hasunoha お坊さんが必ず答えてくれるお悩み相談サイト

お坊さんに質問する
メニュー
メニューを閉じる

解脱の目的が分かりません

回答数回答 2
有り難し有り難し 6

 大学で仏教の授業をとっています。辞書で解脱の意味を引くと煩悩から解き放たれるなどとありこれについては納得なのですが、元々の解脱の目的は輪廻のサイクルから抜け出し仏になることだと学びました。今でいう解脱とは少し違ってさらに超自然的なことのように思えます。

 
 しかし一度死ねば自分が来世何になるかなど知る由もありませんし、認知できるのは現世の記憶だけです。となると、自分がどれだけ輪廻をぐるぐるしていようがそこまで苦に感じないのではないでしょうか。わざわざ輪廻から脱する必要はあるのですか?それとも輪廻から脱したいというよりは、仏になりたい、仏が見ているのと同じ景色が見たいということなのでしょうか。

 
 昔の人たちが解脱を目指したことにはどのような意味があるのか教えていただきたいです。

2020年10月25日 14:14

この問答を娑婆にも伝える
facebookTwitterLine

お坊さんからの回答 2件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

死ぬときに急に怖くなるより

今のうちに万一に備えて来世の準備をしても良いのではないかと思います。
 前世までのことは幸か不幸か忘れているので関係なさそうですが、来世のことは、今の私には関係なさそうですが、死ぬとき、次の「今の私」として直面します。来世では、この人間だったときのことは忘れて、地獄で苦しむか天界で楽を享受するか、どれかの新しい生を、「今の私」が始めるのです。
 今の一生涯が来世を決めるとすると、より良い来世を掴めるように、今をより良く生きていたほうが得ではないかと思います。その中で一番良いのが解脱ということになります。

2020年10月26日 8:12
{{count}}
有り難し
おきもち

おきもちが累計1400件を超えました


初期仏教というか仏教本来の教えを学びつつ、その在家信者のあり方から見た日本...

輪廻

niさま

輪廻からの解脱は、迷い苦しむ存在の繰り返しにならないということを意味します。

もちろん、迷い苦しむ存在とならない繰り返しの輪廻もあります。例えば、菩薩の転生などであります。

この場合は、輪廻に留まり、衆生を救済することに尽力なさられるのであります。

まあ、仏教の目的の一つは輪廻からの解脱となりますが、それは本来の目的ではなく、一切衆生、全ての皆の輪廻からの解脱を目的として仏になることを目指すというところであります。

もちろん、輪廻から解脱はしても、仏になれない者もいますし、あえて、仏にならない者もいます。

最終的には、仏になることが目的にはなりますが、「輪廻からの解脱→仏になる」ということではなく、「仏になったから輪廻からはまあ一応解脱した」というのが正確なところとなります。

昔の人たち(今の人たちにも言い得ますが)が解脱を目指したのは、まずは、この迷い苦しみから離れたいというのが動機としては強くあったのでしょう。

人としての存在は、やはり苦しみが多いものです。代表的にも、八苦(生老病死、愛別離苦、怨憎会苦、求不得苦、五蘊盛苦)あります。そんな苦しみある存在として生じるのは、やはり、その因縁、業があってしまっているからであります。もちろん、人よりも更に悪い境涯の存在もありますし、人よりも多少は良い天に生まれる存在もありますが、いずれにしても、なかなか迷い苦しみからは逃れられないのが私たちの現実であります。

とにかく、その因縁、業をより善いものに調えていくことによって、結果としての輪廻をより善いものとしてゆき、やがては、より善い転生(浄土への生まれ等)を繰り返す中で、智慧と功徳の力を高めて、業を清らかに調え、そして、いずれは、一切衆生の救済ができる仏、如来へとなれることを目指して参りたいものでございます。

川口英俊 合掌

2020年10月25日 16:58
{{count}}
有り難し
おきもち

おきもちが累計1400件を超えました


川口 英俊
チベット仏教 ツォンカパ大師中観思想・後期二諦説の研究

「仏教全般」問答一覧

人徳とは何でしょうか?

 年末多忙の時期、しかもコロナ禍のさなか、恐れ入ります。  かれこれ10年前、勤めていた職場をリストラで追われ、どうにか生き延びて参りました。10年をへて、その当時の慢心や、先般ついに手帳まで頂いた障害など、自分自身の上に反省すべき点も多々見い出しつつあります。  にもかかわらず、その当時、とある方から言われた言葉がやはり折に触れて脳裡に甦ります。しかも抗弁しようにも、その方は数年前に急逝なされ、いまはお浄土に。その言葉とは、   「ピンチに出くわして、すぐに救いの手が伸びて来ないのは、人徳がない証拠」 というものです。なるほどな、とも思わされますが、同時にやはり、「ちょっと待ってくださいよ!」という思いもございます。  そのかたは生前、仏教者として特色ある活動をなさった人であり、みだりに批判することは倫理的にも強く躊躇(ためら)われます。それでも、そのかたがお遺しになった会社が、今般のコロナ禍でかなり四苦八苦している様子を人づてに聞かされますと、心の中に「どうしました?人徳がないから左前になるんですよね?」という、どす黒い思いが湧いてこないと言えばウソになってしまいます。  そのかたとは私がリストラされるまで、ご縁あって、幾度か帰り道に御一緒したこともあるのですが、10年前、突然の(……会社側からすれば兼ねて計画していたとおりの)リストラで苦痛の極にあった私へ、「君の声は某宗教の布教師どもの声そっくりだ。不快きわまる!」というお言葉もいただいております。自分は声がやや甲高いので、それが不快感を与えてしまったのか…と思い余った末、喉仏に男性ホルモンか何かを注射して治してもらおうとすら考え、これは家族みんなに止められました。  さて、ようやく立ち直ろうとしている今、この疑問に対する自分なりの答えも日ましに脳裡で形をなしつつあります。このうえ回答僧諸師をお煩わせするのはいかにも申し訳ないと思いつつも、皆様の多年にわたる御回答経験の中から、大所高所に立ったお言葉を頂けたらと念じております。  もっとお苦しみのかたが沢山いらっしゃいます。でも、どなたかお手すきの折に何か無形の御守りともなりそうなお言葉を頂けたら幸甚です。以上、ここまでお読みくださいまして、誠にありがとうございます。

有り難し有り難し 18
回答数回答 1

仏教で気持ちが楽にならないです。

全体: 仏教はこの世が苦しくてたまらない人が解脱or楽になる為に信仰している。 今回のタイトル: 全く楽にならない。 なぜ 1楽にならない助けて!というと本人の思考、もしくは生まれる前の前世が最悪だったからというどうしようもない提案をされる。 さてその本人の考え自身も、彼自身が会得したものではないという事すら苦しみなのです。 人を殺めていいという環境に生まれた人が、別環境に押し込められて考え方を根性で変えよ!というような暴論。 また前世は証明されたわけではないのにどうしようもない変えようがない物をあげて耐えろ!という暴論。 2信じないのなら離れろ!という暴論 信じないのなら離れて、消えて。みたいな事を言われます。だとしたら楽にならないけど仏教を続けて一部の人は楽になるのに一部の人は楽にならないわけでそれ自身が苦しみになるのでは? ブッダの考え方はとても好きだけど、その後の仏教の考え方が嫌いな場合でも信仰をやめて離れろよ?的な暴論が苦しい。 論理を求めたから仏教にたどり着くのに論理がしたいなら仏教の論文でも書け!みたいな無理な事を求めるのは根拠はない!根拠は俺!みたいな考えではないですか?それこそ私が嫌いなものです苦しみの根源です。 3圧倒的な不幸な人より煩悩にまみれた仏教徒の方が幸せ スマホに、結婚や性行為に、家に、車に、欲しい物に、他の生物を食べて生きる事、を普通にやってて、それ以下の苦しみしか得てない人は一切幸福が得れない。 結局煩悩を満たす為に欲を満たすしか方法がないという事なのではないか?という結論に至りそう。 4論理的に反論できない時は、修行が足りないorその人に聞いてみろ。その人の不幸は実際に本人の気持ちにならないとわからないという逃げ。そしてその中に内包するお前はそんな事情も知らないで嘆いてるんだろ?という攻撃。 修行なんていつまで続けるか?という区切りがありません。だとしたら楽にならないのでは?という事。また早く死ぬ可能性もあるわけで惨憺たる人生のまま亡くなってしまう事もあるわけでその人自身は苦しむ為に生まれたの?を否定できなくなる。 5織田信長は天下を取れたという事。 彼は焼き討ちしたのに幸福な人生を生きた。 ↓ 楽になりたいのです。さて上の説明を含めてどうすれば良いでしょうか?

有り難し有り難し 65
回答数回答 2

不審と信心と往生について

1年前にも同じような質問をしたのですが 41願のことを「信心を得たものは諸根が具足する」と書いてある本があって(蜂屋賢喜代という方の四十八願講話という本です)、それなら 身体が具足することが信心を得た証拠になるじゃないか、おかしいじゃないかと思っていろいろな善知識の方に相談しました。 すると先生のように、身体は関係ない、と様々な方からいろいろな理由で言われました。香月院深励師の本には『初住以上の菩薩』と書かれてありました。 そこで素直に「そうだな、合理的に考えて41願以降の願が念仏者に向けられているとは考えられないし、41願のことは考えなくていい」と思えればよかったのですが、なぜか「41願によって信心を得たものは諸根が具足する」という思いが1年ほど強迫観念のように頭にありました。 今も、前ほどではありませんが、1日に何度も「41」という数字が頭に浮かびます。これは疑いなのでしょうか? この不審があっても、往生の障りにはならないのでしょうか。念仏や生起本末には疑いがないのですが、この不審が頭に浮かぶたびに 「こんな心じゃ往生できない」と思ってしまいます。 けれど今はもう不審の「内容」は嘘だと分かっていて、41願の内容は念仏者ではない菩薩のことだと思っています。 この心は蓮如上人の言葉で言うと、自力の心を振り捨てて、の自力の心なのか、妄念妄執がおこるのもとどめるにあらず、の妄念妄執の心なのか、専門的に言えばどちらなのでしょうか 長文失礼しました。変な質問ですみません。ご返事いただければ幸いです。

有り難し有り難し 5
回答数回答 1

関連する問答

温かい気持ちになるお坊さん説法まとめ

相談カテゴリ
-四苦八苦 SickHack!▼ 全カテゴリを見る