仏教の目指す解脱とは何か
この世は迷い苦しみの世界であり、私たちはこの世界を生まれ変わり死に変わり、終わること無く繰り返しています。
仏教の目標は、この六道からの解脱だと伺っております。
しかし苦しみから開放された不変の世界があるとする事は諸行無常や空説に反していないでしょうか。
仏陀は「愛は苦しみの原因」と仰られました。
他にも、様々な欲求は苦しみの原因だと仰りました。
仏陀の仰る通りだと思います。
人は手に入らなければ悩み、手に入るともっと欲しくなりまた悩みます。
そして手に入れた物はいつか失います。
失うと悲しみます。
しかし何も求めず、何も持たないのが苦しみからの開放に繋がると言うのは
極端なニヒリズムに感じます。
仏陀の目指した解脱とは何だったのでしょうか。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
仏教を成分表で見ていますか、味わっていますか
こんにちは。
仏教とご縁があったのですね。
大変喜ばしいことです。
学んでいる人だからこその問だと思います。
ただ、このような議論の際に根本的に問題になるのは、自分がどのようなスタンスでいるのかという問題です。仏教徒としてか、それとも無宗教、教養を学ぶという立場であるか、では問題の向き合い方に大きな違いがでます。
また、仏教は思想にのみにとどまらず行という実践が伴ってこそ、仏教を学ぶということになります。簡単に言えば、お味噌汁を成分表で論じるか、飲んで美味しいという観点で論じるか、では現実性が全く違います。
また、あなたの問に「ニヒリズム」の文言があります。
これは、後の近代西洋哲学等において議論になっていることで、物事の意義や目的といったものは存在しない、自分自身の存在を含めて全てが無価値だとする考え方や態度のこと、を指すようです。これは、仏教の教えを哲学という一視点で捉えようという問いになっていますね。答えられなくもないですが、そもそもの思想体系が違うという点を意識して問うていますか。
以上の前提で回答します。
「何も求めず、何も持たないのが苦しみからの開放に繋がると言うのは極端なニヒリズムに感じます」とあります。あなたは、釈尊の教説を聞いて「何も求めず、何も持たないのが苦しみからの開放」だと思ったのなら、釈尊が出家という手段をとったことが順当な筋道だとは思いませんか。
我執、我所執という、自らが自らに執着し、自らが所有するものに執着するのが人間です。その執着する対象を、できるだけ少なくするために「何も持たない」ように環境を整えるために出家する。とても理にかなったことです。
お金があればお金の増減、いやもっと求める方向に人間の心は動きがちです。そこでできるだけ「何も求め」ないように出家する。これも理にかなったことです。
それだけ、釈尊は苦しみの元になることを厳しく見つめられたのです。
あなたは、その苦しみのもとになる様々な生活上の物柄に対して、どれだけ苦しみ悲しみを生み出すものだという実感がありますか。故に私は尋ねたのです。あなたは、仏教を成分表で見ていますか、味わっていますかと。
味わっているなら、釈尊の教説が益々よく分かるはずで、「極端なニヒリズム」という切り口は生じないと思います。
問い自体をまず一度整理してみて下さい(字数制限)
満たされきった様子がある
苦しみからの解脱。それはどこか遠くにあることではなく、めざすものでもありません。
ご自身の生活そのものの中に解脱があります。
以前、悟りの老師から「煩悩の数だけ悟りがあります」と聞きました。
生まれ変わるのは今この世に生きている、ここで生まれ変わるのです。お釈迦様が気づかれた、人としての根本に気づくのです。
人間には欲望があります。欲しいもの、したいこと。これがなくなったら生きていけません。こうしたものが自然の働きとして起こる。それを否定せず受け入れる。しかし、そちらの想いに振り回されたら餓鬼道に落ちてしまう。
心は禅定でゆったりとしつつ、六根の働きに目を向けてまずは観察してみることから始まります。人間の作りが理解できたら、観察することもやめて、ありのままにいるのです。
私は禅宗の坊さんなので、お釈迦様のように坐禅をお勧めしますが、徹底的に自分から何かしない事で見えてくるものがあるのです。
愛=欲求=渇愛がなくなれば悟り=解脱なのですが
その状態が、私たち悟っていない人々に想像つくでしょうか。解脱が何か分からない間は、ニヒリズムではないかとか分からないとか悩むことになると思います。こういう分からないという感じも、悟っていないからこそで……つまり、悟ったら、悟りとは何か分かり、悟らない間は、どうしても分からないので、○○のようなものではないだろうかなどと想像するしかないのです。
渇愛とは、何か足りない、何か満たされないという衝動です。何かを持っていても他の何かと比べて、まだもっと、と思ってしまう。持っていなければなおさらです。そう考えてはいけないんだ、満足しなければいけないんだなどという思考の問題ではなく、瞬間的に感じてしまう衝動なので、これをなくすのは至難の業です。
なくしたら、死ぬときも満足しているので生まれ変わりません。まだもっとという気持ちがあると、それが力になって何かに生まれ変わります。死ぬときに「ああ、息が止まる」と観察するだけならよいのですが、「苦しい。息が吸いたい」と飢渇するだけで、生まれ変わります。
悟り=解脱について日本語で曲がりなりにも語れているのは、スマナサーラ長老だけだと思います。(むしろ、どうせ悟らないうちは分かりようがないことだし、解脱のイメージを作ってしまうと、修行するときにその観念=妄想が邪魔になるので語らないようにはしておられるようです。)スマナサーラ長老のご本をあれこれ探して読んでみるとかyoutubeで説法を聞いてみるとかすると良いのではないかと思います。
質問者からのお礼
皆様、お忙しい中ご回答頂き誠にありがとうございます。
大変励みになります。
私が仏教徒か無宗教かによって変わる、とのコメントを頂きました。
私は仏教徒になりきれない仏教徒、と言った所でしょうか
実践の伴わない、頭でっかちの仏教ファンと言い換えてもいいかも知れません。
これからもご縁がありましたらご回答頂けると幸いです。