餓鬼を見ているようで
東京はお盆を迎えます。親族についてご相談させてください。詳細には書けませんが、かなり困った人です。
過去には、父母の相続について「やり方がわからない」等と言って放置し、弟と分けもせず、父母名義で送付される株式の配当金や優待券等を自分のものにしていました。次の相続が発生し、私とのやり取りとなりましたが、金融機関に「自分が全て相続することになった」と嘘を伝えて書類を作成した上、私には全く違う説明をしたり、必要な書類は送ってこないなど非協力的でした。
葬儀前から家で金目のものを探すなどする割に、入院費や葬儀費用はこちらに督促の連絡がきていました。法事に関しても、自分が施主となるものは行いませんし、参加もしません。今回も、相続に関する費用の支払いは後回しにされています。法事、各種支払いについては、仕事等を理由にしていますが、休みを取って遊んでいます。
逆に不思議なことに、本来受け取るべきものを受け取れる時には、些細なことで文句をつけたり、面倒がったりします。
金銭欲と自己保身のために、分けるべきものを分けなかったり、嘘をついたりといった状況を重ねてきたということだと思います。さらに、億を超える財産を受け取ったのに、もらえるもの、支払うものが気になるようで、既に終わっているものを調べたりしています。
周囲からは、そこまで面倒を見る必要はないと言われますし、私もそろそろ
精神的に限界です。
お盆にあたり、餓鬼事経などを読んでいると、この人について考えさせられます。お経では餓鬼が供養を求め、お釈迦様が供養の方法を弟子に教え、尊者や徳のある人々がそれに応え、功徳を廻向し、餓鬼が救われます。
仏教における施餓鬼供養や、現実でも不幸な境遇の人に寄付等で手を差し伸べることはまだ楽にできますが、このような人が身近にいる時にはどうしたらいいのでしょうか?
仏教の中で教えがあれば、また、お坊さまの意見があれば教えてください。
遠回りしすぎかもしれません。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
人の振り見て我が振り直せでしょうかね…
拝読させて頂きました。
俗世にはそのような方々はいるものです。自分の我欲である権利ばかり主張して善きことややるべきことを一切なさらない人は世の中にはいるのです。
本当に心の貧しい方なのかと思います。その方たちのそのような所業についてはわからないですけれどもおそらくいつの日かそのような貪りにまみれて本当に大切なものごとやつながりを自らの思いや言葉や行いで失ってきたことを深く後悔なさる時が来ると思いますし、そのことで自ら苦しまれる時が来るのではないでしょうか。
人間誰しも自らの死の間際にはそのような所業に向き合わなければならないでしょう、もらったもの・だましとったもの・奪いとったもの全てをこの世に置いていかなければならないでしょうからね。
そのような時こそ仏様がその方の前に現れて様々おさとしなさって下さいますでしょうしお救いなさって下さり、お導きなさって下さるでしょう。
それでも自分の所業を顧みないならば、反省も後悔も懺悔もなさらないならばその方は己れの所業により永遠に流転し続けることになるでしょう。手放さなければならないものにずっと執着なさり我欲から離れなければ本当の安心や円満なる成仏には決して至ることはありませんでしょうからね。
「人の振り見て我が振り直せ」でしょうかね…。
あなたはいかがでしょうか?ゆっくりとお考えなさってみてはいかがでしょう。仏様のみ教えに従うならばどうお考えなさりどう行いどう生きることが善いでしょうか?
昔も今も餓鬼とは人間の内なる餓鬼心のこと
人間には誰にでも自分を「かわいがる心」がある。
この自分かわいがりの心が人の上でさまざまに変化する。
また、それは人によってレベル・程度・表れ方が異なります。
ナルシストも自己中心的な人間性もわがままも餓鬼心。
あるいは猟奇的で残虐非道なサイコパス的精神も自己愛性の執着気質もみなこれを餓鬼心という。
私たちはそれ以外の餓鬼を見たことがありません。そうでしょう。
戦争、犯罪、非道、餓鬼界・畜生界と言われる人間とは言えないような鬼の所業。
まさに餓えたる鬼はこの世の生きた人の心の中にこそあり。
故に餓鬼に供養するとはどこぞの絵空事の世界の餓鬼、畜生、跳梁跋扈する魑魅魍魎に供養をすることばかりではない。それは象徴行為として行うものでもありますが、本当はこの世のすべての生命が有する自己の自身のかわいがりの心。割愛。欲得。我執。
自己と他存在、他の作用との関係性によって成り立っている今の自己の真実を見極めることのできない無明、妄執、我執を餓鬼心とこそいうべきものではないでしょうか。そして、そこに向き合う精神があってこそ初めて本当に餓鬼、餓鬼心に供養することができるのです。その深層心理、自己の内なる餓鬼心に向き合える人間こそが世や衆生の助けの働きとなる菩薩、導師の働きとなるのです。どうして人はそれらを他人事として遠くの救いを求めてしまうものでしょう。
家から出た小さな火の不始末が大火事になる前に火を起こさぬようにするのが各家庭のつとめであるように、人間も内なる心、家庭から出た人間の我欲の炎を収め得ることなくして真のやすらぎはありません。
たとえばあの人の火を鎮めたいと思うのであれば、方法は何通りかあります。
ひとつ。わが内なる炎を鎮める。
あの人が、こうだ、こうでこまる。その炎はどこに生ずるかと言えばわが内なる脳裏。いくら他人を嫌悪してもその嫌悪の炎はわが身に生ずる。では、放置すればよいかと言えば、独裁者も放っておけば世界を苦しめる暴君となる。故に人間世界のすべての主義思想をもこの上ない心に導かんとする「善導の精神」こそが菩提心なのであり、衆生済度の精神なのです。その精神は他人事ではなくそれぞれわが人生。わがこととして発心すべきものです。故にお盆はその誓願供養塔としての塔婆を建てる。決して形式ではないのです。一族で菩提心、道心をおこして自他共に救いの道を求めるとよいでしょう。
触らぬ餓鬼に祟りなし
の姿勢で行くのが良いのではないでしょうか。
餓鬼には大きく分けて四種類あるようです。詳しい分類は忘れましたが、『餓鬼事経』のどこか、あるいは『餓鬼事』に関する論文のどこかに書きました。CiNiiという日本人の論文を集めたネットの中の「藤本晃」で探せると思います。
人間に供養を求めてすがってくるのは、四種類の一部だけです。
人間や他の生命に関心なく、自分だけでグルグル同じ悩みを苦しんでいる、その苦しみが栄養?活力?になっている餓鬼もいます。
やたら怒っていて、人間や他の生命が自分のテリトリーに入ったり近づくのが嫌な餓鬼もいます。(心霊スポットで怖い思いをするのはそういう餓鬼が必死に遠ざけようとしているからでしょう。)
結局、餓鬼も人間も、心の暗さ、セコさはあまり変わりません。自分の非を知って素直に助けを求めるなら何とかなりますが、自分の都合だけで生きるなら、振り回されずに離れているしかありません。相手の心が良い方に変わるなら助ける意義もありますが、そういう気がないなら、give and takeでドライにやるしかないと思います。親の資産などが欲しいなら、その人が親の面倒を見るべき、と突っぱねるしかないと思います。
質問者からのお礼
回答してくださいました僧侶のみなさま、ありがとうございます。
色々と考えていくうちに、自分の考えがまとまらずお礼が遅くなりました。
無事、新盆、一周忌法要を済ませることができました。
みなさま方のご回答を読み、その親族(義兄)との関わり方と私自身の問題と二つのことを考えてみました。
まず、その義兄との関係です。義父母の子供への、亡き配偶者の父母・兄への想いに応えたいと思い、義兄には亡き配偶者や私をないがしろにして得た財産を得るなどして欲しくないという想いから、各種相続手続に奔走し、前回ご質問した義父母のご供養もできたのだと思います。
ただ、その親族から見れば、父母が亡くなったのは10年近く前、弟とも元々疎遠、私に至っては他人ですからね…。振り回されない距離を保つのがよさそうです。
さて、私自身の問題としては、義兄への期待と対応へのネガティブな心の反応を消し、やるべきことに集中したいと思います。
丹下覚元さま
>わがこととして発心すべきもの
お世話になっている宗派では塔婆は立てないのですが、納骨予定の霊園に萬霊供養塔があり、花や線香を供えてお参りしています。宗派では開祖さま等へのお花やお香が多く供えられているのですが、自分がお花等を供えるべきはこちらだろうと思いました。自分の煩悩とも向き合う場所にできるかな。。。
Kousyo Kuuyo Azumaさま
>「人の振り見て我が振り直せ」でしょうかね…。
やることを先延ばして時間がたち、関わる人との縁も薄くなるごとに、都合の悪い約束は忘れ自覚もなくなる。 このお礼もそうですが、 私もそういう対応を取っていることを忘れないようにしたいと思います。
藤本晃(慈照)さま
先生の論文をいくつか拝読いたしました。また、お寺のサイトにあった「住職の論文コーナー」も参考にさせていただいています。餓鬼事経等の全訳を出版されている先生に直接返信いただいて恐縮です。パーリ経典までなかなか進みませんが、先生の著作、他の論文も拝読させていただきます。
>人間に供養を求めてすがってくるのは、四種類の一部だけです。
>give and takeでドライにやるしかないと思います。
供養を求めてすがってくるのは一部だけという言葉に納得しました。供養し、また供養される者であるという自覚がない故に餓鬼は餓鬼であると理解しました。
今後はドライにやっていきたいと思います。
みなさまありがとうございました。