僕に浄土宗檀信徒たる資格があるでしょうか
浄土宗を信仰していますが、先日ショックな文献に出会ってしまいました。
二祖・聖光房弁長上人の念仏名義集に
「臨終行儀と申すは一期の大事是に過たる無きたり。世の中の人の往生したるぞ、悪道に堕たるぞと申す事は、此の臨終にて知るなり。臨終の吉き人は往生したると知る、臨終の悪しきをば悪道に落ちたりと知るなり。」
とあります。
これはどうしても納得できません。日頃念仏をしているのにろくでもない死に方をした人が一人でもいたら、「念仏すれば阿弥陀仏は救ってくださる」という教えが崩れてしまいますし、現実的にそういう人が今までに一人もいないとは思えません。
念仏していたって死ぬ時に正念を保てるとは限らないし、保てていたとしてもこの目に来迎を見ることができるかはさらに自信がありません。来迎を見れなければ浄土に往けないと思うと、物凄い恐怖の中、死んでいかなければならないのではないでしょうか。
弁長さんなんでこんな暴言吐いちゃったの!?って気持ちです。
そんな疑問を抱えたまま時宗を勉強していたら、時宗では臨終とは死ぬ時だけを指すのではなく一瞬一瞬を臨終と心得、今この時に唱える平生の念仏がすなわち臨終の念仏である。
来迎が見えなくても三界虚妄のこと、惑障が邪魔をして見えないことだってあるが気にしなくていい。必ず往生できる。という教えに出会い、これだ!と思いました。
じゃあ時宗に改宗したらいいじゃんと言われそうですが、この弁長さんの発言以外は浄土宗が好きで、敬愛する徳川家康公と同じ宗派ということに魅力を感じています。時宗総本山清浄光寺より知恩院の方がずっと近くて行きやすいですし、何より近くに時宗の寺院がありません。
そこで、浄土宗檀信徒のまま、都合のいい所だけ弁長上人の言うことを無視して一遍上人の思想を取り入れるということをしてもいいでしょうか? それでも浄土宗檀信徒を名乗る資格があるでしょうか?
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
往生するための念仏ではいけない
花果山さま
基本的に、往生思想というものは、方便的なものであり、つまり、仏道を本格的に歩んで頂くための入り口、入門的なものとなります。
仏教の目的は悟り・涅槃となりますから、その目的へ向けた道すじの一つに過ぎないということになります。
また、真に極楽などの浄土へと向かうためには、もちろんそれなりの条件を調えなければならないものであり、最も重要となるのは、当然に業(カルマ)、そして次に仏縁となります。
仏縁が調ってあっても、業(カルマ)が悪いものであるならば、次の輪廻の行き先は悪いものになってしまいます。
いくら形式的に仏縁を調えても、それだけではダメであり、業(カルマ)の力の方がより強力に次の行き先に作用するものとなります。
仏教の基本は、あくまでも、悪い行いをなさずに、善き行いに努め励んで、自分の心を清らかに調えることであります。
心を清らかに調えていくための方便の一つが念仏の教えでもあります。
自分の心をいかに仏の心、つまり、悟り・涅槃に向けて調えていくべきであるのか、それが主眼とならなければいけません。
往生するための念仏ではいけないということであります。
しっかりと仏教の基本的なことになる智慧と福徳(功徳)の修習に努めて参りたいものでございます。
川口英俊 合掌
臨終行儀について
こんにちは。臨終への拘りは、法然上人以前から貴族達には(記録が残っている限りは)かなり重大事だったようです。もちろん上人におかれても「臨終を契機に往生」と大切な扱いをされています。
ご承知かと思いますが、法然上人のお考えは『つねに仰せられける御詞』にありますように、
「念仏申さんもの十人あらんに、たとひ九人は臨終あしくて往生せずとも、我一人は決定して往生すべしとおもふべし」、同「いけらば念仏の功つもり、しなば浄土へまいりなん。とてもかくても此身には、思ひわずらふ事ぞなきと思ぬれば、死生ともにわづらひなし」と、強く往生決定の心をもつべきことを勧めておいでです。
ここからは私見ですが、これは、まさに貴方のように不安を抱く方にとって、さらに「いま、ここで」お念仏のお称えを勧めているように思えます。
当時支配的であった「臨終の相によって死後が決定する」という考えを受け止めながらも、「臨終はいつ来るか分からないのだから」ということを梃子に、平生の念仏を勧めておられたのではないか。私はそう思います。
なお、「資格うんぬん」は、どのお坊さんも気に留めておられないようですが、まさに「自分なりの疑問が出てきてショック」というのを突っ込んでいくことで信仰は深まるものです。あなたのいう「日頃」が試されている訳です。
初期浄土宗においては、法然上人の後に様々な「分派」がありました。様々な解釈や議論が行われていたわけです。もちろん、みな「法然上人の真意はこうであろう」という前提で論を張ったわけです。それらを後追いする中で、貴方にもっとも肚(はら)落ちする理屈を見つけ、安心にてお念仏お称えできればよいのではないかと思います。
追記です。
「お礼」欄の書き込み、ありがとうございます。
えーと、「心のままに」で終わっていますが、「心のままでいる」で終わらず、「(おほらかに=たくさん)お念仏する」ことができれば、法然上人の意にかなっていると存じますよ。また、所属関係についてですが、私からは「君は浄土宗から出て行くべきだ」とはまったく感じません。「教えがシンプルなだけに、様々な議論を生んでいる」こと自体が活性化なのかなぁ、とさえ思いますよ。
追)
文字制限でリンクが貼れないので「丸山博正 臨終と来迎」で検索してみてください。
ご質問ありがとうございます。
私もその聖光上人の文とされる部分には反対の意見です。法然上人はそのように言われていませんからね。
私は法然上人の言われた通りに普段のお念仏だけでどのような臨終を迎えようと救われると信じていますよ。
ただ、もしも目の前にまさに今臨終を迎えようとされている人がいたら、阿弥陀様の仏像か掛け軸を置いてあげたり、念仏を唱えてあげたり出来ることはしてあげるかな。
これからも迷った時は法然上人に帰って考えてくださいね。
追記
今手元に本がないのですが参考になる浄土宗のサイトを載せておきますね。
もしもサイトに繋がらなかったら教えてください。
http://jodoshuzensho.jp/daijiten/index.php/平生の機・臨終の機
浄土宗の中でも色々な解釈のお坊さんがいます。なにしろ凡夫なのですから。それに間違っていたとしてもお念仏をお称えすれば最後には救われるのですからね。お念仏をお称えすること以外のことについては師からの教え、地域性、その他による多少の違いがあっても気にしなくてよいと私は思いますよ。
追記
お礼ありがとうございます。
「来迎が・・・」というのはちょっと覚えて無いです。ただ必ず来迎があると私は信じています。
また、自由に解釈できるというよりも凡夫ゆえに煩悩や執着によって様々に解釈してしまうのだと思います。
そのような愚かな私でも救ってくださるのが阿弥陀佛なのだと思っています。
南無阿弥陀仏
追記
その文なのですね。著作の真偽はともかくとして、生前に阿弥陀佛が見えるようなことが無くても必ず来迎されますよということかな。観念の念仏にもあらずと一枚起請文にもありますからね。
道の途中
資格のあるなしについては、阿弥陀様でないから私は答える立場にありません。
悩める衆生を本当にちゃんと救える資格があるかと如来が誓願たてることはあっても、衆生に資格を問うことはないです。あえて言うなら、阿弥陀仏の名を呼び念じて指名して、という程度かと思います。
むしろ衆生の側でなんだかんだ理屈つけて本来は広いはずであろう浄土の門を狭きものにしないよう注意が必要かと思います。
人から見たら、ろくでもない死に方かもしれませんが、それで生き様や尊前が覆われて終わったら弥陀要らないです。
悟りの道の半ばでは迷いや批判もありますが、正行も雑行も通る道かと思います。弁長様の教え、時宗の教えにふれた折に、法然上人や善導大師との整合性を辿るなら、個人の主観だけに陥るリスクも少なくなると思います。
都見諸仏浄土因
国土人天之善悪
建立無上殊勝願
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返信ありがとうございます。
還るというのは、『学んでから』でなく学びの『途中』での擦り合わせと言った方が私が意図した部分は近いので、少し上の回答を修正しました。
私は親鸞聖人や法然上人、善導大師との整合性のとれたものだけ回答文としてハスノハにあげているわけでないです。真宗の高僧の先生方が過去の私の回答みるとツッコミどころ満載かと思います。
私は弁長上人の著書を深く知らないままの回答で申し訳ないのですが、そんな言い方をした理由もあったんだろうなと思います。たぶん。
今の時代の私がみたらあれって思うことは真宗にもあります。時代時代の娑婆の文化や価値観が影響してるのかもしれないです。
文化といえば、排他異安心の文化で嫌な思いさせてごめんなさい。
うちの派はゆるすぎて、もう少し教団をしっかりまとめてほしい思いがありますが、厳しさが人を責める刃になるのは悲しいので、真宗に籍を置くものとしてお詫びします。ごめんなさい。
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再度のお返事ありがとうございました。
なるほど、神社案件でしたか。
実は昨年度、町内の神社当番でした。
お寺だから特別扱いの時代でなく、村の人と同じ回り番をつとめました。
仏教とか神道とかを論じられるのも、宗教を大事にする心があればこそ。その心をどう育てるかの方が私は大事にしたいです。
良いでしょう
そこで、浄土宗檀信徒のまま、都合のいい所だけ弁長上人の言うことを無視して一遍上人の思想を取り入れるということをしてもいいでしょうか? それでも浄土宗檀信徒を名乗る資格があるでしょうか?
私は所属は浄土宗ですが、時宗です。どういうことかというと、時宗内で、浄土宗の教えを守ってきた時宗一向派というのがあって、戦時中に大部分が転宗しているからです。
追記
一向派では、発願文を主に使いますので、臨命終時だからだと思いますから、一遍思想を援用しているのではないでしょうか?
合掌は本来浄土宗とは違う合掌ですが、今は浄土宗に合わせていますね。
追記
脇士は、観音菩薩と勢至菩薩の三尊です。浄土宗本山蓮華寺は釈迦弥陀の二尊ですが。別に一向上人像をまつります。
発願文は、時宗で多用される訓読文です。確かに内容的には臨終正念を説く内容ですが。
質問者からのお礼
>川口英俊先生
ご回答ありがとうございます。
察するにこれは聖道門における念仏の捉え方かなと思います。
学問的な答えとしては受け取らせていただきますが、私はあくまで浄土門・善導大師がお勧めになられた念仏をしたいと思いますので、往生するための念仏をします。
悟り・涅槃は極楽浄土に往ってから敏腕コーチ阿弥陀如来の指導によって求める所存です。
非礼な返答になってしまい申し訳ありません。また機会ありましたら教えていただけると幸いです。
>泰庵先生
ご回答ありがとうございます。
「弁長様の教え、時宗の教えにふれたあと、辿るべきは法然上人や善導大師でよろしいかと思います」とは、弁長上人や時宗の教えを一通り学んだ後、浄土宗に還れという意味でしょうか?
>佐藤良文先生
ご回答ありがとうございます。
「貴方にもっとも肚(はら)落ちする理屈を見つけ、安心にてお念仏お称えできればよいのではないか」とは、その理屈を見つけても所属宗派を変えなくとも自分の心のままにという意味でよろしいでしょうか?
>三宅聖章先生
ご回答ありがとうございます。
「法然上人の言われた通りに普段のお念仏だけでどのような臨終を迎えようと救われる」、この出典を読みたいので是非お教えください。きっと僕にとって大きな安心になると思います。
実をいうと僕は浄土真宗の出身なので、宗派の公式見解とちょっとでも違うと異安心とか言われちゃう文化を見てきたので、浄土宗の三宅先生が堂々と二祖弁長上人の言う事に反対とおっしゃっていることにちょっと驚きました。浄土宗という教団はそういう事を言えて、思想として持っていても良い文化なのでしょうか? ある程度の幅を持たせた自由な解釈が許される教団・宗派ならば僕もますます浄土宗が好きになれそうです。ぜひ実情をお教えください。
>三宅聖章先生
追記ありがとうございます。
「その故は平生の念仏臨終の念仏とて何の替り目かあらん。平生の念仏の死ぬれば臨終の念仏となり、臨終の念仏の延ぶれば平生の念仏となるなり」、この言葉は何故か僕は西山証空上人の言葉だと思っていましたが、法然上人の言葉だったんですね。そしてこれは質問文に挙げた一遍上人の言葉ともまったく同じ事をおっしゃっていますね。
もう一つ、法然上人の言葉で「来迎が目に見えなくてもいいよ」と言っているものがもしあればお示しくださるとなお幸いです。
浄土宗は鎮西派とは言っても純粋な鎮西派ではなく、「西山派と真宗以外の連合軍」だと聞いたことがあります。それゆえに統一見解がなくある程度自由に解釈できるのでしょうか。
>三宅聖章先生
『臨終行儀』という著作に「惑障相い隔てて見ることあたわずといえども、願力は疑うべからず。決定して来りて我が身を照らす」とあるようです。これが答えになりそうですが、惜しむらくは法然上人の著作ではないという説が有力なようですね。
>三宅聖章先生
なるほど、一枚起請文のその一文がここで活きてきますか!
『往生浄土用心』の⑧にも「臨終が悪くとも、平生から念仏していれば往生できる」とありました。
http://jodoshuzensho.jp/daijiten/index.php/%E5%BE%80%E7%94%9F%E6%B5%84%E5%9C%9F%E7%94%A8%E5%BF%83
おかげさまで得心がいきました。本当にありがとうございます。ひさしぶりに心置きなく念仏できそうです。
>泰庵先生
なるほど、その時代の文化や価値観で現代人から見るとあれ?と思うことならいくらでもありますから、そんなもんだと考えればあまり気に留める事もなくなりますね。僕の好きな戦国武将だって現代から見れば人殺しになっちゃいますもんね(笑)
出雲路派と拝察しますが、泰庵先生が謝るなんてとんでもない!
ただ、僕が浄土真宗から浄土宗に改宗した理由は、5年も努力してやっと達成できた事がまったく理不尽な理由で一瞬で水泡に帰すという挫折を味わったので、どうしても助けてくれと現世利益を祈りたくなったのに浄土真宗では仏菩薩に現世利益を祈ることも神社参拝も否定的という事実に直面したからなんです。そこで「今回の事に限らず生きていく上での悩みって往生できるかどうかだけじゃないよな」とも思い、そこで同じ阿弥陀念仏でも神社参拝を許容してくれる宗派が良くなった…というわけなんです。この挫折の事情はいつかハスノハに投稿してまたお坊様方に教えを乞うかもしれません。
>佐藤良文先生
返信ありがとうございます。
他の先生への返信にも書きましたが、実は僕は浄土真宗から浄土宗に改宗した者です。浄土真宗だと阿弥陀如来像の衣の皺の数に至るまで厳格に決まっていて、自由に考え議論するという文化がほぼ無いように感じます(本山の公式見解とちょっとでも違うと異安心とか言われる)。なので、浄土宗に来てみると自由ゆえに面食らって逆にどうしたらいいかわからなくなる事があり、今回の件もその一つです。
ともあれ、「浄土宗から出て行くべきだ」とはならないようでホッとしました。ありがとうございます。
>泰庵先生
津戸三郎への手紙で法然上人は「往生以外の現世の祈りを神仏にするのは悪い事ではない」と書いているし、『一百四十五箇条問答』でも神社参拝は差し支えないと明言してますよね。それがなんで真宗になるとダメになっちゃうのか。津戸三郎への手紙は『西方指南抄』で親鸞聖人も書写してるから知らないわけないんですけどね…。
>佐藤良文先生
全部読みました。読み応えありました。
臨終行儀はやりたい人は助業としてやればいいんじゃないのってぐらいのものと受け止めれば良さそうですね。
余談ながら西山派が弥陀の本願への帰依の後に限っては諸行をも往生業として認めるという教義にしているのがまったく理解できなかったのですが、この論文の最後に禅勝房への言葉としてその根拠と思われる文が出てきたので驚きました。かねてよりの疑問が思わぬところで氷解してしまいました。
本当にありがたいことです。この論文を紹介していただいてありがとうございました。
>鈍阿先生
回答ありがとうございます。
一向派の存在については存じております。一遍上人とは違う流れなのに江戸幕府の政策によってむりやり時宗にされて、明治以降に浄土宗に所属を変えたものだと理解しています。
僕が引っかかっている臨終正念・来迎について、僕は一遍思想に答えを見出したのですが、一向派ではこの部分をどう考えていますか?
また、浄土宗と時宗では合掌時の数珠の持ち方等違いますが、どちらのやり方でやっていますか?
>鈍阿先生
もう一つ! 一向派では阿弥陀様の左右にいるのは善導大師と法然上人なのか、一遍上人と他阿真教上人なのかどちらですか?
発願文は善導さまの作ですよね? それを依用しているとなぜ一遍思想を援用していることになるのかがよくわかりませんでした。内容から言っても明らかな臨終正念と来迎を期待する文章だと思いますが…。
(感じ悪い書き方でしたらすみません。煽ってるわけではありませんので、また教えて頂けたらと思います。)
>鈍阿先生
ああ、なるほど! (一遍流の)時宗で多用される発願文を一向派でも重要視しているから、つまり一向派でも一遍流と共通する所があるよという意味ですね?