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慢の煩悩でしょうか

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hasunohaは勿論、さまざまな仏教関連のわかりやすい本を読む機会もあり、少しでも心穏やかに正しく生きていきたいと思っております。そこで、例えば洋服を着飾ったりして少しでもよくみせたい、子供をどこかの遊び場に連れて行って喜ぶ顔をみてみたいというのはやはり煩悩のあらわれなのでしょうか。実際に結果的にうまくいかなかったときにつらい思いをするのは自分であり、ちょっとしたことでうつ気味になってしまうことも少なくありません。良い処方箋を頂けますでしょうか。


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お坊さんからの回答 4件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

善には「劣善」「勝善」の2種あります

まず「慢māna」(conceit)の特相は「自分だけが尊いと驕る」法を指します。
慢には「自分や他人の能力を評価し比較する」ことが不可欠で、単純に「俺はすごいぞ!」という慢から、「あの人は偉い。どうせ私なんか…」という卑屈な慢、自分よりはるかに優れた人に対し「私と似たレベルでしょ」という尊大な慢など、いろいろあります。
このご質問の場合は慢とは呼ばない気がします。

着飾る時、自分をよく見せたいという思いがないとは言えません。けれども、だらしない格好をするより、キリッとオシャレしたほうが周りの人も気分がいいじゃないですか。仏教僧は着飾りこそしませんが、身だしなみや所作には厳しい決まりがあります。立派に見せるためというよりは、信者の仏教への信仰心を損なわないようにするためです。

さてKakaさま、お子様を楽しませてあげようと、遊びに連れ出すことについて悩まれるのはあまり望ましくありません。

教理的に答えますと、善を行う「瞬間」は、善心でしか為すことができません。ただし、その「瞬間」をはさむ前後は、善心の場合、不善心の場合、両方ありえます。
例えば誰かに寄付する場合。寄付する前に「本当はしたくないなあ、でも他の人の手前もあるし…」と悩み、した後に「もったいなかった」と悔やむ。相手からの反応が期待以下なら、怒りや落ち込みが生じる。
このような善を「劣善」と呼びます。反対に、行なう前も楽しみで、行なった後も「してよかった」と晴れ晴れと喜び続けるのを「勝善」と呼びます。

劣善は、せっかく善を行っているのに、その後の不善ばかりを長く生じさせる「もったいない善」です。
結果的にうまく行かないことがあったとしても、周りに評価されなくても、Kakaさまのお心が曇らずあり続けることが重要かと存じます。
渋滞やら悪天候やらで予想外に疲れてしまっても「やっぱり行ってよかったなー!自分も運動になった」くらいのお気持ちで、明るく次回に向かわれますことをオススメします。

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あなた 何を以って煩悩としているか

煩悩とは字のごとくわずらい なやみ です。
ああ、これは煩悩だろうかと 自分を責める行為の方が煩悩でしょうに(^<^)
あなたを一番苦しめているのは自分イジメ意識ですね。
失敗した時にがっかりするのは期待度や自分の望み求めが強すぎるからでしょう。
失敗せずに喜ぶことよりも、
失敗しても平気でいられるようになった方がイイと思います。
煩悩即菩提 という禅語があります。
多くの禅語の解説本が間違った解説をしていますが、
「心の中に出てききた思いそのものはそもそも煩悩とか菩提という区別がない」ということです。
どんな思いだって自然に出てきてしまうのが人間です。
出てくる思いはテレビ・ニュース・体験によって縁に随って情報として自然に出てくるもので罪はありません。それを次なるものとして悪いことにリンクさせたり、展開するから問題になるのです。あなたはオートマチックに出てきた思いをそこでリンクさせたり、展開させず、自分を自分の想いでいじめないように生活することで明るい道が開けるはずです。お大事に。

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ちょっと待った!考え方が間違ってます。

 Kakaさん、あなたの言いたいことはよく解りますが、皆を喜ばせて幸せにしたいという気持ちを煩悩と言う言葉で片付けて欲しくありません。あなたのその頑張りにワシは大いに賛同します。結果、残念ながらいい方向に傾かなったかもしれませんが、ここは反省すべき点があるのではないでしょうか?子供に行きたいところをそもそも聞きましたか?子供がしたいことを危ないからとか大人の事情で拒否しませんでしたか?・・・思い起こせばあると思います。
 ファッションに自分を磨くのは自分に自信をつけるためにもいいと思います。補足としては親しい人と一緒にファッションを楽しむともっといいと思います。自分の意見ばかり押し付けるのではなく相手の意見を見るのも修行の1つだと思えば、気分が変わりませんか?相手を思う気持ちが強くなれば失敗も減って喜びも増えることでしょう。仏教の戒律や煩悩を学ぶことは良いことですが、仏教の根幹は「自分も他人も傷つけないこと。」にあります。もっと、自分の行いを見直すことから初め、人には親切に接しましょう。
 ワシはEXILEの『giver』という歌が好きなりました。一度聞いてみて下さい。「あ~そういうことか。」と思いますよ。

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ちょい悪坊主を目指しています。尊敬する人は一休さん。
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「八正道」について・・

Kaka様

川口英俊でございます。問いへの拙生のお答えとなります。

hasunohaをご愛読頂きまして、また、色々と仏教の学びも進められておられるご様子にて、誠に有り難く尊いことでございます。

さて、まずは煩悩により、一喜一憂して後悔されてしまうことについてですが、善行為に対しての動機の問題につきましては、天野様のお答えが誠に参考になるのではないかと存じます。

次に、「心穏やかに正しく生きていきたい」とのことですが、下記問いにても扱わせて頂いておりますように、誠に私たちには「八正道」(正見・正思惟・正語・正業・正命・正精進・正念・正定)( http://ja.wikipedia.org/wiki/八正道 )という「中道」の生き方が望まれることになります。

問い「心の健康のために」
http://blog.livedoor.jp/hasunoha_kawaguchi/archives/1002997509.html

「八正道」の内容は、一見すると至極当たり前のことで、なーんだ、結構簡単じゃないかと思われるかもしれませんが、実は、この「正しい」ということにおける根拠を真に理解した上にて実践していくのが非常に難しいことであると存じております。

特に私たちは、それぞれにおける独り善がりや自己満足、差別、偏見、拘り、とらわれ等によって、真に「正しい」ということの理解が妨げられることが往々にしてあるからでございます。

そのため、一体、何を基準としてその「正しさ」を判断すべきかについて、慎重に扱わないといけないと考えております。その根拠としては、もちろん主に仏典を頼りとして「正しい」基準を明確化させていくことが望まれることとなります。特には、聞思修の三慧、戒定慧の三学によって確立させていくことが大切になるものであると存じております。

この度お求めの一つの処方箋としては、「正しい」ことの理解を深めての行いを調えていくために、ただhasunohaの内容や仏教関連書を読むだけで留まらずに、実際に確かなる師(先生)をお探しになられて、その師の指導の下にて仏教を学ばれていかれるようになさられるのが良いのではないかと存じております。

善処を祈念申し上げます。

川口英俊 合掌

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Eishun Kawaguchi
最新の仏教論考はこちらでご覧頂くことができますが、公開、非公開は随時に判断...
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「煩悩」問答一覧

「足るを知る」と「向上心」のバランス

明けましておめでとうございます。 全ての皆様にとって、健やかな一年となることを祈念いたします。   *   「足るを知る」と「向上心」をどうバランスさせるかについて質問です。   ■質問の内容 ・人間の煩悩はキリがありません ・煩悩とうまく付き合うために「知足」が重要との理解です ・一方で、より良い生を営むには、「向上心」が必要です ・しかし「知足」「向上心」は、ときに相容れないように思われます ・そこで、両者の使い分けについて、ご意見を頂戴したかったもの   ■質問の背景 ・私は肉体や精神、能力等の向上(=欲求を満たせる自分に成長すること)を目標として努力してきました ・結果、自分自身や周りの人の幸せを実現できると考えてきたためです ・しかしある時、幸福度は上昇していないことに気付きました ・そんな時に「知足」の重要性に気付き、「向上心」との折り合わせについて強い興味を抱いたものです   ・両者の使い分け方法について、下記2パターン考えました   ■仮説① 行為の目的(相手のため/自分のため)で、以下の通り使い分けるべき 【良さそうな例】 A「相手のため」×「向上心」 (例)より喜ばれる仕事をしたい B「自分のため」×「知 足」 (例)菜食で十分 【悪そうな例】 C「相手のため」×「知 足」 (例)今の仕事の質で十分 D「自分のため」×「向上心」 (例)より美味しい食事をしたい   ■仮説② ・「知足」と「向上心」のバランスを考える必要は無い。 ・自らの欲求を満たせる自分に成長する「向上心」が重要である ・逆説的だが、向上心(欲望)を満たした経験により「足るライン」を把握できるようになる ・肥大する向上心(欲望)を実現した経験が、「自らを満たさない、長く続かない」ことを体感させる ・知足は、頭で理解するものではない。体得させる必要がある    (例)お金をもっと稼ぎ、食事にお金をかける。結果、最高級の焼肉もファミチキも両方美味しいし、どっちも幸せで、(実は)どっちも大差ないことを体感する。 しかしずっと貧しいままだと、どうしてもやせ我慢での知足となる。「知足の習得」には、欲求を満たして「こんなもんか」という体験が必要不可欠。 お釈迦様が王子の頃に豊かだったことは、悟るための必須条件。。?   少し漠然とした問いで申し訳ございません。 どうぞよろしくお願い致します。

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温かい気持ちになるお坊さん説法まとめ