考え方の矛盾
以前もお世話になりました。今回もまたお聞きしたいことがありましてお邪魔しました。
人付き合いがあまり得意ではなく、基本的には皆さんとつかず離れずの距離を保ちつつ生活しています。好かれたいわけでも嫌われたいわけでもなく、毒にも薬にもならない、明日になればそんな人いたかしら?と思われるくらいの存在感でいたいと思い、そのように生きているつもりです。
しかし、何か困ったことがあると頼られたり、アテにされたりすることがあります。引き受けますが本当はとても嫌です。褒められるのも好きではありません。
目の前の席の人の機嫌がよろしくないと、わたしとその人の席の間にある物入れに八つ当たりのようにペンをしまったり、引き出しを大きな音を立ててしめたりします。これもビクビクしてしまいます。
わたし以外の人たちがどこかに集まってひそひそ話をしていることがあります。どうせあの人いなければいいのにと言っていることでしょう。
このように並べると、わたしはもしかして人に好かれたいのかなと思うことがあります。でも本当に存在感のない生き方をしたいのです。誰にも覚えていてもらわなくていいのです。
こういう些細なことを気にせず、皆さんに忘れられるように生きるにはどうしたらいいでしょうか。
よろしくお願いいたします。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
よりよく生きる道とは
人が死の直前に後悔すること。
それは「やらなかったこと」。
あなたがその生き方を選んで本当に後悔しないか。
その理由を明確にすることが大事です。
それには紙に書き出してみることが一番。
先は理由を100個書き出してみましょう。
脳味噌に汗かきながら必死に書き出して下さいね。
それから選択しても遅くはないですよ。
嫌われてこそ一人前
(-_-メ)あなたがどこでどう転ぼうがあなたの人生。顔も合わせることのないあなたなんぞはわたしゃ知りもしません。
オマケに誰もあなたの事なんぞ思い起こしてもいないし、思い起こしても一時的阿ことですからからご安心を。
どうせ、いずれ時がたてばあなたなんぞは誰からも忘れ去られるからご安心を、
つめたく申し上げるのは、自分の自意識過剰に気づいて、自意識過剰の危険性に気づいて頂き、自意識過剰が作り出す非現実世界である❝あなたの妄想❞を離れる事であなたが自由になれる事をよく知っているからです。
あなたの質問は、どうすれば人の事を気にする自分に苦しまなくて済みますか、であると感じます。
あなたは自分の思いにより染汚(せんな)されやすいことを前回の質問からも学ぶことによって飛躍的に成長するでしょう。
あなたを汚したり、汚したり、気分を害しているのは、他の誰でもなく自分自身でしょうに。
自分の思いの布団から出るとすがすがしいですよ。(^<^)
あなたへの特効薬
①影響を受けるな!
眼の前の事はあなたが観る事ではあっても、あなたのことではない。
②自分のルールを強いるな!
怒りの原因は自分の押し付け。マイルールを相手に適用させないことです。相手は相手の都合で勝手にイラついているのだから、相手がイラついているからってあなたまでイラつく必要はアラジン。
③自分のスモークに気づけ
あの人がこう思っているに違いない、と思っているのはアンタの思い。アンタのスモーク。
仮に嫌われたっていいじゃない。AKBなんか嫌われて注意、注目集めたモン勝ちですよ。
嫌われるにもレベルがあります。怒られても怒鳴られてもそれはまだまだ愛のウチです。
あなたほど人は、他人をいちいち評価していません。
こまめに毒ガス、スモークを出して自分の思いで咳き込むよりはクリーンな空気を生み出すように努力してください。=反応をもっと穏やかに、かろやかに。
没蹤跡と言う生き方 -参考までにー
「褒められるのも好きではありません」とお考えのようですが、名誉や称賛を求めないという考えは生き方として立派だと思います。曹洞宗の高祖道元禅師様は、「名聞利養(みょうもんりよう)を求めようとする心」をきつく戒めました。禅宗に「没蹤跡(もっしょうせき)」という言葉があります。足跡を残さない生き方という意味です。自分を誇示しないという生き方です。具体的な例として、良寛和尚様が玉島圓通寺での修行時代に一緒だった仙桂という僧侶の事を漢詩で称えています。仙桂和尚の生き方こそ没蹤跡であると思います。字数制限の関係上、読み下し文と訳文だけを紹介させていただきます。
仙桂和尚 (読み下し)
仙桂和尚は真の道者なり 黙して言わず 朴にしてかたちつくらず
三十年 国仙の会に在りて 禅に参ぜず 経を読まず
宗文の一句すら道(い)わず 園疏を作って大衆に供養す
当時 我之を見れども見えず 之に遇い 之に遇えども遇わず
呼嗟 今之に放(なら)わんとするも得得可からず
仙桂和尚は 真の道者なり
(訳文)仙桂和尚はほんとに仏道に親しかった。心にないことは一言もおっしゃらない。その形振りにも寸分の飾りが無かった。彼は三十年間大忍国仙和尚の叢林(道場)で修行していた。が、参禅もせず、読経もしない役職に終始した。宗門の教えの一言半句すらも説き立てず,ただ菜園を作って修行僧たちに供していた.その当時、同じ道場に居りながら、仙桂和尚の偉さがついにわからずじまいであった。仙桂和尚を見習って、いま再び修行したいと思っても不可能である。 仙桂和尚は真に悟られた道人であった。(参考 『大法輪』平成3年11月号)
こういう生き方を一つの目標とすることも、あなたが生きていく上での一助となるかもしれません。但し、人間として生きていく上で、他者とのかかわりは避けて通れないと思います。毀誉褒貶は世の常であり、真面目に地道に生きていても言われなき誹謗中傷を受ける時があります。社会の中で仕事をして生きて行くためには、例えあなたが称賛を求めなくても、様々な毀誉褒貶に耐えて行くための実力やスキルを磨いていく必要もあると思います。
みみずく様。
「存在感のない生き方をしたい…」とても難しい事です。
どうしたら其の様な事が出来るか。はてさて…
仏教では、四苦八苦を解きます。
「四苦」は生・老・病・死の四つの苦しみ。「八苦」は「四苦」に愛別離苦あいべつりく(親愛な者との別れの苦しみ)、怨憎会苦おんぞうえく(恨み憎む者に会う苦しみ)、求不得苦ぐふとくく(求めているものが得られない苦しみ)、五蘊盛苦ごうんじょうく(心身を形成する五つの要素から生じる苦しみ)
これらを観るに、貴女の仰る「存在感のない生き方をしたい…」は、とても難しい難題であるとお判り頂ける事と存じます。
難しいですねぇ〜
縁起なる存在として・・
みみずく様
川口英俊でございます。問いへの拙生のお答えでございます。
人付き合いが少し苦手のご様子・・
人付き合いにおいては、もちろん無理してまで付き合う必要は無いかと存じます。無理してしまいますとストレスや不満を溜めすぎて、色々と悪循環に陥ってしまうこともあるため、誠に注意が必要となります。とにかく、人付き合いにおいては、みみずく様にとっての程々のバランス、距離感をうまく保つことが大切になるのではないかと存じております。
ただ、私たちという存在は、一人では生きていくことのできない存在であることの認識は必要であるかとは考えております。
様々な関係性、依存関係の中にて存在することができている「縁起」なる存在ということですが、下記の問いにて少しこのことを扱わせて頂いております。
問い「プライドの高さと人を見下しているいう感覚」
http://blog.livedoor.jp/hasunoha_kawaguchi/archives/1002992069.html
『・・「縁起」の理解とは、例えば、「果たして自分は、自分だけで生きていくことができるのか」ということを考えてみたとき、全くそうは有り得ないという存在だということに気づきます。色々なモノ・コト、無数の他者に縁りて成り立ち起こっている、つまり「縁起」なる存在であること、それは、「生かされて、生きている自分」のありようを理解する時に、自分を生かしてくれている存在に対しての気づきと有り難さ、感謝、報恩を思うようになることで、私たちは、傲慢さや愚かさを諫めて、謙虚に、思い遣りや譲り合い、親切心、慈悲心を持って、他者と接していくことができるようになります。・・』
そして、「存在感の無い生き方」ですが、「縁起」なる世界で生きていかなければならない以上は、全く無くすことはできないものとなります。いや、本質的には「存在」というものは実体としては無い「空」というものとして、その「存在感」も実体としては無いです、と仏教的にはご説明申し上げることもできますが、これはやや難しいことですのでひとまずは置いておいて頂いて、関係性、依存関係で一応、存在は存在として成り立っているだけであり、関係性、依存関係次第においてまた幾らでも変化していくものだということだけでも少し知っておいて頂けましたらと存じております。
川口英俊 合掌