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念仏の信心と瞑想について

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有り難し有り難し 25

自分は浄土真宗徒で、信心を得るためにお聴聞や念仏をしています
それとは別で、精神を患っていて、薬を減らすために瞑想をしています
個人的に瞑想は生命力がわいてくる気がして好きなのですが、瞑想をして疑いがなくなるということはないのでしょうか
つまり瞑想をして作った「自力の信心」「ニセ信心」のようなものを「如来から賜る信心」と勘違いしてしまうことはないのでしょうか
今はぽつぽつと疑いがわいているような状態で、信心は得ていないと思います

瞑想のおかげで(せいで?)疑いがなくなり、それで信心決定できたと思っても、3年後に瞑想をやめたら疑いが湧いてきた、ということになると困ります
個人的には聴聞も念仏も瞑想もしたいのですが、どうしたらいいのでしょうか


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お坊さんからの回答 3件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

瞑想とお聴聞を分けて考える

こんにちは、初めまして。

ご聴聞のご縁にあわれているとのこと、誠に喜ばしいことです。
また、お薬を処方されているとのことで、お大事になさってください。

ここでは、私は浄土真宗本願寺派の僧侶として回答します。
あなたも同宗派或いは、お東いずれかだろうと想定します。

私は、「瞑想は生命力がわいてくる気がして好き」ということについては宜しいと思います。やはり、人間は落ち着いた精神状態を持つほうが、余裕ができ穏やかになれることがあると思いますから。

しかし、「瞑想」は、浄土往生の正因であるご信心との連続性はありません。
ご信心はあくまで聴聞によってのみ得られるものです。

また、ご信心は「無疑心」であり、信じたり信じなかったり、疑ったり疑わなかたりする不安定なものでもありません。ご信心は、人が作った人の心ではなく、仏様が作った仏様のお心、金剛心ですから。

まずは、「瞑想」は心身安定、リラックスとしての用途として限定する。
そして、「信心」「お聴聞」の問題とは一先ず切り離す。純粋に聴聞をしてご信心を得るということに集中する、という交通整理が先ずもって必要でしょう。

また、ご参考に言えば、ご信心は自分の心の中だけをいくら探っても分かりません。ご信心は、南無阿彌陀佛と必ず一体です。必ず救うまかせよと仰る阿弥陀様のお心の確かさを、左様でございますなとそのまま聞くのが、ご聴聞であり、ご信心です。ご聴聞を離れてのご信心はないのです。仏様の心を離れてのご信心はないのです。

今後のご参考になれば

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おきもち

釋 悠水(しゃくゆうすい)
浄土真宗本願寺派報恩寺住職(兵庫県三木市) 本願寺派布教使 元本願寺布...
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雑行雑修自力の心?

現在の真宗では「真宗だけやりなさい。他も交えたら雑行雑修ですよ」と言われるかもしれません。
 一方、念仏の教えだけにたどり着いた親鸞は、それまでに天台で様々な修行を実践した上で、念仏一つにしました。ですから、真宗一つに定まるまでは、いろいろ試してよいと思います。
 しかし、修行を混ぜることは、ちょっと考えモノで、その意味では雑行雑修だと思います。
 特に、瞑想を修行する場合は、仏教の瞑想は「光が見えた」とか「神様に会えた」などという神秘体験ではありません。ただ一瞬ごとの感覚や思考の生滅を捉え続けて、無常、苦、無我という最初から答えが出ている結論に、自分も達してその答えがやっぱり正しかったと納得することです。
 ですから、瞑想中はもとより、瞑想に関しては、他の教義をあれこれさしはさまないことが大事です。どういう感覚だった、どういう現象があった、と、客観的に起こった出来事だけを思い出して、「これが信心だろうか?」などと解釈しないことが大事です。
 「これが無常、苦、無我だろうか?」でさえ解釈で、ダメです。疑問を持たなくても、無理に解釈しなくても、ある時、「ああ、これが無常ということか」などと自然に分かるものです。ましてや、他の教義の概念と混ぜてはこんがらがるだけです。
 信心がストンと入るまでは、雑行雑修、大いに結構だと思います。しかし、それぞれの修行は、それぞれのことだけに集中したほうが良いと思います。修行や解釈を混ぜないほうが良いです。
 瞑想については、スマナサーラ長老の『自分を変える気づきの瞑想法【第3版】: ブッダが教える実践ヴィパッサナー瞑想 』が、釈尊のやり方そのままを日本人が理解しやすいように日本語で語っています。解釈しない、修行を混ぜない、スマナサーラ長老の瞑想の教え方がベストだと思います。

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おきもち

初期仏教というか仏教本来の教えを学びつつ、その在家信者のあり方から見た日本...
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「信心決定」

のちさま

基本的には、「信心決定」は内証であるため、他の者から判断できない側面があります。要は、モノコトをどう認識しているのかということを他人からは知り得ないというものであります。もちろん、言語表現においては、その認識についてある程度説明できることがあるかもしれませんが、それは富士山を見たことのない者に、富士山はこうだああだと説明しているようなもので、結局、その説明を聞いた者は、想像の産物でしか富士山を知り得ず、直接見てみないことには、やはりどうにもならないのと同じことです。

それがゆえに、あれこれと(言語表現による)解釈において混乱が生じてしまっているのも事実であります。

まず、瞑想について、仏教の基本は、戒・定・慧の修習、大乗仏教においては、六波羅蜜の修習が大切であり、瞑想(禅定)は、あくまでも修習の一つであって、他とのバランスが求められるものとなります。それは注意しておいて下さい。

そして、「信」についてですが、仏教においては「信じれば救われる」という図式ではなく、自ら自身において、仏様の教え(仏法)を実践していくことが大切なことになります。「自灯明・法灯明」。

では、仏教における「信」は何かと申しましたら、教えの持つ力、効果への信頼ということになります。

その信頼を醸成していくのが仏道過程の一つにもなります。

ですから、その教えの一つ一つを慎重に吟味して、そしてしっかりと納得した上にて実践していく、その「納得」を「信頼」の根拠としていかなければならないのであります。

「師の教えを、ただ尊敬だけをもって受け入れるべきではなく、金細工師が、その扱っている金が本物か偽物か、その金を焼いて、切って、磨くことをもって慎重に吟味するように、そのようにして師の教えも受け入れていくべきである」ということであります。

では、「信心決定」とは、あえて言語表現において申し上げるとするならば、それはつまるところ、仏教の一番の根幹原理への完全なる「得心」となります。

そして、それが何かと申しましたら、釈尊の初転法輪における「四つの聖なる真理」、つまり、「四聖諦の完全なる得心」となるのであります。

阿弥陀如来様の教えの根幹も「四聖諦」ですから、当然同じように言える次第となります。

もちろん、それを自らで得心していかないといけないのであります。

川口英俊 合掌

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Eishun Kawaguchi
最新の仏教論考はこちらでご覧頂くことができますが、公開、非公開は随時に判断...
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「仏教における瞑想」問答一覧

うつ病の中でも利他の心を持つためには

5年ほど心の病に苦しんでおります。最初は適応障害という診断でしたが症状が悪化し、3年前にうつ病と診断されました。 それでも昨年から始めた漢方の治療やカウンセリング等の効果で体調は良化しており、検査の数値も改善してきています。 しかしながら「ものを考える余裕」が生まれたこともあってか、生き方に対する苦悩は深まるばかりです。 うつ病に向き合う手がかりとして、宗教・哲学・心理学など多くの本に触れているのですが、その多くで「他者に関心を持つこと」「他者と関わること」「他者のためにはたらくこと」が幸せへの道として説かれていました。仏教においても、「利他」は大切な考えだと思います。 しかし、今の私には「他者のためにはたらくこと」はおろか、「他者と関わること」も考えられません。他者とつながりを持つことを恐ろしいと感じてしまいますし、他者のことを考える余力自体も不足しているように思われます。毎日念仏をお唱えするときも、自分の身体のことや心のことばかりを考えてしまいます。 自分でも「利他の心」を持てたらとは思うのですが、負のループに入ってしまっているような気がしております。 勿論、日々の中で「他者を傷つけないように」「他者を不快にさせないように」と心がけているつもりではおりますが、それだけで良いのか、と自問自答してしまいます。 どのような心がけで日々を過ごせば良いのか、ご助言を賜りたく思います。どうぞ、よろしくお願いいたします。

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瞑想とは

ブッダは入滅する際に深い瞑想状態に入りながら入滅したと見ました。 私も肉体や精神などが極限の苦痛に達した際や死ぬ際には瞑想を使用したいとおもっておりますが、そこまで深い瞑想をするには相当な瞑想の日々の熟練が必要かと思っております。 ところが精神疾患を持つものが瞑想をするとどうやら副作用が生じ、むしろ悪影響が発生することがわかりました。 以下質問となります: この矛盾は何でしょうか?座禅・瞑想とは人類全てが実践できる安全なメンタルケアでなければならず、そのため仏教修行の多くの部分を座禅・瞑想に使用するのではないのでしょうか。 それとも仏教の座禅・瞑想は修行の一部にすぎずそれが全てではないということでしょうか。 有名なキサーゴータミーの物語では明らかに精神疾患状態にある婦人を救っているような記述がありますが、これはどのようなプロセスを経て「治して」、「さらに悟りにまで到達した」のでしょうか。 個人的に思うのはまず前提として仏道の実践と修行者の身の回りの環境を整えてから瞑想を熟練していくのだと思いますが、その「環境の充実」の基準とはどこから情報を引っ張ってくれば良いのでしょうか。 よろしければ真なるお言葉をくださいませ。なければご対応不要です。よろしくお願い致します。

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マインドフルネスについて

瞑想を2週間ほど前から朝の日課にしています。欲を少しでも手放せたらと思い、始めました。 そして、昨日仕事中にふっと目の前の仕事に全意識が向いている心地よさを体験しました。これがマインドフルネス?と思いました。15分くらいしか持ちませんでしたが。 どうしても自分で自分を苦しい状態にしてしまうので、どうしたらもう少し楽に生きれるだろうと思い、このマインドフルネス状態が長く続けばいいのでは?と考えています。 そして、大人になると生活の7割くらいが仕事なので、仕事中にマインドフルネス状態が続けば毎日がもう少し楽になると考えました。 しかし、仕事内容が慣れているものであったり、どう進めるか想像つくものであればマインドフルネス状態になりやすいと思ったのですが、仕事内容によっては難問にぶつかったり、やったことないことをやらないといけないことだってあります。クリエイティブ系の職種のため、アイディア出しなどはいつも苦しいんでいます。今思うと、まだこの職種の経験も浅いこともあり、8割ほどの仕事内容にいつも苦しめられています。難問にぶつかった場合もただ難問に向き合うだけでマインドフルネスなのでしょうか。 マインドフルネスについては本などを読んで、自分なりに解釈しているところもあるので間違いがあれば訂正していただきたいです。 仕事中あっちこっち気持ちが散らかるので、マインドフルネスの実践ができたらなと思います。

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