今日死ぬ前に
最後に今まで自分の中に溜めていたものを、できるだけ書き出してみようと思い、たまたま見つけたここに書かせていただきます。
私は幼少期、父から度々暴力暴言を受けていました。長女の立場だった私は、一番手を上げられていたような気がします。恐らく躾の一環だったそれは、いくら自分の気持ちを話しても受け入れては貰えない、長女はしっかりしなくてはいけない、父は私を愛してはいないのだと幼心に感じました。しかしそれを差し引いてもまわりが自分を大切に思ってくれて、特に祖父は祖父であり父のような存在で大好きでした。
高校生の頃から、特に虐められていた訳でもないのに、ふとしたときに何もかもどうでもよくなってしまうような虚無感に苛まれるようになって、欠席することが度々ありました。それは大学生になっても社会人になっても続いてしまいました。勿論社会人でそんなことをすれば仕事を評価して貰えても信頼を失います。同じ仕事は一年続いたことがありません。その度に祖父や友人、恋人や知人に支えてもらって頑張って来れました。それでもまわりは大変でも仕事を頑張っていて、続けられているのに、自分にはできなくてとてつもない劣等感をいつも抱えていました。
何度目かの離職のとき、祖父に気分転換しようと誘われ旅館に二人で行きました。一泊した翌日の朝、シャワーを浴びているときに突然祖父に胸を触られました。そのときに今まで私の基盤になっていたものが全て崩れ落ちるような裏切りを感じて死にたくなりました。
振り返ると、私は自分自身を一度も認められず信じられず好きになれず、その為他者のことも本心から信用したことがなかったように思います。特に恋人に対しては常に懐疑的で、気持ちが入れば入るほどいつも上手くいかず、だめになってしまうことしかありませんでした。
人間関係に常に悩んでいました。人からの視線や評価を酷く気にして、勝手に悩んで苦しんで勝手に自滅するのをずっと繰り返してきました。そして恐らく祖父の一件で立ち上がる気持ちもなくなってしまいました。私はもう自分というものが一番分からなくて辛くて、自分を理解できず理解されないことが寂しくて、どうしようもなくなってしまいました。
今は仕事もせず、実家の部屋に引き篭もっていますが、それは何の解決にもならないことは自分が一番よく分かっています。
だから死ぬことでもう終わりにしたいと思います。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
仏様の慈愛と慈悲はあたたかいよ。一番に気にかけ愛してくださる
あなたの気持ち、聞かせてもらったよ。
今まで、よく頑張ってきたね。
一番身近にいる人達に傷つけられ裏切られ、何を信じ、頼りにしたらいいのか、わからなくなって。自分で立てる場所を必死で探して、ここまでやってきたのだね。
それでも、手にしてきたものは、虚しさしかなかった。一人で頑張るには、もう限界なんだね。
何でこんなに耐えて頑張ってきた あなたが、死ぬしかないと苦しまなきゃならないの?
あなたは、何も悪くないのにね。
こんなの、悲しいよね。
あなたから、自信も 笑顔も 奪った人が憎いわ。
今も、眠れずにいるの?
死のうと考えていたんだね。
仏様のね、慈愛と慈悲は、あったかいよ。
あなたを一番に気にかけて愛してくださるのよ。
よく頑張ってきたね。
ひとりじゃないよ。
もう泣かなくていいよ。
一緒にいるよ。
ってね〜よんでくださるのよ。
ハスノハによく来てくれたね。
こうして繋がれたわ◎
自分が、よくわからなくても、
仏様がちゃんとわかっていてくだされば、
それでいいじゃない◎
また、こうして繋がっていきませんか。
仏様が繋いでくださった縁は、決して あなたを傷つけたりしないわ。
一緒に話をしましょ。
もぅ、あなたは ひとりじゃないわ。
あなたの手を繋いでいるからね(﹡´◡`﹡ )
安心して、ゆっくりおやすみ。
まだまだ間に合う!
拝読させていただきました。
今までとても辛い人生を味わい、信じたい身内に裏切られ、信じるとはという疑問から、人と接することに疲れ、生きる意味を見出せない心情をお察しいたします。
仏教では求めるものは得られない苦しみがあります。これは四苦八苦に8つの苦しみがあり、その一つである「求不得苦(ぐふとくく)」というものです。
わたしたちは、日々生きている中でありとあらゆることを何気に求めています。その中でも一番欲しいものは「心」との繋がる信頼関係でもあります。しかし、十人十色である人間、血液型が異なる人間、どれだけ好き同士でも愛し合っても続かない人間、家族という世間が決めた枠の中に生きなければならないというルール、まだまだ数え切れないほどありますが、一時は満たされても、人はまた欲や煩悩が働き、果てることがないのです。だからこそ、仏教では求めることを辞めなさいとも教えがあります。また、愛のことを仏教では「渇愛」といい、喉が渇けば水を欲しがるように、いつまでも求め続ける先には欲求しか答えがないのです。だからこそ、求めるのではなく、与えるという思考にこれを機に変えていくのです。
与えることは「慈悲」であり、見返りを求めないということです。世の中で困っている人は沢山います。あなたを必要としている人はたくさんいます。
引きこもりから扉を開けるのは、どんな世界があるのか過去の苦い思い出があることから、怖さもあるのも分かります。しかし、外には新しい世界が必ずあります。
今、ネットを通じてhasunohaに投稿くださったのですから、外部の情報を得ることができますよね。
人間は希死念慮に追い込まれたとき、周りが見えなくなくことが強くなります。しかし、ここに投稿してくれたのが仏縁であり、これを機に力を振り絞ってください。
家族や身内を信用しなく、絶縁しても、楽しく生きている人は万人といます。
苦い経験は人に話すには勇気がいることです。丁寧な文面、分かりやすい内容と多く長けたいることが感じ取れます。
この経験をバネにして、新しい世界へ行きましょう。死ぬことを書き残したことは、このhasunohaには多くおられますが、皆生き延びてます。
「求めない。人生大器晩成の人もたくさんいます。与えていく人に。」
仏さまは観てくれています。
南無大師遍照金剛
合掌
質問者からのお礼
法源様、中田様、このような拙い文にメッセージをくださりありがとうございました。
こちらには遺書のように気持ちを書き捨てたつもりでしたが、お二人の言葉でほんの少し救われた気がいたします。
それでも正直自死する以外の選択肢が今は見当たりません。
もしまたご縁がありましたら、何卒よろしくお願い申し上げます。