仏教と女性差別について
こんにちわ
お坊さまに聞きたいのですが、どうして仏教には女性差別的な内容があるのでしょうか?
先日、千葉県の民俗博物館で開催されている『性差の日本史』展に行って来ました
そこでは仏教には五障説や罪業観が含まれており、それが女性差別的内容だとはじめて知りました。
なぜそのような内容をブッダは入れたのでしょうか?
信仰にすら性差を出したのは何故でしょうか?
生きる価値を見いだせないまま、さまよってる
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
『妙法蓮華経』「觀世音菩薩普門品」
"なぜそのような内容をブッダは入れたのでしょうか?"
【長者・居士・宰官・婆羅門の婦女の身を以て得度すべき者には、即ち婦女の身を現じて為に法を説き、 童男・童女の身を以て得度すべき者には、即ち童男・童女の身を現じて為に法を説き、 天・龍・夜叉・乾闥婆・阿修羅・迦楼羅・緊那羅・摩・羅伽・人非人等の身を以て得度すべき者には、即ち皆之を現じて為に法を説き、 執金剛神の身を以て得度すべき者には、即ち執金剛神を現じて為に法を説く。】
『妙法蓮華経』「觀世音菩薩普門品」
私は普段、袈裟衣を脱いで中学校にて中学生を相手に仕事をしていますが、中学生相手には住職様サマの肩書も仏教の専門的な理屈も専門用語もまったく通用しない。だから、中学生には中学生の理解できるように噛み砕いて話をしなくてはならない。ブッダは決して差別を勧めたわけでもなければ、迎合してきたわけでもなかったが、やはり外道には外道のわかるように話をしなければならなかったわけです。ただでさえ個人個人の機根に差があり、ましてや令和日本と2500年前のインドとでは、文化も常識もまるで違ったでしょうから、人権意識が高まった現代日本の常識から大昔の異国の価値観を測ることは、ちょっとナンセンスかもしれませんね。
お勧めの本を紹介します。
笹井さん、こんにちは。
『性差の日本史』展、ホームページを見ましたが面白そうな展示ですね。私も近ければ見に行きたい展示です。
さて、お尋ねになられたのは、仏教の五障説や罪業観などの、女性差別的な内容をどうしてブッダは取り入れられたのか、また、信仰に性差を出したのは何故か?という問いですね。
まず、他の方の回答にもありますが、お釈迦様が生きておられた頃の仏教に女人五障説があったわけではありません。これらは、お釈迦様が滅後に仏教の中に現れてきた思想だと言われています。私も意識的に学んだことは無く、恥ずかしながらあまり分かりません。
ただ、現実問題として、日本の仏教の中では、女人五障説などが説かれてきた歴史があります。また、当時は現在の価値観とは異なることには私も注意を払う必要があると思います。当時の価値観の中で、女性の救いとして女人往生などの言説が説かれてきました。
一方で、現在に生きる私たちの視座から考えてみた時に、私たちが学ぶ仏教に、女性差別的な要素があるというのは、指摘されている事柄です。
なかなか、現役の僧侶としては受け入れがたいことです。私自身も聞き流したり、都合よく解釈したりしたいところですが、一方で社会の中では仏教教団はどう考えているの?と厳しく指摘してくださる方もいます。
1冊の本を紹介します。源淳子さんの『仏教における女性差別を考える 親鸞とジェンダー』という本です。
これはまさに、笹井さんが持たれているような疑問に応えてくれる本だと思います。
もし良かったら、ぜひ手にとって読んでみて下さい。
気にしない気にしない
ご質問ありがとうございます。
私は尼僧ですから、まさにその性差別の女ですね。
確かにそうお経にありますね。
でも、何か今の生活に関わる困ったことが、そのお経で貴女に起こっていますか?
仏教、特に私は真言密教を学んでいますが、学べば学ぶほとその深さに驚嘆してますます学ぶというかんじになっておりますが、、、その中で感じることは性差など密教の世界観の中では誠に小さなものです。いや、むしろ、その性差の個性が大事なのかなとも思います。
女性がいなければ、キリストも釈迦もこの世には生まれ出ませんでしたからね。
小さな事を気にするより、もっともっと自分を幸せにするために為すことはあると思いますから、そちらに目を向けてみても良いと思います。
仏教には性差別があってけしからん!と言ってみても、長い歴史と文化で培われたものは安易には変わりません。
私的な私見では、釈尊が入滅されてから、時間が経ってからお経は編纂されましたから、その時の時代的な背景や文化も入っているのではとも思いますが、、、。
合掌
ブッダは女性差別をしませんが
ブッダの同時代のインド社会と、ブッダの後の仏教徒たちはそうでもありません。
まず、五障説などは、ブッダの五百年後頃から出始めた大乗仏典には出ますが、仏陀釈尊が語ったままと言われるパーリ語仏典には出ません。パーリ語のものは上座部が用いており、現在、スリランカ、東南アジアに伝わっています。大乗仏典は後の仏教以外の人の創作で、中国では、インドの事情が分からないのでこれも仏説として受け入れ、朝鮮を経て日本でも受け入れられています。ブッダや悟った人以外は、どうしても差別しがちなのです。
パーリ語仏典でも、同時代のインド社会のせいで、文化として、女性差別に見える部分もあります。
比丘尼を出家させることにしたとき、同時代のインドで女性の出家者なんか、ただの乞食以外にいませんでした。もちろん、出家は世俗の権利も義務も放棄したので、一般人が彼らに何をしても罰せられません。男なら、修行の成果による雰囲気や説法によって少しは尊敬されたりしますが、女性なら、その前に性搾取の対象になって終わりです。現代日本でもよく知られる問題が、古代インドにも、男の側にありました。
そこで、比丘たちが、個人ではまた誤解されてまずいので、サンガとして比丘尼を、これまた個々の比丘尼ではなく比丘尼サンガを、守るように戒律が加えられました。比丘尼は、比丘のように野宿ではなく、城内の比丘尼堂に寝泊まりするように、とか、遊行するにも、比丘が近くにいる時にすべきとか。緊急事態の時、すぐに助けてあげられるように、です。
その代わり、珍しい女性出家者を仏教が認めたので、それが当時のインド人に決して誤解されないように、比丘尼の最長老でも、出家したばかりの比丘に対して最敬礼するように、などと、比丘と比丘尼の間では比丘尼が圧倒的に下位という位置づけにしました。比丘と比丘尼が決して交わらないように。これが、ブッダの時代の仏教でも女性差別していたと誤解されがちです。出家だからやむなく長幼の区別をしただけです。
在家信者同士では、仏教だけ、男女対等でした。女性が男の持ち物・奴隷だった当時のインドで夫婦の財産を均等に分ける話など、パーリ語仏典には枚挙にいとまがありません。漢訳の『六方礼経』には、夫婦をはじめ全人類同士の平等が説かれています。パーリ語のお経の訳で、大乗のものではありません。
後代の仏教徒が差別するのです。
質問者からのお礼
ありがとうございます。
【追記です】
生活でそれによ。困ったことはありませんし、それによりけしからん!とも思っていません。
ただ単純に、博物館の展示を拝見し疑問に感じたので質問させて頂きました。