hasunoha お坊さんが必ず答えてくれるお悩み相談サイト

お坊さんに質問する
メニュー
メニューを閉じる
そらノート 亡くなった人やペットに思いを伝えよう hasunoha姉妹サイト登場

念仏の信心と瞑想について

回答数回答 3
有り難し有り難し 23

自分は浄土真宗徒で、信心を得るためにお聴聞や念仏をしています
それとは別で、精神を患っていて、薬を減らすために瞑想をしています
個人的に瞑想は生命力がわいてくる気がして好きなのですが、瞑想をして疑いがなくなるということはないのでしょうか
つまり瞑想をして作った「自力の信心」「ニセ信心」のようなものを「如来から賜る信心」と勘違いしてしまうことはないのでしょうか
今はぽつぽつと疑いがわいているような状態で、信心は得ていないと思います

瞑想のおかげで(せいで?)疑いがなくなり、それで信心決定できたと思っても、3年後に瞑想をやめたら疑いが湧いてきた、ということになると困ります
個人的には聴聞も念仏も瞑想もしたいのですが、どうしたらいいのでしょうか

2020年11月6日 17:23

この問答を娑婆にも伝える
facebookTwitterLine

お坊さんからの回答 3件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

瞑想とお聴聞を分けて考える

こんにちは、初めまして。

ご聴聞のご縁にあわれているとのこと、誠に喜ばしいことです。
また、お薬を処方されているとのことで、お大事になさってください。

ここでは、私は浄土真宗本願寺派の僧侶として回答します。
あなたも同宗派或いは、お東いずれかだろうと想定します。

私は、「瞑想は生命力がわいてくる気がして好き」ということについては宜しいと思います。やはり、人間は落ち着いた精神状態を持つほうが、余裕ができ穏やかになれることがあると思いますから。

しかし、「瞑想」は、浄土往生の正因であるご信心との連続性はありません。
ご信心はあくまで聴聞によってのみ得られるものです。

また、ご信心は「無疑心」であり、信じたり信じなかったり、疑ったり疑わなかたりする不安定なものでもありません。ご信心は、人が作った人の心ではなく、仏様が作った仏様のお心、金剛心ですから。

まずは、「瞑想」は心身安定、リラックスとしての用途として限定する。
そして、「信心」「お聴聞」の問題とは一先ず切り離す。純粋に聴聞をしてご信心を得るということに集中する、という交通整理が先ずもって必要でしょう。

また、ご参考に言えば、ご信心は自分の心の中だけをいくら探っても分かりません。ご信心は、南無阿彌陀佛と必ず一体です。必ず救うまかせよと仰る阿弥陀様のお心の確かさを、左様でございますなとそのまま聞くのが、ご聴聞であり、ご信心です。ご聴聞を離れてのご信心はないのです。仏様の心を離れてのご信心はないのです。

今後のご参考になれば

2020年11月7日 9:26
{{count}}
有り難し
おきもち

おきもちが累計1300件を超えました


浄土真宗本願寺派報恩寺住職(兵庫県三木市) 本願寺派布教使 元本願寺布...

雑行雑修自力の心?

現在の真宗では「真宗だけやりなさい。他も交えたら雑行雑修ですよ」と言われるかもしれません。
 一方、念仏の教えだけにたどり着いた親鸞は、それまでに天台で様々な修行を実践した上で、念仏一つにしました。ですから、真宗一つに定まるまでは、いろいろ試してよいと思います。
 しかし、修行を混ぜることは、ちょっと考えモノで、その意味では雑行雑修だと思います。
 特に、瞑想を修行する場合は、仏教の瞑想は「光が見えた」とか「神様に会えた」などという神秘体験ではありません。ただ一瞬ごとの感覚や思考の生滅を捉え続けて、無常、苦、無我という最初から答えが出ている結論に、自分も達してその答えがやっぱり正しかったと納得することです。
 ですから、瞑想中はもとより、瞑想に関しては、他の教義をあれこれさしはさまないことが大事です。どういう感覚だった、どういう現象があった、と、客観的に起こった出来事だけを思い出して、「これが信心だろうか?」などと解釈しないことが大事です。
 「これが無常、苦、無我だろうか?」でさえ解釈で、ダメです。疑問を持たなくても、無理に解釈しなくても、ある時、「ああ、これが無常ということか」などと自然に分かるものです。ましてや、他の教義の概念と混ぜてはこんがらがるだけです。
 信心がストンと入るまでは、雑行雑修、大いに結構だと思います。しかし、それぞれの修行は、それぞれのことだけに集中したほうが良いと思います。修行や解釈を混ぜないほうが良いです。
 瞑想については、スマナサーラ長老の『自分を変える気づきの瞑想法【第3版】: ブッダが教える実践ヴィパッサナー瞑想 』が、釈尊のやり方そのままを日本人が理解しやすいように日本語で語っています。解釈しない、修行を混ぜない、スマナサーラ長老の瞑想の教え方がベストだと思います。

2020年11月7日 8:41
{{count}}
有り難し
おきもち

おきもちが累計1300件を超えました


初期仏教というか仏教本来の教えを学びつつ、その在家信者のあり方から見た日本...

「信心決定」

のちさま

基本的には、「信心決定」は内証であるため、他の者から判断できない側面があります。要は、モノコトをどう認識しているのかということを他人からは知り得ないというものであります。もちろん、言語表現においては、その認識についてある程度説明できることがあるかもしれませんが、それは富士山を見たことのない者に、富士山はこうだああだと説明しているようなもので、結局、その説明を聞いた者は、想像の産物でしか富士山を知り得ず、直接見てみないことには、やはりどうにもならないのと同じことです。

それがゆえに、あれこれと(言語表現による)解釈において混乱が生じてしまっているのも事実であります。

まず、瞑想について、仏教の基本は、戒・定・慧の修習、大乗仏教においては、六波羅蜜の修習が大切であり、瞑想(禅定)は、あくまでも修習の一つであって、他とのバランスが求められるものとなります。それは注意しておいて下さい。

そして、「信」についてですが、仏教においては「信じれば救われる」という図式ではなく、自ら自身において、仏様の教え(仏法)を実践していくことが大切なことになります。「自灯明・法灯明」。

では、仏教における「信」は何かと申しましたら、教えの持つ力、効果への信頼ということになります。

その信頼を醸成していくのが仏道過程の一つにもなります。

ですから、その教えの一つ一つを慎重に吟味して、そしてしっかりと納得した上にて実践していく、その「納得」を「信頼」の根拠としていかなければならないのであります。

「師の教えを、ただ尊敬だけをもって受け入れるべきではなく、金細工師が、その扱っている金が本物か偽物か、その金を焼いて、切って、磨くことをもって慎重に吟味するように、そのようにして師の教えも受け入れていくべきである」ということであります。

では、「信心決定」とは、あえて言語表現において申し上げるとするならば、それはつまるところ、仏教の一番の根幹原理への完全なる「得心」となります。

そして、それが何かと申しましたら、釈尊の初転法輪における「四つの聖なる真理」、つまり、「四聖諦の完全なる得心」となるのであります。

阿弥陀如来様の教えの根幹も「四聖諦」ですから、当然同じように言える次第となります。

もちろん、それを自らで得心していかないといけないのであります。

川口英俊 合掌

2020年11月7日 13:15
{{count}}
有り難し
おきもち

おきもちが累計1300件を超えました


川口 英俊
チベット仏教 ツォンカパ大師中観思想・後期二諦説の研究

「仏教における瞑想」問答一覧

瞑想後の足のしびれを早く治す方法について

どうもお久しぶりです。 今回の質問は足のしびれを素早く治す方法についてです。 苦を無くすという目的の元、たまに寺に行ってヴィパッサナー瞑想を行っています。 身体が硬いので結跏趺坐を組むまで、音を立てながら2分ほどかかってしまうのですが何とか組めるようになりました。 10分位(感覚値)すると足がしびれだし、そこから10分(感覚値)ほどするとしびれを感じなくなります。 痺れが治まると眠気が出てくるのですが、呼吸を整えて観察しています。 そしてさらにそこから20分(トータル50分前後)ほどすると、白い雲のような眩しい光や、建物の外の駐車場に停車しようとする自動車等の相(ニミッタ)が見えてきます。 相が煩わしいので5分くらい観察したところで瞑想を止めてゆっくりラベリングしながら立ち上がろうとするのですが、足が折れたんじゃないかというくらい痺れて力が入りません。 座り方は、指導者の方が、座布団の端を折り曲げて二重にし、そこにお尻の座骨を落として、座布団に乗せるのは座骨だけ。ひざの端は地面につける。そして体を伸ばして肩の力を抜いた後、板になった様にとのことでした。 個人的には三角フラスコをイメージし身体をまっすぐにして、結跏趺坐を組んだ足は固定されており全く動きません。 ここで質問なのですが、痺れを早く治す方法などありますでしょうか。

有り難し有り難し 23
回答数回答 2

瞑想での姿勢について

どうもこんばんは。 日曜日に生まれて初めてヴィパッサナー瞑想というのをやってみました。 苦の原因が想像していたものと一緒だったという事で、その確認ができて良かったのです。 今回は禅をご指導されていらっしゃる方に質問が二つあります。 1つ目は客観視をしてみると思ったよりも身体が多数の箇所で『声を出している』事に気づきそれを確認していくと同時進行すぎるために『気づきの処理』がおろそかになるのですが、一つの事だけに集中した方が良いのでしょうか。 例えると、奈良公園で鹿煎餅を持っている手とは別の手で鹿を数えていると、数えている鹿が動き回っていて、更にそれとは別の鹿が寄って来て鹿煎餅を食べようとし、更に別の鹿が背後からタックル(痛み)してきてタックルしている鹿を見た瞬間に鹿せんべいを食べられて、結局数えていた鹿が何匹いるか分からなくなりもう一度数え直す、みたいな感覚です(分かりにくいですが)。要は処理能力超えました。どうすればよいでしょうか。 2つ目が、座布団敷いて畳の上で、座り方もあぐらだったにもかかわらず、足が無茶苦茶痛くなったり、つったり、治ったりだったのですが、これは慣れれば大分ましになるのでしょうか。 また背中がだんだん曲がっていく(猫背)場合、どのように直すように指導していますか(無意識に曲がるため)。

有り難し有り難し 21
回答数回答 2

関連する問答

温かい気持ちになるお坊さん説法まとめ

相談カテゴリ
-四苦八苦 SickHack!▼ 全カテゴリを見る