世界は美しい 人生は甘美である
皆様ご多忙の中とは思いますが、目に留まりましたら、お話を聞かせていただけたら幸いです。
タイトルの言葉を、仏陀の最期の言葉として知ったのは、数年前に納棺師日記という本を読んだ時です。びっくりして一瞬時間が止まりました。最近ふとその言葉を思い出しまして、いい言葉だよなあ、と感動しています。
御釈迦様の時代にもきっと今以上にたくさんな悲惨な事や恐ろしい事があったと思うのですが、最期にそういう言葉を言われた、というのが、
この世の中、どんなに嫌で悲しい事があったり、様々な人間がいて争いごとが尽きず酷い現実があっても、「世界は美しく、人生は甘美である」という事は、
世の中に悪なんて存在しないんじゃないかな、性善説みたいなことだろかと受け止めてしまうのは、飛躍しすぎでしょうか。
あいにく私はこの言葉の背景や前後の言葉を知りませんが、その道のプロの方々が、どのように受け止めたり、とらえられているのかお話を伺ってみたいと思いまして、質問させていただきました。
沢山の方が質問されている中で、緊急性の低い内容でお手間とらせてしまって申し訳無いのですが、、よろしくお願いいたします。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
美しいのですが、本当はこうではありません
経典が漢訳され、現代の日本ではこのように伝わっています。日本人の心情によく合うのだと思います。
しかし、元の言葉や意味とだいぶ違ってしまっています。少なくとも、今、挙げられた言葉は、もともと全く出てきません。
パーリ語の『涅槃経』で、釈尊が、自分が涅槃に入る(亡くなる)決断をします。その時の言葉なのですが、じつは、それを聞いていた弟子の阿難尊者に、返事をさせないためにいろいろ語った言葉なのです。
釈尊をはじめ、完全な悟りを開いた阿羅漢だけが、自分の死期が分かり、それを少し伸ばすことはできますが、いずれにしても、それまで縁のあった人々に何も告げず亡くなることは不作法だと考えられていたようです。釈尊より先に亡くなる阿羅漢たちは、釈尊に最後の別れの挨拶をしてから亡くなっています。
釈尊も誰かに自分が亡くなる宣言をしようとして、それはお付きの阿難尊者しかいないのですが、普通に語ると絶対「もっと長生きしてください」と乞われ、それはまたいろいろややこしいので、ただ、釈尊の宣言を聞いて頷くだけにさせるため、先に、これまで訪れた仏教に熱心な人々の町や修行場を例に挙げ、「ヴェーサーリ(という街)は美しい。チャーパーラ霊場は美しい」などといくつも語り、そのたびに、無言で頷かせ、その流れで、「如来は寿命を延ばそうと思えば伸ばせます」とさりげなく語り、それにも「そうですね」と無言で頷かせ、亡くなる宣言をした。それを弟子が確認した(反対も懇願もされなかった)。という形にしたのです。
あとから阿難尊者が気付いて、「寿命を延ばしてください」と懇願するのですが、釈尊は、「もう宣言しました。三か月後に涅槃に入ります」と受け付けず、きれいな形になったのです。
その時の各地の霊場の一つ一つをまとめて「世界は」美しいと言うと言い過ぎだと思います。まして「人生は甘美だ」は、仏教と真反対の言葉だと思います。生まれることも死ぬことも、それどころか一瞬ごとの生きる活動のすべてが、苦(不安定)で無常で無我だと教えた釈尊の言葉ではありません。釈尊なら、「仕事をなし終えた(思い残すこと[まだ足りないという渇愛・煩悩]は何もない)」という言い方になるでしょう。
ただ、悟れなくても後悔や思い残しを少なくして、「(私にとって)世界は美しい。(私の)生き方・人生は甘美だった」と満足して死ねたらいいなあと思います。
仏陀に映える(顕現している)世界とは
追記・・制限字数の関係上、お礼のご質問の件は、また別質問にて
hanakoさま
「世界は美しく、人生は甘美である」
まさに、この解釈は非常に難しいところがございます。
ただ、確か「人生(命)は甘美(味わいが良い)である」は、サンスクリット語の方にあって、パーリ語の方には無かったような記憶が・・訳し忘れなのか、後世の付け加えなのか、色々とそれも説があります。
さて、釈尊は、どうしてこの娑婆世界(穢土、汚れた世界、五濁悪世)のことを「美しい」と述べられたのか、また、「人生(命)は甘美(味わいが良い)である」と述べられたのか・・
拙見解となりますが、まず、私たち凡夫に映えるこの世界のあり方と仏陀に映える世界のあり方は決定的に異なるものとなります。
私たちから見れば、hanakoさまのおっしゃられますように苦しみに満ち溢れてしまった世界に映えてしまっています。
しかし、仏陀に映える(顕現している)世界は、一切は空性なる真理のあり方としての世界が映えられており、まさにその真理の世界は清浄なる浄土世界の映え方と同等となります。つまり、娑婆であろうが極楽であろうが、仏陀がご覧になられる世界のあり方は、ただその世界の空性たる真理のみをご覧になられておられるという感じとなります。
そのため、「(娑婆)世界は(空性の真理にて清浄で)美しく」と涅槃を前にしてついつい本音をおもらしになられたのではないだろうかと存じます。(誤解を避けられるため、おそらく理解できない者の前では決して述べられなかったのではないかと推察いたします)
「人生(命)は甘美(味わいが良い)である」は、あえて私たちと同じ姿カタチの人間としてのお姿で化身なさられましたお釈迦様は、本来であれば、もっと違ったカタチでも教化なさられることも可能でありましたものの、あえて、人としての生を私たちと同じくに歩まれ、そして、成道や涅槃の理趣をお示しになられることになります。その方が、より様々な教えが(同じ立場から)説きやすいからでもあります。そのあえて、人としての生を歩まれたことを振り返られまして、人生は、仏道を歩めるのに適した有暇具足を備えた良いものであったという感慨から述べられたのではないだろうかと考えております。
あくまでも拙見解ですが、ご参考になりましたら幸いです。
川口英俊 合掌
質問者からのお礼
読みやすく分かりやすいご回答をありがとうございました。
分かりやすいと言っても、きっと私はよく分かっていないと思いますが...(´-`)
川口様の回答の“あえて私たちと同じ姿カタチの人間としてのお姿で化身なさられましたお釈迦様は“というくだりですが、
人間としての形を持たない何かが、人間の形を選んで生まれてきたもので、その形がシッダールタ氏だったのですか?とうよりか、人間としての形を持たないなにか、が仏教の信仰対象(?)だったりするんでしょうか?
質問になってしまいましたが、また落ち着いた頃に改めてhasunohaのお世話にならさせていただきたいと思います。
お知識分けていただきまして、ありがとうございました。