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仏教の目指す解脱とは何か

回答数回答 3
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この世は迷い苦しみの世界であり、私たちはこの世界を生まれ変わり死に変わり、終わること無く繰り返しています。

仏教の目標は、この六道からの解脱だと伺っております。

しかし苦しみから開放された不変の世界があるとする事は諸行無常や空説に反していないでしょうか。

仏陀は「愛は苦しみの原因」と仰られました。
他にも、様々な欲求は苦しみの原因だと仰りました。

仏陀の仰る通りだと思います。
人は手に入らなければ悩み、手に入るともっと欲しくなりまた悩みます。
そして手に入れた物はいつか失います。
失うと悲しみます。

しかし何も求めず、何も持たないのが苦しみからの開放に繋がると言うのは
極端なニヒリズムに感じます。

仏陀の目指した解脱とは何だったのでしょうか。

2021年6月5日 5:59

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お坊さんからの回答 3件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

仏教を成分表で見ていますか、味わっていますか

こんにちは。

仏教とご縁があったのですね。
大変喜ばしいことです。

学んでいる人だからこその問だと思います。

ただ、このような議論の際に根本的に問題になるのは、自分がどのようなスタンスでいるのかという問題です。仏教徒としてか、それとも無宗教、教養を学ぶという立場であるか、では問題の向き合い方に大きな違いがでます。

また、仏教は思想にのみにとどまらず行という実践が伴ってこそ、仏教を学ぶということになります。簡単に言えば、お味噌汁を成分表で論じるか、飲んで美味しいという観点で論じるか、では現実性が全く違います。

また、あなたの問に「ニヒリズム」の文言があります。
これは、後の近代西洋哲学等において議論になっていることで、物事の意義や目的といったものは存在しない、自分自身の存在を含めて全てが無価値だとする考え方や態度のこと、を指すようです。これは、仏教の教えを哲学という一視点で捉えようという問いになっていますね。答えられなくもないですが、そもそもの思想体系が違うという点を意識して問うていますか。

以上の前提で回答します。
「何も求めず、何も持たないのが苦しみからの開放に繋がると言うのは極端なニヒリズムに感じます」とあります。あなたは、釈尊の教説を聞いて「何も求めず、何も持たないのが苦しみからの開放」だと思ったのなら、釈尊が出家という手段をとったことが順当な筋道だとは思いませんか。

我執、我所執という、自らが自らに執着し、自らが所有するものに執着するのが人間です。その執着する対象を、できるだけ少なくするために「何も持たない」ように環境を整えるために出家する。とても理にかなったことです。

お金があればお金の増減、いやもっと求める方向に人間の心は動きがちです。そこでできるだけ「何も求め」ないように出家する。これも理にかなったことです。

それだけ、釈尊は苦しみの元になることを厳しく見つめられたのです。

あなたは、その苦しみのもとになる様々な生活上の物柄に対して、どれだけ苦しみ悲しみを生み出すものだという実感がありますか。故に私は尋ねたのです。あなたは、仏教を成分表で見ていますか、味わっていますかと。

味わっているなら、釈尊の教説が益々よく分かるはずで、「極端なニヒリズム」という切り口は生じないと思います。
問い自体をまず一度整理してみて下さい(字数制限)

2021年6月5日 8:03
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おきもち


釋 悠水(しゃくゆうすい)
浄土真宗本願寺派報恩寺住職(兵庫県三木市) 本願寺派布教使 元本願寺布...

満たされきった様子がある

苦しみからの解脱。それはどこか遠くにあることではなく、めざすものでもありません。
ご自身の生活そのものの中に解脱があります。

以前、悟りの老師から「煩悩の数だけ悟りがあります」と聞きました。

生まれ変わるのは今この世に生きている、ここで生まれ変わるのです。お釈迦様が気づかれた、人としての根本に気づくのです。

人間には欲望があります。欲しいもの、したいこと。これがなくなったら生きていけません。こうしたものが自然の働きとして起こる。それを否定せず受け入れる。しかし、そちらの想いに振り回されたら餓鬼道に落ちてしまう。

心は禅定でゆったりとしつつ、六根の働きに目を向けてまずは観察してみることから始まります。人間の作りが理解できたら、観察することもやめて、ありのままにいるのです。
私は禅宗の坊さんなので、お釈迦様のように坐禅をお勧めしますが、徹底的に自分から何かしない事で見えてくるものがあるのです。

2021年6月5日 6:28
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禅宗 曹洞宗 僧侶。神奈川県西部円通寺副住職。 悩みを吐き出す事で、ちょ...

愛=欲求=渇愛がなくなれば悟り=解脱なのですが

その状態が、私たち悟っていない人々に想像つくでしょうか。解脱が何か分からない間は、ニヒリズムではないかとか分からないとか悩むことになると思います。こういう分からないという感じも、悟っていないからこそで……つまり、悟ったら、悟りとは何か分かり、悟らない間は、どうしても分からないので、○○のようなものではないだろうかなどと想像するしかないのです。
 渇愛とは、何か足りない、何か満たされないという衝動です。何かを持っていても他の何かと比べて、まだもっと、と思ってしまう。持っていなければなおさらです。そう考えてはいけないんだ、満足しなければいけないんだなどという思考の問題ではなく、瞬間的に感じてしまう衝動なので、これをなくすのは至難の業です。
 なくしたら、死ぬときも満足しているので生まれ変わりません。まだもっとという気持ちがあると、それが力になって何かに生まれ変わります。死ぬときに「ああ、息が止まる」と観察するだけならよいのですが、「苦しい。息が吸いたい」と飢渇するだけで、生まれ変わります。

 悟り=解脱について日本語で曲がりなりにも語れているのは、スマナサーラ長老だけだと思います。(むしろ、どうせ悟らないうちは分かりようがないことだし、解脱のイメージを作ってしまうと、修行するときにその観念=妄想が邪魔になるので語らないようにはしておられるようです。)スマナサーラ長老のご本をあれこれ探して読んでみるとかyoutubeで説法を聞いてみるとかすると良いのではないかと思います。

2021年6月5日 9:05
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初期仏教というか仏教本来の教えを学びつつ、その在家信者のあり方から見た日本...

質問者からのお礼

皆様、お忙しい中ご回答頂き誠にありがとうございます。
大変励みになります。

私が仏教徒か無宗教かによって変わる、とのコメントを頂きました。
私は仏教徒になりきれない仏教徒、と言った所でしょうか
実践の伴わない、頭でっかちの仏教ファンと言い換えてもいいかも知れません。

これからもご縁がありましたらご回答頂けると幸いです。

「仏教全般」問答一覧

仏教とは?

こんにちは。私はとある信仰宗教の元信者です。その宗教ではその宗教のお経を毎日よんで、法名といわれるものをおさめ、つどいと称される会合に参加し、弥勒山という山に登ります。勧誘してきた人は私の20年来の付き合いのある方で、その信仰宗教をとても心から信じていました。しかし、私はこの信仰宗教に違和感を感じていました。職場の方に話してもら辞めた方が良いという回答でした。また、旦那が私には居ましたがその宗教を毛嫌いされ、彼の親族にも激怒され縁をきられてしまいました。私は今実家で幸せに暮らしています。仕事も頑張って居ます。勧誘された方は癌で若くして亡くなりました。彼女は最後までその宗教を信じていましたが、私も彼女もそのお経を毎日読みましたが、私は離婚し、彼女は命を失いました。これのなにが幸せなんでしょうか。私には弟が居ます。まだ若くこれからどうなるか分からないですがきっと結婚するだろうと思います。義理の妹は果たして私の事を理解してくれるかと不安になり、檀家になってるお寺のお坊さんに相談しました。その方は瞑想会をしていて、瞑想すると涅槃の境地に近づけるとの事で、私は毎日するようになり、瞑想会にも参加するようになり、元の信仰宗教は辞めたい。と彼女の旦那さんや支部長に言って辞めさせていただきました。しかし、彼女には本当にお世話になったし、お経を読まないと瞑想出来ない脳になってしまったので、辞めてもお経は読んでいるし、彼女のお墓にお墓参りに行こうと思っています。信仰宗教で出会った方々とはまだLINEで繋がっています。このままいくとまた、戻ってしまうかどうか心配です。私は幸せになりたいからやってるんではありません。ただ、お墓参りして、お経読んで、瞑想して、線香あげて。私は仏教なんて全然知りません。お経の意味も分かりません。でも、これから勉強したいと思います。信仰宗教であげてるのは簡易なもので独自の解釈がされていて本質ではないと思います。瞑想の檀家のお寺のお坊さんも良い方ですが、わたしが涅槃までいけるかどうかは分かりません。こんな私は社会から見ておかしな人間なのでしょうか?仏教ってなんなんでしょうか?お経読む事でしょうか?墓参りする事でしょうか?瞑想する事でしょうか?私は宗教を理由に仕事休んだ事はありません。信仰宗教勧誘は一度しかやった事がなく、家族からも止められてるので今はやってないです。

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最後の言葉「ありがとう、また会おう」

長文で失礼致します。 急ぎの相談ではありませんので、お時間のある際にお話いただければ幸いです。 もう1点、伺いたいことがあるのですが、お坊さま方もお忙しいと思い、別の機会にさせていただきます。 父親のいなかった私たちを、親代わりになって育ててくれた祖父が先日他界しました。 母や叔父と叔母にとっては、優しくも厳しい一面もある父親だったそうですが、孫全員には優しく頼もしく接してくれて、「いい思い出」しか残っていません。 ここ数年は持病が悪化し、コロナ禍ということもあり、楽しみにしていた大勢で食事を楽しむ機会を設けれなかったことだけは心残りです。 入院先の配慮で、最後にお話をする機会があり、駆けつけた祖母・母と叔父・叔母、孫全員と話をすることができたのが幸いです。 「遅くまでいると迷惑がかかる」と祖父に促され、亡くなる前日の別れの際にかけられた言葉が印象的でした。 「じーちゃんが死んだ後、コロナが収まったらな、ばーちゃんに会いに行ってやってくれ」 最後まで祖母を思う優しさ、そして。 「ありがとう……また、会おう」 この言葉は、もしかすると生きて会えるのは最後とわかっていて、「来世」でまた会おうという意味だと私は受け取りました。 葬儀をお願いした元々ご縁のあるお寺のご住職も、「今の別れは、ゆくゆくは浄土で再会するまでの一時的なもの」とお説法をされていたので、受け取り方は違ってなかったのかなと思うのですが、いかがでしょうか?

有り難し有り難し 14
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初めて知った事に対して、怖いです

三尸(さんし)とは、道教に由来するとされる人間の体内にいると考えられていた虫。三虫(さんちゅう)三彭(さんほう)伏尸(ふくし)尸虫(しちゅう)尸鬼(しき)尸彭(しほう)ともいう。 60日に一度めぐってくる庚申(こうしん)の日に眠ると、この三尸が人間の体から抜け出し天帝にその宿主の罪悪を告げ、その人間の寿命を縮めると言い伝えられ、そこから、庚申の夜は眠らずに過ごすという風習が行われた。一人では夜あかしをして過ごすことは難しいことから、庚申待(こうしんまち)の行事がおこなわれる。 日本では平安時代に貴族の間で始まり[1]、民間では江戸時代に入ってから地域で庚申講(こうしんこう)とよばれる集まりをつくり、会場を決めて集団で庚申待をする風習がひろまった。 道教では人間に欲望を起こさせたり寿命を縮めさせるところから、仙人となる上で体内から排除すべき存在としてこれを挙げている ウィキペディアからコピーさせていただきました。 こちらの文章を読んだ上でご質問させていただきます。 質問ですが・・、本当に3匹の虫が体の中に入っているのでしょうか? とある小説でこのような事を知りました。 正直、今までこんな事知らなかったので、怖いです。 60日に一度めぐってくる庚申(こうしん)の日に眠ると、この三尸が人間の体から抜け出し天帝にその宿主の罪悪を告げ、その人間の寿命を縮めると言い伝えられと wikiに書かれていますが・・・、 寝ないで1日越した方がよいでしょうか?あまりいい気分がしないので教えていただけると嬉しいです・・。 お坊さんの方々もこの日は何か特別な事はやってらっしゃるのでしょうか?

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