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両親が嫌い

回答数回答 2
有り難し有り難し 12

私は今高校二年生です。
私は両親が大嫌いです。
だから母親には怒鳴ってしまったり、暴言などもよくいってしまいます。
父親にも家から出ていけといったことがあります。
やってしまったことはとても悪いことだと思います。
でも、相手に勘違いされたくないし、嫌いなので、どうしても謝りたいと思えません。
反省はしています。


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お坊さんからの回答 2件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

親と言っても完璧じゃない

自分のこと理解してもらいたい。認めてもらいたい。そうした気持ちがあるのですよね。
否定されたらイライラする。そりゃそうです。

でもこのイライラの元を探ると全て人から与えられたようでいて自分自身の中で起きています。
親であっても変えることはできない。だからこそ自分自身が大人になる必要があるのです。自分の思いを丁寧に伝えること、そして、仮に共感してもらえなくてもあなたの考えや思いを理解してもらうことです。

話さなければ気持ちは伝わりません。勘違いも起きやすいので感情は置いといて、丁寧に話す必要があります。

嫌いだと感じていらっしゃる。その気持ちも変化するようなものです。その根っこはご自身ですので、あなた次第で変わってしまうようなことなのです。あなたがご両親を認めてあげることができたらその時は気持ちも変わるでしょう。

無理に変わろうとしても無理ですが、親はこういう気持ちでこんなことしているのだと認めてあげる。あなたが大人になってきたからこそ、色々見えてきてしまっているのでしょう。

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個別相談可能
禅宗 曹洞宗 僧侶。神奈川県西部円通寺住職。小学校教師。 悩みを吐き出す事で、ちょっと楽になれます。悩みの根本に気づき、明るく爽やかに生きていきたいですよね。 私自身、禅との出会いにより救われた一人です。皆様に少しでもお伝え出来たらと思います。 人は自分の都合を立てて物事に向き合うところがあります。私の回答も期待していたものと違うことがあるかもしれません。その時に素直に聞けるか、回答の内容を否定的に聞くかで救われるかどうかが変わります。疑問は出てくると思います。その時はご相談ください。
ご相談時間は不定期なので、いくつかご都合を教えてください。 ◆小学校教員もしています。子供、家族、ご自身のことお話をお聞きします。 ◆禅のおかげで私も救われました。禅の教えを基に「思い通りにしたい」という自分の都合や価値観から生まれた思い込みをほぐしていくお手伝いをします。 ◆仏教は人生を豊かにしてくれることを感じてくだされば嬉しく思います。

上手に自分を表現する

たとえば書道で自分が書きたい字が書けるようになったらイチニンマエです。
たとえば楽器で自分が弾きたいフレーズを上手に弾ければイチニンマエです。
たとえば料理で自分が作りたい風味を上手に調合できればイチニンマエです。

あなたはあなたの身心があなたです。
あなたはあなたがしゃべるスキル、言うスキル、伝えるスキル、書くスキルを持っている。
そして、そのスキルは努力次第でいくらでも高めることもできる。
口数多く言うこともできる。
やさしく言うこともできる。
手短に言うこともできる。
分かりやすく言うこともできる。
共感を持っていただくように伝えることもできる。
自分の表現したいことをちゃんと表現したいように表現する。
上手に言えなくてもいいので、上に書いてでも親に分かってもらいたいことをきちんと誤解のないように話す。それはちゃんとできるはずです。
親御さんが一方的であなたの話を聞いてくれないのであれば、そこをちゃんと私の話もきちんと受け止めてほしいと伝える。
違う捉え方をされてしまっているのであれば、そうではないことをキチンを伝える。
むずかしいことではありません。
むずかしくせずにいうことを言うだけ。
受け止めるべきこと受け止めるだけ。
正すべきことを正すだけ。
みんなが不平等なく納得するように向かわせるだけ。

それをするべきなのに「そうではないこと」をしようとしているから家族はお話がヘンテコな方向に向かってしまうというだけのことです。

話をややこしくしたり、むずかしくしたり、会話にならないような方向にもっていかないようにするだけでよいのです。

解決に向けて疑問があれがいつでもご連絡ください。

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おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

質問者からのお礼

ありがとうございます。
参考になりました。

丹下様ありがとうございます。

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