをされておられる方がいらっしゃいます。
その先生とはすごくお話していて面白いのでいつもお話をしているんですが、僕がこの歳で仏教信仰するのはおかしいですか、と尋ねたところ、驚いてはいらっしゃいましたが、すごく受容してくださり、こちらとしては嬉しいという答えをもらえました。
しかし、まだ自分の中にはほんとにいいのかなという気持ちがあります。ひとりで法然上人二十五霊場の寺院を訪れ、参拝し、御朱印をいただくのが好きなんですが、やはりそこらへ行けば周りの目が気になります。
なんで若いのにここに来てるの、という目線を感じます。
最後に、この歳で自ら菩提寺を探し、浄土宗の教えを信仰することはおかしいことでしょうか。
長文、ご拝読ありがとうございました。
合掌
26歳、心理学生です。三人兄弟末っ子として産まれました。書道師範の祖父から「翔山」という号を頂き、書道をしております。 発達障害、愛着障害、不安障害もちです。また、神経線維腫症Ⅱ型Stage3で余命宣告されました。入壇できる浄土宗の御寺院さま、ぜひご連絡ください。 浄土宗総本山知恩院おてつぎ運動 会員 合掌十念
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
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仏教を信仰するにあたって、年齢の制限はありません
おはようございます。浄土真宗の地方寺院の住職をしております。
「仏教を信仰するのは、年老いてからだ」との言葉は、現代の日本を現す典型的な言葉の一つです。仏教を死に道具、お葬儀・ご法事のためのもの(= 葬式仏教)と捉えている方々の言葉でしょう。周囲の目が気になるのもわかります。それは、あなたの周りの環境そして日本の平均的な捉え方がそうさせているだけであって、あなたが仏教を信仰するにあたっての妨げとなるものではありません。日本全国には数多くの宗教立の学校があり、そこであなたと同じように多くの学生がそれぞれの宗教の授業を受け、人生のヒントにしています。
あなたが高校で学ばれた通り、仏教をひらかれたお釈迦さまは、幼い頃より人生の生老病死に気づき、そのいのちの事実をごまかすことができず苦悩し、その解決のために出家をされました。つまり、物事をまっすぐに見ることが出来る若い時こそ、生老病死に出会い、悩み、真実を求めることが正直な姿だと言えます。むしろ、若い世代が仏教の本来の姿に出会ってくださり、その教えを支えに人生を精一杯生きてくださることが、僧侶・住職として大変嬉しいことです。
「若いときにこそ、仏法は嗜(たしな)みなさい。なぜなら、年をとれば、足が弱って教えを聞く場所に行くこともできなくなり、大事な教えを聞いていても眠たくなってしまうからです。」
という浄土真宗第七組・蓮如さまのお言葉を、私は本当にその通りだと受け取っています。
私は、大学で「仏教は人間学だ』とも学びました。ですから、仏教はあなたが学んでいる心理学とも親和性があります。ともに、人間の認知・思考・行動をみつめ、人との関係性について追求してきたという部分で、様々な共通点もあります。色々なことを柔軟に吸収できる若い世代ですから、毎日の勤行をきっかけに、その教えも学んでみてください。
きっと、人生の視野が広がり、深みのある大人になることが出来るでしょう。これからの仏縁の深まりを楽しみになさってください。このハスノハも応援しています。
菩提心は大事です。
私は浄土宗のものです。若いけれども、感心だと思いますね。やはり高校で感化されたというのはあると思いますが、やはり仏縁というのはあるものなのですよ。
大学でも心理学専攻していて、また融通念佛宗とはレアな宗派の方と知り合えてよかったですね。私は時宗系の浄土宗ですが、時宗以上に融通念佛宗はマイナーですからね。
げんさん師の言う通り、心理学にも役立つでしょうし、やはり従来の仏事は年取ってからするものだという固定観念は打破されるべきと思います。
知恩院のおてつぎ運動にも参加されているとのこと、法然上人二十五霊場巡りもされているとのこと、毎日勤行もされているとのこと、十分ではないですか。
あまり、信仰に一生懸命になるあまり、周りといざこざを起こしてもなんですが、周りの雑音は聞き流していいのではないですか?
良き指導者となる菩提寺が、大阪近郊で見つかればよいですね。
付記すれば、表題は菩提心(ぼたいしん 菩提を求める心)は法然上人は『選択集』では捨てたのではないかと栂尾の高山寺の明恵上人は『摧邪輪』で批判しました。
しかし、その後の浄土宗の歴史の中で、菩提心も大事となりました。
日常勤行式で「願以此功徳 平等施一切 同発菩提心 往生安楽国」(がんにしくどく びょうどうせいいっさい どうほつぼだいしん おうじょうあんらっこく)(願わくはこの功徳を以て 平等一切に施し 同じく菩提心を発して 安楽国に往生せん)と唱えている通りです。
同じ浄土系の僧侶として。
浄土真宗の御本山本願寺の第8代の法主蓮如上人は
「わかきとき仏法はたしなめと仰せ候ふ。
としよれば行歩もかなわず、
ねぶたくもあるなり、
ただわかきときたしなめと候ふ。
(蓮如上人御一代記聞書・63条)
若いときに仏法に向きあいなさい。
なぜなら年をとれば足が弱って
教えを聞く場所に行くこともできなくなり
大事な教えを聞いていても
眠たくなってしまうからです。
若いときにこそ仏法に向きあいなさい。 」
と申されました。
仏法は
ただ一度の繰り返すことのない
誰とも代わることのできない人生を
どのように生きるのかという問いから始まります。
だから生きていくことに問いをもつ
若々しい精神があるときにこそ
仏法を心にかけて生きてほしいと
蓮如上人は仰ったのでしょう。