念仏の信心と瞑想について
自分は浄土真宗徒で、信心を得るためにお聴聞や念仏をしています
それとは別で、精神を患っていて、薬を減らすために瞑想をしています
個人的に瞑想は生命力がわいてくる気がして好きなのですが、瞑想をして疑いがなくなるということはないのでしょうか
つまり瞑想をして作った「自力の信心」「ニセ信心」のようなものを「如来から賜る信心」と勘違いしてしまうことはないのでしょうか
今はぽつぽつと疑いがわいているような状態で、信心は得ていないと思います
瞑想のおかげで(せいで?)疑いがなくなり、それで信心決定できたと思っても、3年後に瞑想をやめたら疑いが湧いてきた、ということになると困ります
個人的には聴聞も念仏も瞑想もしたいのですが、どうしたらいいのでしょうか
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
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瞑想とお聴聞を分けて考える
こんにちは、初めまして。
ご聴聞のご縁にあわれているとのこと、誠に喜ばしいことです。
また、お薬を処方されているとのことで、お大事になさってください。
ここでは、私は浄土真宗本願寺派の僧侶として回答します。
あなたも同宗派或いは、お東いずれかだろうと想定します。
私は、「瞑想は生命力がわいてくる気がして好き」ということについては宜しいと思います。やはり、人間は落ち着いた精神状態を持つほうが、余裕ができ穏やかになれることがあると思いますから。
しかし、「瞑想」は、浄土往生の正因であるご信心との連続性はありません。
ご信心はあくまで聴聞によってのみ得られるものです。
また、ご信心は「無疑心」であり、信じたり信じなかったり、疑ったり疑わなかたりする不安定なものでもありません。ご信心は、人が作った人の心ではなく、仏様が作った仏様のお心、金剛心ですから。
まずは、「瞑想」は心身安定、リラックスとしての用途として限定する。
そして、「信心」「お聴聞」の問題とは一先ず切り離す。純粋に聴聞をしてご信心を得るということに集中する、という交通整理が先ずもって必要でしょう。
また、ご参考に言えば、ご信心は自分の心の中だけをいくら探っても分かりません。ご信心は、南無阿彌陀佛と必ず一体です。必ず救うまかせよと仰る阿弥陀様のお心の確かさを、左様でございますなとそのまま聞くのが、ご聴聞であり、ご信心です。ご聴聞を離れてのご信心はないのです。仏様の心を離れてのご信心はないのです。
今後のご参考になれば
雑行雑修自力の心?
現在の真宗では「真宗だけやりなさい。他も交えたら雑行雑修ですよ」と言われるかもしれません。
一方、念仏の教えだけにたどり着いた親鸞は、それまでに天台で様々な修行を実践した上で、念仏一つにしました。ですから、真宗一つに定まるまでは、いろいろ試してよいと思います。
しかし、修行を混ぜることは、ちょっと考えモノで、その意味では雑行雑修だと思います。
特に、瞑想を修行する場合は、仏教の瞑想は「光が見えた」とか「神様に会えた」などという神秘体験ではありません。ただ一瞬ごとの感覚や思考の生滅を捉え続けて、無常、苦、無我という最初から答えが出ている結論に、自分も達してその答えがやっぱり正しかったと納得することです。
ですから、瞑想中はもとより、瞑想に関しては、他の教義をあれこれさしはさまないことが大事です。どういう感覚だった、どういう現象があった、と、客観的に起こった出来事だけを思い出して、「これが信心だろうか?」などと解釈しないことが大事です。
「これが無常、苦、無我だろうか?」でさえ解釈で、ダメです。疑問を持たなくても、無理に解釈しなくても、ある時、「ああ、これが無常ということか」などと自然に分かるものです。ましてや、他の教義の概念と混ぜてはこんがらがるだけです。
信心がストンと入るまでは、雑行雑修、大いに結構だと思います。しかし、それぞれの修行は、それぞれのことだけに集中したほうが良いと思います。修行や解釈を混ぜないほうが良いです。
瞑想については、スマナサーラ長老の『自分を変える気づきの瞑想法【第3版】: ブッダが教える実践ヴィパッサナー瞑想 』が、釈尊のやり方そのままを日本人が理解しやすいように日本語で語っています。解釈しない、修行を混ぜない、スマナサーラ長老の瞑想の教え方がベストだと思います。
「信心決定」
のちさま
基本的には、「信心決定」は内証であるため、他の者から判断できない側面があります。要は、モノコトをどう認識しているのかということを他人からは知り得ないというものであります。もちろん、言語表現においては、その認識についてある程度説明できることがあるかもしれませんが、それは富士山を見たことのない者に、富士山はこうだああだと説明しているようなもので、結局、その説明を聞いた者は、想像の産物でしか富士山を知り得ず、直接見てみないことには、やはりどうにもならないのと同じことです。
それがゆえに、あれこれと(言語表現による)解釈において混乱が生じてしまっているのも事実であります。
まず、瞑想について、仏教の基本は、戒・定・慧の修習、大乗仏教においては、六波羅蜜の修習が大切であり、瞑想(禅定)は、あくまでも修習の一つであって、他とのバランスが求められるものとなります。それは注意しておいて下さい。
そして、「信」についてですが、仏教においては「信じれば救われる」という図式ではなく、自ら自身において、仏様の教え(仏法)を実践していくことが大切なことになります。「自灯明・法灯明」。
では、仏教における「信」は何かと申しましたら、教えの持つ力、効果への信頼ということになります。
その信頼を醸成していくのが仏道過程の一つにもなります。
ですから、その教えの一つ一つを慎重に吟味して、そしてしっかりと納得した上にて実践していく、その「納得」を「信頼」の根拠としていかなければならないのであります。
「師の教えを、ただ尊敬だけをもって受け入れるべきではなく、金細工師が、その扱っている金が本物か偽物か、その金を焼いて、切って、磨くことをもって慎重に吟味するように、そのようにして師の教えも受け入れていくべきである」ということであります。
では、「信心決定」とは、あえて言語表現において申し上げるとするならば、それはつまるところ、仏教の一番の根幹原理への完全なる「得心」となります。
そして、それが何かと申しましたら、釈尊の初転法輪における「四つの聖なる真理」、つまり、「四聖諦の完全なる得心」となるのであります。
阿弥陀如来様の教えの根幹も「四聖諦」ですから、当然同じように言える次第となります。
もちろん、それを自らで得心していかないといけないのであります。
川口英俊 合掌