初めまして
私は強迫性障害と呼ばれる精神障害者です。例を挙げるなら手洗いを何回もやらないと気が済まない、外出の際、家の玄関の鍵を何度も確認してしまう等です。今一番苦労しているのが、車を運転する際、極度の加害恐怖症のようになってしまい安全運転を心がけているにもかかわらず本来なら楽しいはずの運転がとても、苦になってしまっている事です。
毎日、毎日この繰り返しで正直、本当に生き苦しい毎日です。ちなみに余計な事かもしれませんが心療内科には通い続けています。
極度の加害恐怖症
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
考えを主人公にせず、自分の事実を主人公としよう
①まずは小さい車がイイでしょう。ぶつかる確率は減りますからね。私も大きな車、一つも傷ついていない車の運転は過剰防衛になり心が疲れます。
②失うことを無くしましょう。
「失うという事は心の中で、失った感を思い起こしたその時だけが失った感が起こるだけなのであって、それ以外の時は何も失われていません。」
この道理、このマントラを30回唱えてみてください。
③自意識過剰を減らす。
「誰もわたしの事など気にしていない」「気にしているんじゃないかと、私が想っているだけであって、みんな自分ん事をやっている。だから私も自分の事を静かに全うしよう」これも納得するまで唱えてみてください。
④本当の恐れは、相手ではなく、自分。
実はあなたは外の事を恐れているように見えて、自分の心の働かせているときにネガティブなエネルギーが大量に放出しているだけです。
⑤自分の本当の姿を知る。
参禅をお勧めします。目的は坐禅ではなく、自分の思いを一切離れて静かな心に帰る事です。
岡山に井上貫道老師が参禅会を開かれています。
坐禅をしに行くのではなく、自分が迷っていることをお尋ねください。
きちんと進むべき方向を示してくださると思います。
⑥自分がいかに観念的であるかを思い知る
手はそれほど洗わずとも汚れてはいません。
そもそも汚れって何か。
汚れたと思うのは何故か。
綺麗であろうとするなら、本当の綺麗さは、キレイと汚いの両方の考えを離れたものである。
この意味がお分かりになるまで参禅してみてください。
これは直す直さないの問題ではありません。
ヒロイズムさん。この障害は医療が発達すれば治る可能性がありますが、それ以外に精神修養や修行で治るものではありません。
『バリバラ』というTV番組でも放映されておりましたが、ワシは社会が障害に対して理解をするしかないのかもしれません。そもそもこれを障害と見るか個性と見るかは紙一重だと思います。
本当に苦しいなら、皆に話すことが1番の解決方法かもしれません。聞いてくれる人いますが聞いてくれない人もいます。それでも独り言のように話すべきです。ワシもほとんど主張を聞いてくれません。理由はうるさいかららしいですが・・・。でも、自分は言わないよりストレスが緩和されます。そのうちに気の毒になり聞いてくれる人が増えていきました。これは時には孤独を覚悟しなくてはなりませんが・・・。
どうしても聞いてくれない人が居ましたら、今はSNSという手段もありますのでいくらでもぶつけましょう。hasunohaでもいいかもしれません。
菩薩の道
ヒロイズムさま
なごみ庵の浦上哲也と申します、よろしくお願いします。
私も、ヒロイズムさんほどの苦しみではないかもしれませんが、家を出て少しすると「鍵を締めたかな」「ガスは消したかな」と思い、家に戻ることもしばしばです。
実際に施錠していなかったり火が点けっぱなしだったことはないので、ホッとしたり自分にイライラしたり、言いがたい感情が湧いてきます。
また、私は日ごろスクーターで移動していますが、やはり「事故を起こしたら、多くの人に迷惑をかけてしまう」と思い、慎重に運転するよう心がけています。
こういった慎重すぎる姿勢は、ヒロイズムさんご自身の苦しみとなってしまっていて、辛いこととおもいます。でも、施錠を忘れて空き巣に入られたり、運転していて人を傷つけたりという事があれば、多くの人を苦しめることになります。
ヒロイズムさんの苦しみは、他の方が背負うかもしれない苦しみを代わりに背負っているのだ、とお考えになってみてはいかがでしょうか。仏教では凡夫の苦しみを背負う存在を菩薩といいます。自分は菩薩の道を歩んでいるのだ、と思うことが出来れば、ヒロイズムさんの苦悩にも前向きな光が当たるのではないかと思いますが、いかがでしょうか。
より良い幸せのために
ヒロイズム様
川口英俊でございます。問いへの拙生のお答えでございます。
「強迫性障害」という心の病をお抱えであるとのこと・・そのために慎重に慎重に物事をなさられておられるご様子・・
浦上様のお答えにもありますように、誰かのために役立っている善き行いと捉えることができれば、少しは苦しみも癒えていくのではないかと存じます。
例えば、手洗いをしっかりとすることは、色々な悪い菌を媒介させることもなく、風邪も移すこともない、家の戸締まりをきちっとすることは、盗みという罪を犯させるということがない、慎重に安全運転することで、事故で被害を与えることもない・・という善き行いとなります。
善き行いは、善き報いのために大切な因・縁となります。そしてできるものであれば、その動機も善き心にて調えることが望まれます。是非、それらの行いは他に役立つもの、他の為となるものであると少し意識して行われてみられてもどうかと存じます。
また、「○○障がい」・「○○症」・「○○依存症」といったものに、変にマイナスに囚われてしまわれずに、私たちそれぞれにおいてのより良い幸せのためには、それぞれの心をより良くに変容させていくことが必要となります。このことも少しご理解頂けましたら有り難くに存じております。
問い「女なのか、男なのか。」
http://hasunoha.jp/questions/470
『・・「障がい」と言ってしまうと、どこか嫌悪感が生じてしまうかもしれませんが、本来、現代社会で一概に規定されているような「障がい」の有無に関係なく、私たちは皆一様に、無明(根本的無知)・煩悩・悪業(つまり、煩悩障・所知障)という障り、つまり、「障がい」を抱えており、日々生きていく上で様々な悩み・迷い・苦しみがあるかと存じます。
それをこれは「障がい」で、これは「障がいではない」と一律に決めつけてしまうのではなくて、そんなことよりも、それぞれにおいて、その心のありようを改善させ、成長させていくことにより、悩み、迷い、苦しみを解決させて、より良く幸せに過ごすことができるように調えていくことが大切になるのではないかと存じております。
仏教は誠にその一助として良き処方箋になるのではないかと存じます。是非この機会からも学びを進めていかれますことをお勧め申し上げる次第でございます。・・』
川口英俊 合掌
質問者からのお礼
ありがとうございました。