解脱の目的が分かりません
大学で仏教の授業をとっています。辞書で解脱の意味を引くと煩悩から解き放たれるなどとありこれについては納得なのですが、元々の解脱の目的は輪廻のサイクルから抜け出し仏になることだと学びました。今でいう解脱とは少し違ってさらに超自然的なことのように思えます。
しかし一度死ねば自分が来世何になるかなど知る由もありませんし、認知できるのは現世の記憶だけです。となると、自分がどれだけ輪廻をぐるぐるしていようがそこまで苦に感じないのではないでしょうか。わざわざ輪廻から脱する必要はあるのですか?それとも輪廻から脱したいというよりは、仏になりたい、仏が見ているのと同じ景色が見たいということなのでしょうか。
昔の人たちが解脱を目指したことにはどのような意味があるのか教えていただきたいです。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
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死ぬときに急に怖くなるより
今のうちに万一に備えて来世の準備をしても良いのではないかと思います。
前世までのことは幸か不幸か忘れているので関係なさそうですが、来世のことは、今の私には関係なさそうですが、死ぬとき、次の「今の私」として直面します。来世では、この人間だったときのことは忘れて、地獄で苦しむか天界で楽を享受するか、どれかの新しい生を、「今の私」が始めるのです。
今の一生涯が来世を決めるとすると、より良い来世を掴めるように、今をより良く生きていたほうが得ではないかと思います。その中で一番良いのが解脱ということになります。
輪廻
niさま
輪廻からの解脱は、迷い苦しむ存在の繰り返しにならないということを意味します。
もちろん、迷い苦しむ存在とならない繰り返しの輪廻もあります。例えば、菩薩の転生などであります。
この場合は、輪廻に留まり、衆生を救済することに尽力なさられるのであります。
まあ、仏教の目的の一つは輪廻からの解脱となりますが、それは本来の目的ではなく、一切衆生、全ての皆の輪廻からの解脱を目的として仏になることを目指すというところであります。
もちろん、輪廻から解脱はしても、仏になれない者もいますし、あえて、仏にならない者もいます。
最終的には、仏になることが目的にはなりますが、「輪廻からの解脱→仏になる」ということではなく、「仏になったから輪廻からはまあ一応解脱した」というのが正確なところとなります。
昔の人たち(今の人たちにも言い得ますが)が解脱を目指したのは、まずは、この迷い苦しみから離れたいというのが動機としては強くあったのでしょう。
人としての存在は、やはり苦しみが多いものです。代表的にも、八苦(生老病死、愛別離苦、怨憎会苦、求不得苦、五蘊盛苦)あります。そんな苦しみある存在として生じるのは、やはり、その因縁、業があってしまっているからであります。もちろん、人よりも更に悪い境涯の存在もありますし、人よりも多少は良い天に生まれる存在もありますが、いずれにしても、なかなか迷い苦しみからは逃れられないのが私たちの現実であります。
とにかく、その因縁、業をより善いものに調えていくことによって、結果としての輪廻をより善いものとしてゆき、やがては、より善い転生(浄土への生まれ等)を繰り返す中で、智慧と功徳の力を高めて、業を清らかに調え、そして、いずれは、一切衆生の救済ができる仏、如来へとなれることを目指して参りたいものでございます。
川口英俊 合掌