結婚、出産は何のためにするのか
初めて質問いたします。宜しくお願い致します。
世間で言う結婚適齢期も少し過ぎつつある年齢になり、友人知人たちはほとんど結婚して子供がいたり、独身でも彼氏がいたりで、独身、彼氏なしの自分が何だか惨めに思えた時期がありました。
なぜ周りは自然と彼氏が出来、自然の流れで結婚、出産とトントン拍子に幸せになっていけているのに、どうして私は彼氏すら出来ないのだろう、もう年も若くないし、何とかしないと、と焦りに焦る日々を過ごしておりました。
そんな日が続いたある日、ふと疑問に思ったことがあります。
「そもそも、どうして私は結婚して子供が欲しいのだろう」
彼氏がいたらいたで、私のことをどう思っているのかとか、浮気をしていないか等心配事も出てくるわけで、それは結婚しても出産をしても同じこと。
お金のこと、仕事のこと、家族の健康のこと、子供の教育関係等、心配事は尽きないと思います。
ただでさえ自分のことでいっぱいいっぱいになりがちな心配性な性格のため、彼氏や家族という大切な人のこととはいえ、気にかけて世話をしてあげられるだけの余裕が持てるか非常に不安です。
次第に
私には、結婚は向いていないんじゃないか。
幸せになるためには、ひとりでいた方がいいんじゃないか。
と考えるようになってきました。
そのため、私の中で「結婚、出産」=「みんなしているから、何となくするもの」というひとつの結論に至ったわけですが、正直完全に結婚、出産への憧れを断ちきったわけではありません。
生涯を添い遂げられるパートナーがいればどんなに心強いかと思うこともありますし、公園などで幸せそうに遊ぶ子連れの夫婦を見て、いいなあ、子供が欲しいなあと思うこともあります。
その反面、上記のような他者を煩わしく思ってしまう心や、または結婚や出産は単なるエゴだと思ってしまう心もあり、結婚、出産とは何だろう、どうして皆疑問にも思わず、結婚や出産を経験しているのだろう、そして私はどうしたいのだろう、と考え込む日が続いております。
なぜ、人は結婚、出産を求めるのでしょうか。
結婚をしなくても幸せになれるなら、それはそれでいいと思うのですが。
そもそも、「幸せ」とは何なのでしょうか。
お教えください。宜しくお願いします。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
仰る通り、エゴかもしれませんね
michaelさま
はじめまして、なごみ庵の浦上哲也と申します。
「結婚、出産は何のためにするのか」というお尋ねですが、結論から申しますと、それは生物としての本能、エゴなのではないでしょうか。
結婚だけが幸せじゃない。
結婚相手に恵まれず、苦しんでいる人がいる。
子どもを持つことだけが幸せじゃない。
子どもに色々問題があり、それで苦しむこともある。
そんなことをいくら言い聞かせても、でも結婚したり子どもを授かることが頭をかすめてしまうのではないですか。独身の方が気楽に過ごせると思ってみても、年賀状に結婚式や子どもの誕生の写真が載っていれば心がザワザワしてしまうのではないですか。それは理性で押さえきれない本能があるからなのだと思います。
お釈迦さまの言葉で「有田憂田 有宅憂宅 無田亦憂 欲有田 無宅亦憂 欲有宅」というものがあります。
田んぼが有れば田んぼの心配をし、家が有れば家の心配をする。
田んぼがなければ「田んぼ欲しいな」と憂い、家がなければ「家が欲しいな」と憂う
という意味で、つまり人間はどんな状況でも憂う存在だということです。
michaelさんが、結婚しなくても子どもが出来なくても、憂いは生じます。
同じように、結婚しても子どもが出来ても、憂いは生じます。
でも憂いだけでなく、その状況だからこそ生まれる喜びや楽しみもあるでしょう。
michaelさんが結婚に向いていないとは、私は思いません。
ひとりでいることが幸せの絶対条件とも思いません。
あまり考えすぎず、ご縁に任せて日々を送るのがよろしいのではないでしょうか。
最後にもうひとつ。
michaelさんの回りの方々も、自然にトントンと進んでいるのではないかもしれませんよ。
実は結婚相談所に登録して、婚活パーティーに通っていたのかもしれません。不妊治療で苦しい思いをされていたのかもしれません。
結婚や出産を目標にして、michaelさんの見えないところで奮闘していた方はいらっしゃると思います。
そのことは、心にとめておいた方がよろしいかと思います。
使命 と 運命
「使命とはこの命をいかにして使うべきであるか」
「運命とはこの命をいかにして運んでゆくべきか」
辞書的にはそういう意味ではないにしても、そう読みとる「べきである」と私の尊敬する老師から伺ったことがあります。
そうすることで自分の命の存在意義が自ずから観えてくる、見出されてくるものです。
あなたがその生が楽しくない、つまらないものだ、と悲観されてしまうと、私どもが共有してる命が幸せになれる権利をあなたは放棄してしまうことになります。
無限の過去から運ばれてきた、命の運ばれ、運命をあなたの代で不幸のまま終わらせてはもったいないです。
子供を授かれない方でも、自分・他人の子供の差別なしに、良い心・教えを残そうとしている方々がおられます。
すべての生物がより良く生きようとしている。
すべての生物がより良くあろうとしている。
それぞれの命がその命の中で最大限により良く生きようとしているものです。
すべての生命がそれぞれお互いをより良き道に向かわしめるべく、あなたも私も存在しているのです。
仮に人生の荒波に飲み込まれることがあって傷つけられても、前向きに受け止めるべきであります。
それが仏教でいう所の向上心である菩提心。
あらかじめ「どうせ結婚・出産なんて、無理だ、不幸だ」と思えば、そう感じる。
それでも「私はどんな困難にあっても強く生き抜いていこう」との願いを発することが菩提心です。
あなたがこの菩提心を起こせば生き生きとしたエネルギーが沸いてきます。
暗い考えに染まれば表情や態度に出てしまい当然幸せも異性も寄ってきません。
悲観的な考えは、自身を損ねるだけです。ネガティブ・ワールドに住していることを客観的に見つめてホナさいなら、あばね、あばな(長野弁)しましょう。
「誰と出逢い、どんな不運な結婚をしようとも、どんな不運に見舞われようとも、私はこのいただいた命を最高に生きる」と、強い願いを発しましょう。
そうすれば自分を苦しめる不機嫌エネルギーに負けず、打ち克つ力が沸いてきます。
自分を闇に落とし込めるのも自分なのです。
心配性を心配しないで
デパートのレストランフロアに行くと、いろんなお店が並んでいます。どこの店がおいしいかな?この店は高そうだからやめようかな?今日は中華にしようかな?
ささっと決めて店に入る人もいれば、結局決められずに、昼を抜く人もいるでしょうし、外食なんかで無駄なお金を使いたくないと初めから家で食べる人もいるでしょう。食べて満足の人もいれば、やはり別の店にすればよかったという人も。
結婚をランチなんかに例えて申し訳ございません。
ただあまり深く考えても答えは出ないと思うのです。いろいろな男性と食事をしたり、お話をする中で、michaelさんの気持ちが定まってくると思います。定まるどころかかえって不安が増すかもしれません。そんなときは一人で悩まずにいろいろな方に相談してください。
私事で恐縮ですが、私は心配性で、本堂のお灯明をちゃんと消したかな?と何度も確認してしまったり、玄関の鍵を閉めたかな?と何度もドアノブに手を伸ばしてしまいます。もう、それはそれでそういうものだと割り切って自分自身と付き合っています。
どうぞ、michaelさんも無理に心配を無くそうとして悩まないでください。心配性な自分を治そうとして心配しなくてもいいのです。
案ずるより生むが易し。
独り身の幸せ・・・夫婦の幸せ・・・子どもがいる幸せ・・・夫婦だけの幸せ・・・、各々の幸せは種類の違う幸せなので、比較しようがありません。
言い換えれば、結婚したら独り身の時に感じていた幸福感は手放さなければならないし、子どもを授かったら子育ての苦労が伴います。
私は妻も子どももいて、今は独り身や夫婦だけでは味わえなかった幸福感を味わえますが、同時に同じだけの苦労もしているつもりです。
michaelさまの、結婚したい、子どもを育てたい、という願いを、どうぞ諦めないでほしいと思います。
michael様。
「幸せ」について
michael様
川口英俊でございます。問いへの拙生のお答えでございます。
「なぜ、人は結婚、出産を求めるのでしょうか。」・・種としての生殖的欲求を満たすためや相互依存的関係の構築による生存欲求を満たしていくためという面があるでしょうかね・・理屈で考えるよりも本能的な側面が強いのではないかとは存じます。
『「幸せ」とは何なのでしょうか。』・・下記の問いの拙回答にて少しこの「幸せ」ということにつきまして扱わせて頂いております。
問い「生きる目的が見つからず、就職するのが憂鬱です」
http://hasunoha.jp/questions/508
こちらの拙回答にて述べさせて頂いておりますように、仏教では世俗的な幸せは、真なる幸せではないとして、究極的な最高の幸せとして、悟り・涅槃を目指すことを目的とします。michael様も色々と不安に陥られて、悩まれて苦しんでおられるご様子・・その苦しみを完全に滅することができれば、一体どれほどの幸せになることか、少しくお考えを賜われましたらと存じます。
『・・もちろん、別に今は涅槃・悟りに興味がなくとも、この人生での良い報い、良い結果を求めたいのであれば、やはり、そのための因・縁(条件)が必要となります。何もその因・縁を積まずにして、どこかから良い報い、幸せが勝手にやってくるわけはありません。種も発芽するには、水や光や養分やと発芽のための因・縁が必要であり、種だけで水や光や養分などの因・縁無しで発芽という結果が生じるものではありません。幸せという芽を出すためには、それなりの因・縁が必要であり、仏教では、それこそが「善い行い」となる次第でございます。・・』
例えば、michael様がお考えである幸せという芽を出すためには、当然に、michael様ご自身がそのための因・縁を積むことに取り組まないといけません。そのための確かな因・縁を積んでいければ、やがて良き報いも望めるでしょうが、因・縁を積まなければ、決してその報いは望めるものとなりません。いずれにしても、世俗的にも、仏教的にも、良き報いのためには、善き行いは欠かせないこととなります。是非、少しこのことをお考え頂けましたら幸いに存じます。お幸せを祈念申し上げます。
川口英俊 合掌
質問者からのお礼
お礼が遅くなり大変申し訳ありません。たくさんの皆様に回答いただき、感謝申し上げます。このような愚問に心からの回答をたくさんいただき、悩んでいないで早く質問すれば良かったと心から感じました。その感覚が、今後の人生すべてにつながるのかも?と何となく、感じたりしてます。皆様から頂いたお言葉、大切にして参ります。重ねてですが、お礼が遅くなり大変申し訳ございませんでした。今回は心より、ありがとうございました。