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「心を込めた行動」とは?

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最近、知人と議論しているのですが、結論が出ませんのでご意見お願いします。
毎朝のお勤めとして、「仏壇にご飯・お茶・お経をあげています。
それは母の代わりであり、ご先祖様への感謝とかの心を込めての行動ではなく、義務的なことです。
知人いわく、
「心が入っていない義務的な行動ならば、悪縁を結ぶことになり、やらない方が良い」と言います。

何かの法話で、
「多くの寄付もしているし、これだけ信心深い私には、どれだけのご利益があるのか?」と質問した人に対して、お坊さんは「無い」と応えた。

と聞いたことがあります。

私としては、その法話も納得だし、義務的なお勤めに何かのご利益とか功徳とかを期待もしていないし、望んでもいません。
ただ単に、「母がやりたいけど出来ずにいるストレス」を軽減するためだけです。「今日もちゃんと仏壇にお供えしたよ」って言うためだけの行動です。

しかし、利益・功徳などのプラス効果は期待していませんが、「悪縁を結ぶ」「罰が当たる」などのマイナス効果になるとまで言われると、気になります。

理想的なのは、「心を込めた行動」でしょうが、「行動しない」よりは、「心が入っていない行動」が良いと思うのは、間違いなのでしょうか?


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お坊さんからの回答 4件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

仏道修行の真似事であっても、それが成仏のための因縁となります

曹洞宗の吉田俊英と申します。


何かの法話で、
「多くの寄付もしているし、これだけ信心深い私には、どれだけのご利益があるのか?」と質問した人に対して、お坊さんは「無い」と応えた。

これは中国北宋の時代に書かれた『景德傳燈錄』という高僧伝にある逸話です。

武帝 「私は今までに多くの寺院を建立し、たくさんの人を救い、写経もし、
    仏像も数多く作らせました。どんな功徳があるでしょうか」
達磨大師 「無功徳(功徳なんてありませんよ)」と言う問答が、出典です。

「すっぴん」様のお考えで宜しいと思います。間違ってはいないと思います。たとえ仏道修行の真似事であっても、その真似事が成仏のための尊い因縁となる、という考え方も有ります。

道元禅師が『正法眼蔵』「出家功徳」巻で引用した『大智度論』に見える「蓮華色比丘尼」の事例がまさしくこれにあたると思います。

「この「蓮華色比丘尼」という人だが、元々は遊女(今風に言えば、コスプレ・物まねをして笑いを取る芸人)であった。そして、戯れに僧侶の袈裟を着けたという。然るに、この一事によって、この遊女に大きな功徳が発現し、その後、紆余曲折があったけれども、生まれ変わりする間に徐々に仏縁を深め、結局、釈迦牟尼仏の下では大阿羅漢になったという。」
ブログ『つらつら日暮し』 (曹洞宗の宗学研究者が執筆)
http://blog.goo.ne.jp/tenjin95/e/bd322cf930ad5eead68bb2170103738b

義務的なものであっても、仏壇にご飯やお茶を供え、お経を唱えると言う行為自体が、尊い行です。「真似る」ことが「学び」へと発展し、「形を整えること」が「心を整えること」に繋がります。

曹洞宗の布教師として活躍された方で藤本幸邦老師という方が居られました。藤本老師は生前下記のような詩を法話の中でお話しされました。

はきものを そろえると 心もそろう 心がそろうと はきものもそろう
ぬぐときに そろえておくと はくときに 心がみだれない
だれかが みだしておいたら だまって そろえておいてあげよう
そうすればきっと 世界中の 人の心も そろうでしょう 

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個別相談可能
 目の前の方の悩みや気持ちをしっかりと受け留め、心を開いてもらうように努めております。決して容易いことでは有りませんが、一期一会の気持ちで相談に、葬儀法事に励みたいと思います。    最初法学部部にで学び、4年間ほど公務員をしていました。(税務署勤務)その当時の学びと経験を終活相談に活かしたいと思います。                                              昭和63年5月に住職となってから、30年が過ぎてしまいました。仏教学・禅学もそこそこ真面目に学んだつもりですが、宗教学・宗教民俗学に力を入れて学びました。そういう分野については丁寧な回答が出来るかも。
一人一人の気持ちに寄り添い、傾聴に徹して、心をほぐしてあげられるよう、努めたいと思います。 それと同時に、完璧に出来るとは限りませんが、其の人が歩むべき方向を一緒に考えてあげたり、次の一歩を踏み出せるよう背中をおしてあげられるよう、努めたいと思っております。

その前に心がどこ向いちょるか。

たぶんそんな質問をなさる、答えをお返しするということよりも、あなたはお母さんのストレスを完全になくす、ということだけを考えた方が良いと思います。
お母さんのストレスを完全になくすためには、あなたが健康的、明るくなる、笑える、微笑みが絶えない、常にリラックスしている、くよくよしない、ため込まないということが大事です。一言で言えば、軽やかに生きる。あおれがお母さんのストレスを何故なくすのかと言えば、あなたが幸せであれば、そのシアワセ感がお母さんに伝わります。母親としてはガンになった娘が心配な部分もあると思います。でもあなたはガンを克服して乗り越えた、いろんな意味で諦めがついた、捨て切れた、明るくなった、、、ということが雰囲気として伝わっていくことが良い結果を生むでしょう。
あなたが幸せになるということです。お母さんとあなたの間に、覚悟ができてくる。なんでもうちあかせる関係になる。もう病になっても、何れ迎える死を目の当たりにしても、覚悟を決めて従容としていられるようになる。
もしくはおかあさんをよろこばせる話をする、お母さんを楽しませる、ということ一つだけを取組んでみてください。それがあなたの延命になり、心の悩みを即座に打ち消す効果になります。お母さんを笑わせることができたらご返信ください。('ω')ノ
それが私の答えです。
母が笑えばあなたの心は溶けます。
あなたが幸せであればお母さんの心がほぐれます。
あなたの人生において大きな影響力を持つお母さんとの関係がさらに向上することによってあなたはあなたらしさを取り戻せると思います。

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お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

行為と動機の問題

すっぴん様

行為と動機の問題については、仏教では特に動機を重視することとなります。倫理学における動機説に近い考え方と言えるのではないかと存じます。

仏教では動機のことを「思業」、その思業による行為を「思已業」、実際の行為としては、身(身体による行為)・口(言葉による行為)と、意(思業)の三業となり、輪廻、因果の流れの中、悪因悪果、善因善果としての大きな影響を与えていくこととなります。業には、善、悪とそのどちらでもない「無記」の三つに分類されます。

次に行為を分類致しますと、

一、動機あり・行為・結果あり
二、動機あり・行為・結果なし
三、動機あり・行為なし・結果なし
四、動機なし・行為・結果あり
五、動機なし・行為なし・結果なし

結果の蓋然性を鑑みると、悪業となりうるのは、一と二と三です。四はいわゆる過失的なものとなりますが、明らかな注意義務違反、注意怠慢でない限りは悪業にはなり得ないものとなり、五は当然に問題なしとなります。

四の扱いは、現実に刑法的・民法的にも色々と議論のあるところ(予見可能性・結果回避義務違反など)ですが、仏教的にも余程の結果への蓋然性の認識がない限りは悪業にはならないものと考えて良いのではないかと存じます。

上記と同様にして善行為についても四の場合は、動機において結果への蓋然性への認識のない場合は、善業とはなり得ないと考えて妥当ではないかと拙生は考えております。

しかし、上記のことは一般論として、お経や論書の中では、小さな子どもが小石を積んで仏塔をつくることや遊びで木片にて砂地に仏像を描くことにも功徳があるように解釈できる内容もあるだけに、正直、難しいところがございます・・

一見、動機の無いように見える行為でも、やがて悟りへと向けた発心(菩提心の生起)へと繋がる可能性が高い行為であると言えるのであれば、善業となる可能性もあるようには存じます。

例えば、日頃から、特に何とも動機がなくとも、仏前で合掌したり、お経や念仏、題目、真言等を唱えていることによって、やがて、真に仏縁に気づき目覚めて、発心するということも十分にありえるからでございます。

ただ、できるだけ動機を善くに調えられた上での善い行為を調えられるのが良いのではないかとは存じております。字数の関係上ここまでにて。

川口英俊 合掌

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最新の仏教論考はこちらでご覧頂くことができますが、公開、非公開は随時に判断しています。 https://blog.goo.ne.jp/hidetoshi-k

全てが縁

仰る事、全て間違いでは有りません。

儀礼とはいえ、手を合わせる、と、仰いましたかわ、本当にそこに、想いが全くないとは、感じられません。

廻向とは、大切な方の為に私達が、善行功徳を積む、その功徳を大切な方への功徳へ振り向ける。

今のままでも、充分に尊い行いではないでしょうか。

普通、したくてもそこまで出来無いのではないでしょうか。

次は少し、大切な方を想って、行って下さい。

供養は、形もモチロン大切ですが、一番尊いのは、気持ちではないでしょうか。

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ラジオ パーソナリティ 『 命の 相談会 』開催 愛知県愛西市 の 大法寺 の住職をしております。 大法寺は、代々尼僧寺院であり、苦しんでいる女性を救い 「 おわりはじまりのてら 」 「 尾張の駆け込み寺 」と、呼ばれておりました。 白龍が住んでいると言われている、樹齢650年の大楠の元に、倶利伽羅不動明王の祠が有ります。 その宝剣で、悪い縁を切って下さると言われ、『 悪縁切り供養 』をしています。 病気、人間関係、依存症、自分の中の悪い想いを 切って下さいます。 縁切りの絵馬に、切りたい縁を書き込み、縁切りのお護りを授与しております。 是非、お参りください。 『 命の相談会 』 を、開催しております。 胸の中にあるもの、だれにも言えない事を、全て吐き出しましょう。 一緒に泣きましょう、一緒に叫びましょう、一緒に笑いましょう。 自坊、ショッピングモール、赤十字血液センター、カフェ、放送局、等で 定期的に行なっております。 日程は、ホームページで、確認してください。 ホームページ www.daihouji.org 『 樹木葬 大法寺 』 『 縁切り 大法寺 』 で検索してください。 緊急の場合 苦しかったら、辛かったら、電話ください、 09066179353

質問者からのお礼

曹洞宗の吉田俊英さま。回答ありがとうございます。
蓮華色比丘尼の話は知らなかったので勉強になりました。

長谷雄蓮華さま、川口 英俊さま、回答ありがとうございます。
思い・動機・気持ち、心が大切だということ、大変わかりやすく解説頂きありがとうざいます。
動機と行為の5分類、なるほどでした。

丹下 覚元さま。回答ありがとうございます。
「母を笑わせる」というよりは、いつも母と二人、笑い合って楽しく過ごしています。
仏壇へのお供えも、「忘れていたら、ご先祖さんが『腹減った~のど乾いた~」とか教えてくれたらいいのにねぇ」とか、「成仏してるから来られないんじゃない?」とか、「お母さんは教えに来る?」とか、笑いながら話せていますので、ご安心下さい。

いずれにしても、「悪縁を結ぶ」というほどのことは無いようなので安心しました。
ありがとうございました。

温かい気持ちになるお坊さん説法まとめ