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生きる意味

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科学的に見れば生きる意味などなく、生物は子孫を残すために生きており子孫を残してきたことや進化も結果にすぎず目的などないそうです。
宇宙には究極的な意志や目的など何もないそうです。
ならば生きる理由は各々が勝手に決めることなのですが、今幸せじゃないしこれからも幸せになる見込みがないなら死ぬというのも勝手だと思うのですがなぜみんな批判するのでしょう?
最近本当に人生辛いし、今まで生きてきても良いことなんてほとんどなかったしこれからもある見込みもありません。これ以上辛い思いをするくらいなら死んだほうがマシと思っているのですが何がいけないのでしょう?


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お坊さんからの回答 4件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

7つの罪 と 善導精神

7つの罪
 理念なき政治 
 労働なき富
 良心なき快楽
 人格なき学識
 道徳なき商業
 人間性なき科学
 献身なき信仰
 〜マハトマ・ガンジー〜

総じて人間性・モラルの無い人間の活動はすべて「救われ」のないものです。

あなたも今まさに「その救いの無いもの」に縛られとらわれているのではないでしょうか。
そこから目を覚まして、確かな心の向かう先、導き先、向上精神、血の通った人間性を持つことがあなたの進むべき方向でしょう。
たとえ「科学的に」そうだということが「言える」としても、それはまさに科学的にというドライ目線。科学だって人の血の気の通った科学者は人間世界で困っている人が少なくなるようにという熱意で研究されている方もおられるでしょう。
科学もドライな結論しか出せないのであれば科学を学ぶ資質が無い人と言えましょう。教育も事務的になれば生徒も死にます。医療もお金優先になれば人命軽視。中国で問題視されている臓器収奪ビジネスなどは狂気の医療。
ウィルスの研究でウィルスが漏洩すれば世界がパニックになる。そんな研究であればそれは世界の害悪ですからやらない方がよかったのでしょう。
核も兵器として利用・悪用されれば殺人兵器や脅威になる。
人が人として本当に優先すべきものを間違えているからではないでしょうか。
この世は力を持たせてはいけない人間が力を持つと独裁者が弱気ものをいじめる世の中が作られる。だからこそ、持つべきものは人間性。それを仏教では菩提心とも言います。菩提心とは悟りや涅槃を求め、その利益(りやく)を多くの人たちにめぐらし向けん、とする善導の精神です。
善導する。
人間の存在意義はこの一言に尽きるといってもいいでしょう。
ならばこそあなたはあなたの迷いの心や停滞する心をも、人間性を喪失した科学にも疑問を持って一切を善導するべきなのです。
実際問題、今の心がモヤモヤした状態では救われ・救いがなくスッキリしないのではないでしょうか。
ぜひ、これを機縁として心の本当の在り方は「どうあればいいのか?」という疑問と追求心を持ってみてください。実はそれこそが仏教の原点だからです。
人には誰にでも心がある。
そのわがこころを人として、人間として本当に向かうべき方向に向かわせてこの上ない確かな心に向かわせることが仏教の導き先です。

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おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

あなたにも、人生に意味を見出し生きていってほしい。

こんにちは。亀山純史と申します。

まず初めに回答するにあたって、“最近本当に人生辛いし、今まで生きてきても良いことなんてほとんどなかったしこれからもある見込みもありません。これ以上辛い思いをするくらいなら死んだほうがマシと思っているのです”という心境に、少しでもお役に立てればと思っています。

さて、「科学的に見れば生きる意味などなく…」とのことですが、そもそも、「生きる意味」は科学で答えが出るテーマではありません。それは「意味」とは「価値」を問うものだからですね。科学は価値を問うことはありません。たとえば、核融合を研究するのは科学ですが、それを研究する意味は、科学のテーマではありません。ですから、核融合を軍事目的のために研究するか否かは、科学ではありません。そうすれば、私たちの命をどんなに科学的に分析してみても、そこに「生きる意味」は見いだせないのです。

その時に、“生きる理由は各々が勝手に決めることなのですが、今幸せじゃないしこれからも幸せになる見込みがないなら死ぬというのも勝手だと思う”とのことですが、ここでのキーワードは、「生きる」です。様々な事柄に理由はありますが、ここでは「生きる」理由です。「生きる」理由は各々が決めていいことでしょう。しかし、それは勝手に「死ぬ」ことも許される、ということではないのですね。

ガラス製品は壊れやすいから、丁寧に扱おうとします。その時、どのように丁寧に扱うかは、人それぞれでよいでしょう。しかし、ガラス製品はいずれ壊れるものだから、どのように扱ってもいい、とはならないはずです。それは、私たちは、ガラス製品に何かしらの価値を見出しているからでしょう。私たちの命も、いずれ死する存在です。しかし、そのような命に、私たちは何からの価値を見出しているのです。

仏教の開祖のお釈迦様は、自身の人生があまりに辛いものであることを知り、ブッダ(目覚めた人)を目指し、お悟りを開かれたのです。ブッダを目指したところに、お釈迦様にとっての「生きる意味」があったのです。あなたにも、辛い人生であっても、それに意味を見出し生きていってほしいと、切に願っています。

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hasunohaを訪れてくれた皆さん、こんにちは。私は浄土真宗本願寺派の僧侶です。令和6年3月に、公立高校の教員を勧奨退職しました。その後、縁あって、令和6年4月からは「まちサポ雫石」というNPO法人のお手伝い、また、令和6年10月からは公立高校の非常勤講師をしています。 浄土真宗における僧侶は、仏さまの教えに生き、その教えを伝える者であり、人を悩みから救う能力を有した者ではありません。人の悩みを救う救いの主は阿弥陀さまです。ですので、hasunohaにおける私の回答では、仏さまの教えに救われているこの私の生き方、考え方を、皆様にお見せするだけです。そして私自身、お答えできるご相談の範囲はそう広くはありませんが、皆様のお役に少しでも立てればと思い、回答させて頂いております。

死んで欲しくないからでは

仏教的には、生への執着も煩悩です。
生きる意味などないのが真理かもしれませんね。
ただ、実際に身内や周囲の人に死なれると色々と面倒な後処理やら手続きやらがありますから、簡単に死なれたくないと思うのが人情です。
自殺とかされたら面倒くさいから普通に生きてくれと。

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がんよじょうし。浄土宗教師。「○誉」は浄土宗の戒名に特有の「誉号」です。四十代男。 仏教は、悩み苦しみを制御したり消したりするための教えです。まだまだ未熟者の凡夫ですがよろしくお願いします。

全ては縁起し空である。

micuenさま

全ては縁起し空である。

意味や目的、幸せや不幸せ、良いも悪いも、全ては、因縁(原因と条件)次第なるもので、実体としてあるわけではないということになります。

もちろん、実体が無いとしても、何もないという「無」ではありません。

それは、一応、因縁によってあり得ているというものになります。

因縁次第で、意味や目的、幸せや不幸せ、良いも悪いもあり得ており、因縁次第で調えることもできるというものになります。

仏教では、迷い苦しむ存在としての輪廻のありようを見直し、迷い苦しみを無くすための因縁(仏道)に取り組むことで、悟り・涅槃を目指すものとなります。

全ては、因縁次第。善いも悪いも。ならば、善い結果への因縁に取り組むのが得策となります。

是非、仏教を学び修していって頂けましたら有り難いです。

川口英俊 合掌

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最新の仏教論考はこちらでご覧頂くことができますが、公開、非公開は随時に判断しています。 https://blog.goo.ne.jp/hidetoshi-k

質問者からのお礼

みなさまありがとうございました。生きるか死ぬかもう少し考えてみます。

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