hasunoha お坊さんが必ず答えてくれるお悩み相談サイト

お坊さんに質問する
メニュー
メニューを閉じる
そらノート 亡くなった人やペットに思いを伝えよう hasunoha姉妹サイト登場

何のために生きるか。

回答数回答 6
有り難し有り難し 202

10年ほどお付き合いをしている人がいます。
彼は関東、私は四国です。
お互いに仕事が好きで、家族が好き。私自身、会社での立場もあり、また、親元を離れる事に不安もあり、何となく結婚話を延ばしてきてました。

そんな中、一昨年、子供を授かり、これがタイミングかなと。子供に気付くのが早く、もう少し経って成長が確認できてから報告しようと思い、仕事を続けていました。そうして過ごしていたところ、後輩が事故に遭い、しばらく出社できない事になりました。

その絡みで今まで以上に精神的にも肉体的にも忙しくなり、子供の状態が不安定になってしまいました。病院からはできれば数日は休みを取り、できるだけ安静にするように言われましたが、後輩が出社できないため、私まで休むと業務に支障が出ます。彼とも話し、どうするか判断は私に委ねると言われました。

まだ会社に報告する前だったし、他の後輩たちに迷惑はかけられない。けど、せっかく授かったもの。いろいろ考えましたが、私は仕事をとり、子供は初期の流産となってしまいました。

私の判断はどうだったのか。彼は子供の件を両親に伝えていたらしく、それらを思うと後悔の念が大きくなり、何がなんだか分からなくなってしまいました。そして昨年、休日を利用し四国八十八ヶ所をまわりました。

初期の流産は手の施しようがないとも言われます。しかし、私が自分自身をとっていたなら助かったかもしれない。彼も彼の家族も私を責めません。ひとりで病院に行かせたり、しんどい思いをさせてしまった。尚更、一緒になりたい気持ちが強くなったと言ってくれます。

八十八ヶ所まわり、いろんな人や物に触れ、有意義な時間を過ごせてよかったと思います。しかし未だにあの時の判断は良かったのか、迷ってしまう自分もいます。お互い歳も歳ですし、関係を続けていってもいいものか悩んでしまいます。これから何に生きるのか。答えが見えません。


この問答を娑婆にも伝える
facebookTwitterLine

お坊さんからの回答 6件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

全ては今を生きるために

大変なご判断をされ、気苦労もされたことかと思います。
改めましてお疲れ様でございました。

その判断が正しかったか、誤っているかは、誰にもわかりません。

ですが、今、あかみ様がこうやって生きてらっしゃることは紛れもない事実であり、正しいことです。
水子供養はされましたでしょうか。
そのお子さんの供養をされ、そのお子さんの分まで生ききることが
お子さんにとっても、授かった命に対しても、正しいことかもしれません。

過去は変えられませんが、過去をどう意味づけるかは変えられますよね。

今生きているあかみ様は、紛れも無く正しい命であり
その命を変えられないものに使うことよりも、変えられることに使うこと。

過去ではなく
今、あかみ様の周りにいらっしゃる方
今あかみ様がいらっしゃる世界に目を向けることによって
なんのために生きるかが、見つかるかもしれませんね。

そして、それがいのちの理由かもしれませんね。

合掌

{{count}}
有り難し
おきもち

おきもちが累計1600件を超えました


比叡山延暦寺 行院にて満行。 天台宗 高龍山明王院普賢寺 僧侶。 一般...

この世に人として生まれる確率は

村上和雄筑波大学名誉教授の研究によると
人としてこの世に生まれる確率は
「1億円の宝くじに100万回連続して当たったのと同じ奇跡」
です。
この世であなたが彼と出会う確率はどの位になりますか?
もはや奇跡だということが分かると思います。
あなたが今この世にいることが奇跡だと実感できると、自然に生きる意味が見つかります。
自分で考え悩むことから逃げてはいけません。
逃げれば逃げるほど悩みは消えるどころか、ますます大きくなります。
『人生の質は自分への質問の質で決まる』といいます。
自分に問いかけ続けると、自然に答えは見つかりますよ。

{{count}}
有り難し
おきもち

おきもちが累計1600件を超えました


有坂脩岳(しゅうちゃん)
『般若心経』を梵語(サンスクリット語)で読める日本でも珍しいお坊さんです。...

その子の死を生きる力に!

 死は、早くとも、遅くとも、同じ死です。
あかみさんのおなかの中で、どれだけの日を過ごしたか分かりませんが、
どんなに短い人生でも、その子にとっては、一生を真っ当したのです。

 問題は、その子の死を、遺された者がどう受け止めるかです。
今、あかみさんは、その子の死を縁として、命に向き合っていますよね。
それが、大切な事です。
死を意味ある死にするか、無駄な死にするかは、
その死を縁として、遺された者が心豊かになるかどうかにかかっています。
悲しむことも、悩むことも、心豊かな事です。

 その子の死が、あかみさんの生きる力になれば、
おなかの中の短い人生も、本当に本当に尊い人生です。
あかみさんが心豊かな人生を送ることが、その子の願いです。

ちょっと、話は変わりますが、
あかみさん、「彼の所に行きたい」というのが本心でないですか?
文章からはそんな雰囲気が伝わってきますが。。。
もし↑これに対して「そう!」って思えば、
思い切って彼の所に行った方が良いように思います。
どっちの選択にしろ、
あかみさんが自分で選んだ道を歩むことに意味があります。

{{count}}
有り難し
おきもち

おきもちが累計1600件を超えました


45歳 独身 銭湯通い 浄土真宗の僧侶だけど、「中観派です」って言って...

何でもなくなる為です。

何の為に生きるのか。
あなたが人生で今後も迷うことがあってもへー然としていられるようになる為です。
平たく言えば、あなたが自分の人生の最後の感想で「ああ、幸せだった」「間違いなかった」と思えるためです。その為には、あなた自身を学び、あなたとあなたの関わりを❝輝かしく❞することです。
88ケ所めぐって、88日を経て、88以上の出逢いや判断、思考をあれこれめぐらしたからといっても、たった今も続いているのが人生でしょう?それで終わりではなかったでしょうが。人生山あり谷あり…で、その結果、その後の、…たった今なのです。今後だって思い通りにならないことは続いていく。あなたが「後悔」「残念」という判断を下した後でも人生の川の流れは続いていくのです。あなたの生き方次第で「生きていてよかった」と思えることにもなるのです。
結婚の為、子育ての為だけに生きるのであれば、子供を産めない人や結婚をしない人は価値がないのか、といえばそんなことはありません。
自分の為、相手の為、世の中の為といっても、具体的には何をどうすることが自分、相手、世の中の為になっていくかはその時になってみないと分かりません。
だから、あなたは今後も得失に振り回されず、最高の人生を生きる為にも自分を明らかにすることです。
仏道をならうとは、悟りの道、最高の生き方をならうことです。
悟りの道をならうという事は、今の自分の様子をしっかりみて、自分の得失の思いに騙されなくなる事です。遠くの仏道らしいことをいくら学んだってぶっちゃけ何にもなりゃしません。
自分のここ、この場所を置いて他に仏道なんてものはありゃせんのですから。
何かしなきゃいけないという事に追われることも無く、誰もが平等に与えられている24時間を全うしておおいに生きるのです。
平凡なら平凡をおおいに生きる。
大平凡なら大平凡をおおいに生きる。
それはつまらないことではない。何故なら私もあなたと同じようなことがあっても、今、平平凡凡と大平凡をおおいに生きて幸せだからです。
かつて最悪のデッドエンド的な判断をあなたが下した後の今が、今日のこの日です。
その今日を迎えた後でも、あなたの良かった悪かったの判断は続いていくのです。
最後に微笑みを迎えられる判断をしっかりとくだし、これでよかった、と思える生き方をしてください。

{{count}}
有り難し
おきもち

おきもちが累計1600件を超えました


丹下覚元(たんげかくげん)
かくげん和尚の電話おなやみ相談  📞08020659278 そのモ...

結婚、真剣に向き合ってみれば?

あかみ様、体調の方は心も含めて現在の状態はいかがですか?
最近は、彼と実際に会って話をしてますか?

残念な結果になったとはいえ、子供を一度身ごもったという事は
「結婚」を真剣に考えるキッカケになったのではないでしょうか?

遠距離とはいえ10年もお付き合いし、お互い年齢的にも理解し合える大人です。
今、自責の念に苦しんでいるとはいえ、あなた方の子がいたのも事実です。
その子がお二人を強く結び付くことを、最も望んいるのではないでしょうか。

過去の判断は誤りかも知れませんが、いまあなたは生きている。
愛しあい、心を寄せあえる人もいる。
彼と結婚に向けて真剣に話し合い、彼そしてあかみ様のご家族とも相談して、
仕事や生活の場をどうするか決めていけば良いと思いますよ。
お二人が一緒になる事を、お子さんも望んでいるはずです。
お子さんの残した(あなたの身に存在した)メッセージを無駄にしないで下さい!

{{count}}
有り難し
おきもち

おきもちが累計1600件を超えました


石川県金沢市内の城北地区鳴和町で浄土真宗本願寺派のお寺をお預かりしておりま...

真摯に「いのち」と向き合って

あかみ様

川口英俊でございます。問いへの拙生のお答えでございます。

流産・・誠につらく悲しいことでございました。

この世は縁によりて成り立っている縁起なる世界・・縁が調わなければ難しいことはいくらでもございます・・その子は僅か数日の命だったかもしれませんが、確かに二人の子どもとしてこの世に現れてくれたことは紛れもない事実です。それは何か大切なことを気づかせに来てくれたのだとお考え下さいませ。もちろんまだまだ難しいことかもしれませんが、拙生はやがてそのように思うことができ、有り難くに感謝致して、ご供養を申し上げて、乗り越えていくことができました。

その気づきはもちろんそれぞれで異なるでしょうが、真摯に「いのち」と向き合うことによって得るものは、それぞれ大きいのではないかと存じております。

この度のことで、二人の絆がよりいっそうに深まったのであれば、誠にその子のお陰様でもございます。是非、結婚、新生活、そして次の妊娠、出産へと向けて前向きに捉えて頂いて、しかるべくに善き縁を調えていかれましたらと存じております。

過ぎ去った過去のことをあれこれと詮索してその理由を見つけ出そうとしても所詮は詮無きことで、これだと明確に答えの出せるものでもなく、無数の縁の流れを追っても追っても結局、何かこれだという実体を確実に捉えられるものでもありません・・難しいことですが、仏教的にご説明致しますと、この「空」なる世界においては、実体として存在するものは何一つとして見当たらないからでございます。

とにかく、過去にいつまでも縛られずに、どうか前を向いて少しなりとも進んで頂けましたらと存じております。一経験者としてこの度はあかみ様に申させて頂きました。

また、宜しければ映画「うまれる」をお付き合いされている方と共にご覧になって頂けましたらと存じております。全国の自主上映会への参加となりますが、お近くでの開催の際に是非一度ご覧になってみて下さいませ。

http://www.umareru.jp/umareru/

拙回答が何かの気づきのきっかけとなりましたら幸いでございます。

川口英俊 合掌

{{count}}
有り難し
おきもち

おきもちが累計1600件を超えました


川口 英俊
チベット仏教 ツォンカパ大師中観思想・後期二諦説の研究

「生きる意味」問答一覧

生きることに価値はあるのか

はじめまして。突然の独白失礼致します。 私は、常に悩みの中に居ます。 自分には生きている意味や価値があるのか?と言う問いはよく耳にしますが、私は生きていることそれ自体に意味や価値があるのか、と言う問いをずっと胸に抱えております。 意味も価値も所詮は人間の決めた尺度であり、それは誰かから与えられるものでは無く、自らの生の意味や価値は自らが決めるしかない、と思う一方で 人間を全体として見れば、やはり人が生きることに何らの意味や価値も無い様に思えてしまうのです。 個人は、死と言う終着点があるからこそ、種を紡いだり、意志を遺したり、自らの存在を個として終わらせず、何かを遺そうとするのだと思います。 果たして人間全体を個として見た時、その終着点が何処にあるのか、それが分からない為、煩悶してしまうのです。 もしかすると、100年後には全てが無くなっているかもしれません。それは1000年先のことかもしれないし、明日のことかもしれません。 いずれにせよ、始まりのあるものには、終わりが来る訳ですから、全体その時我々人間が紡ごうとしていたものは、どうなってしまうのでしょうか。 何かを遺そうとしても、それを受ける人間が居なくなってしまうなら、果たしてその行為に意味はあるのでしょうか? 私は、価値の源泉は希求にあると考えます。 価値があると信ずるからこそ、そこに価値が生まれるのだと。 だからこそ、私は自らが信じられると思ったものを必死に追い続けて来ました。 しかし、上記した様な考えが頭をもたげると、どうしてもそれが揺らいでしまう瞬間があるのです。 これは、私の心が弱いからなのでしょうか? 私がいつか答えに出逢えるとするならば、それは私の都合の良い解釈なのか、或いは本当の答えが未だ見ぬ何処かにあるのか。 私には、もう何も分かりません。 信ずる道を行かれるお坊様に、どうしてもお聞きしたくて、此処に書かせて頂いた次第でございます。 末筆ではございますが、長く読み辛い文章になってしまったことをお詫び申し上げます。 また、最後までお読み頂いたことに感謝致します。

有り難し有り難し 5
回答数回答 1

「生きる意味」は意味があるのか

「生きる意味を探そう」などといった啓発がよくなされていますが、そうやって見つけた生きる目的には何の意味があるのでしょうか。 いずれ無くなるであろう地球(現世)で、どうやっても百余年で死んでしまう私たちが、「生きる意味」をもって行動したとしても大局的には意味のないことだと思ってしまいます。 小さい頃、自分は歴史に名を残す偉業を成し遂げたいと思っていました。しかし年を重ねるにつれ、そんな社会貢献ができたとして何になるのかを強く考えるようになりました。偉大な結果を残したとしても、自分が死んだらその後の世界を見ることはできない(自分の功績の影響は認知できない)し、世界が終われば無に帰します。「生きる意味」と思っていたものの意味がなくなるように感じてしまいます。 これは「そんな偉業は成し遂げられない」という諦観がそうさせている面もあるとは思いますが、「自分が起こした行動が現在、そして死後の未来に影響を与えたとして、だから何になるのか」を強く考えていることに変わりはないです。 こう考えることで、生きる意味も、それを探すことも無意味に思えてしまっています。 生きる上で苦痛が耐えないこともこの考えを助長しています。なぜ人は苦しみがある中でも生き、この社会で何かを残そうとし、命のバトンを繋いでいくのでしょうか。また、何かを残そうというモチベーションもなく日々を生きている人々は、どんな「生きる意味」をもって生きているのでしょうか。 私自身は、生きる上で生じる苦痛を上回る「生きる意味」を未だ見つけられていませんし、「生きる意味」を見つけるために努力することも億劫で、苦しいのでしたくなくなっています。こんな思いを抱きながら生きるより、すっと消えてしまえた方が楽なのではないか、という考えすら頭に浮かび、数か月離れないので、ここに思いの丈を書かせていただきました。 とりとめのない話になってしまいましたが、よければこのことに関する仏教に基づいたお話をお聞かせください。よろしくお願いいたします。

有り難し有り難し 65
回答数回答 4

地獄を繰り返すために生まれてきたのか?

この世界で生きる意味について聞きたいです。 私は親がいつも怒鳴りあう家で生まれました。父親は自分の思い通りにならなければ許せない人間で、いうことを聞かなければ暴力と金銭を振りかざします。それは自分に対しても同じなので黙って言うことを聞き、こんな男にはならないと誓いました。しかし、約束を守ってくれない母親や姉に私が普通の声で怒ると二人から父親のようだと軽蔑されました。彼女達もいつも大声で怒鳴りあうのに。その頃から「自我や感情を持ってはいけない」という思いが生まれ「親父のようになりたくないから、人の気持ちを優先するようにしよう」と決めました。 それからは家でも、学校でもピエロのように本気にならない人間を目指し、人から馬鹿にされても何を言われても「俺は怒らないし、正しく判断できる人間じゃない」と思って生きました。でも、高校の終わりごろから他人から求められる自分像を維持することが難しくなり、まともじゃない自分に自信を喪失してしまいました。 このままではいけないと思い、大学からカウンセリングに行きはじめ改めて原因が家族関係にあることに気づきました。そこで認知の歪みをなくせば「まともな人間」になれると思い、自分の認識や考えに疑いを持つようになりました。その中で、経済や歴史・宗教などを知り、「まともな人間」は作られたものだとそこでやっと気づけました。 ですが同時に、人は生まれてきた時点で他人や他の動物のポジションを奪う生物で、欲や自我をなくせないこと・自分は親より弱かっただけということを思い知りました。この世界では、もし大切な人が出来ても、自我がある以上相手を思いやるようで自分のことしか考えることはできません。自分が自分でいると、誰にでも平等にはできず昔の自分のように奪われる人を作りだします。 言いたいことを言い他人を別の生き物のように扱うサル山の大将のような人間が持て囃されます。俗にいういい人は基本的に特定の人達に優しい人です。それがこの世です。 ずっと苦悩し、皆幸せになる方法はないのか考え続け堪えてきましたが、知識や知恵がつく度それが不可能であることに失望するばかりです。もう疲れました。 きっと社会で生きていくには、世界を受け入れサル山の大将のように好きに生きるしかないんだと思います。だとすればこの世は地獄でしょうか?されたことを繰り返すしかないんでしょうか?

有り難し有り難し 20
回答数回答 2

生きる意味を見いだせません

鬱病を発症し編入した大学を中退、現在は唯一持っていた保育士の資格を生かし上京してひとり暮らしをしています。 この時期になると所謂五月病といいますか、季節型うつ病と言いますかで体調を崩しやすくなっています。 元々歓迎されていなくきつく当られている人権侵害もある職場に迷惑をかけてしまい、申し訳無さでいっぱい、また陰口が怖いと思っています。 駄文を書きましたが以下が相談です。 先程、祖父が危篤状態であると連絡が入りました。 数ヶ月前に妻をなくし、流行病下でも頑張って1人で生きていた祖父です。 「健康でいられるうちが花」と語っていた祖父は、私の精神病を理解してくれない人でした。 しかし、こうして祖父を目の前にすると、私が生きていて良いのか、みんなのために祖父の方が余っ程生きていた方が良いのにと思ってしまいます。 僅かな時を思い、そばにいられる事は幸福であり、今を一生懸命生きて欲しいし、まだ先に亡くなった祖母に連れて行って欲しくはない。 でももし亡くなったとしても天寿を全うできたなら祖父は、幸せであった、後は仏様がきっとお導きくださるとは頭では分かっています。 しかし、中退で余分に親に迷惑をかけ、鬱病で心配をさせ、脛を今でも齧っている私が想っても良い感情なのか、分かりません。 職場でもろくに貢献できず、生きる価値もないと言われ、また自分でも思っています。 そこで、「生きる」とはなんなのでしょうか。 素敵な親から「生」を受け取った私が死にたいといい、こんなにも生きてと願われてる祖父が「生きている」かの縁にたっています。 私には「生きる」の価値が分からなくなってしまいました。 こんな自分が情けなくも思います。 乱文失礼しましたがよろしくお願い致します。

有り難し有り難し 4
回答数回答 1

関連する問答

温かい気持ちになるお坊さん説法まとめ

相談カテゴリ
-四苦八苦 SickHack!▼ 全カテゴリを見る