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「心を込めた行動」とは?

最近、知人と議論しているのですが、結論が出ませんのでご意見お願いします。
毎朝のお勤めとして、「仏壇にご飯・お茶・お経をあげています。
それは母の代わりであり、ご先祖様への感謝とかの心を込めての行動ではなく、義務的なことです。
知人いわく、
「心が入っていない義務的な行動ならば、悪縁を結ぶことになり、やらない方が良い」と言います。

何かの法話で、
「多くの寄付もしているし、これだけ信心深い私には、どれだけのご利益があるのか?」と質問した人に対して、お坊さんは「無い」と応えた。

と聞いたことがあります。

私としては、その法話も納得だし、義務的なお勤めに何かのご利益とか功徳とかを期待もしていないし、望んでもいません。
ただ単に、「母がやりたいけど出来ずにいるストレス」を軽減するためだけです。「今日もちゃんと仏壇にお供えしたよ」って言うためだけの行動です。

しかし、利益・功徳などのプラス効果は期待していませんが、「悪縁を結ぶ」「罰が当たる」などのマイナス効果になるとまで言われると、気になります。

理想的なのは、「心を込めた行動」でしょうが、「行動しない」よりは、「心が入っていない行動」が良いと思うのは、間違いなのでしょうか?

供養
有り難し 26
回答 4

質問投稿日: 2014年6月1日 20:47

回答は各僧侶の個人的な意見であり仏教教義や宗派見解と異なることがあります。答えは一つとは限りません。多くの回答(法施)からあなたの人生を探してみてください。

仏道修行の真似事であっても、それが成仏のための因縁となります

曹洞宗の吉田俊英と申します。


何かの法話で、
「多くの寄付もしているし、これだけ信心深い私には、どれだけのご利益があるのか?」と質問した人に対して、お坊さんは「無い」と応えた。

これは中国北宋の時代に書かれた『景德傳燈錄』という高僧伝にある逸話です。

武帝 「私は今までに多くの寺院を建立し、たくさんの人を救い、写経もし、
    仏像も数多く作らせました。どんな功徳があるでしょうか」
達磨大師 「無功徳(功徳なんてありませんよ)」と言う問答が、出典です。

「すっぴん」様のお考えで宜しいと思います。間違ってはいないと思います。たとえ仏道修行の真似事であっても、その真似事が成仏のための尊い因縁となる、という考え方も有ります。

道元禅師が『正法眼蔵』「出家功徳」巻で引用した『大智度論』に見える「蓮華色比丘尼」の事例がまさしくこれにあたると思います。

「この「蓮華色比丘尼」という人だが、元々は遊女(今風に言えば、コスプレ・物まねをして笑いを取る芸人)であった。そして、戯れに僧侶の袈裟を着けたという。然るに、この一事によって、この遊女に大きな功徳が発現し、その後、紆余曲折があったけれども、生まれ変わりする間に徐々に仏縁を深め、結局、釈迦牟尼仏の下では大阿羅漢になったという。」
ブログ『つらつら日暮し』 (曹洞宗の宗学研究者が執筆)
http://blog.goo.ne.jp/tenjin95/e/bd322cf930ad5eead68bb2170103738b

義務的なものであっても、仏壇にご飯やお茶を供え、お経を唱えると言う行為自体が、尊い行です。「真似る」ことが「学び」へと発展し、「形を整えること」が「心を整えること」に繋がります。

曹洞宗の布教師として活躍された方で藤本幸邦老師という方が居られました。藤本老師は生前下記のような詩を法話の中でお話しされました。

はきものを そろえると 心もそろう 心がそろうと はきものもそろう
ぬぐときに そろえておくと はくときに 心がみだれない
だれかが みだしておいたら だまって そろえておいてあげよう
そうすればきっと 世界中の 人の心も そろうでしょう 

4年2ヶ月前

行為と動機の問題

すっぴん様

行為と動機の問題については、仏教では特に動機を重視することとなります。倫理学における動機説に近い考え方と言えるのではないかと存じます。

仏教では動機のことを「思業」、その思業による行為を「思已業」、実際の行為としては、身(身体による行為)・口(言葉による行為)と、意(思業)の三業となり、輪廻、因果の流れの中、悪因悪果、善因善果としての大きな影響を与えていくこととなります。業には、善、悪とそのどちらでもない「無記」の三つに分類されます。

次に行為を分類致しますと、

一、動機あり・行為・結果あり
二、動機あり・行為・結果なし
三、動機あり・行為なし・結果なし
四、動機なし・行為・結果あり
五、動機なし・行為なし・結果なし

結果の蓋然性を鑑みると、悪業となりうるのは、一と二と三です。四はいわゆる過失的なものとなりますが、明らかな注意義務違反、注意怠慢でない限りは悪業にはなり得ないものとなり、五は当然に問題なしとなります。

四の扱いは、現実に刑法的・民法的にも色々と議論のあるところ(予見可能性・結果回避義務違反など)ですが、仏教的にも余程の結果への蓋然性の認識がない限りは悪業にはならないものと考えて良いのではないかと存じます。

上記と同様にして善行為についても四の場合は、動機において結果への蓋然性への認識のない場合は、善業とはなり得ないと考えて妥当ではないかと拙生は考えております。

しかし、上記のことは一般論として、お経や論書の中では、小さな子どもが小石を積んで仏塔をつくることや遊びで木片にて砂地に仏像を描くことにも功徳があるように解釈できる内容もあるだけに、正直、難しいところがございます・・

一見、動機の無いように見える行為でも、やがて悟りへと向けた発心(菩提心の生起)へと繋がる可能性が高い行為であると言えるのであれば、善業となる可能性もあるようには存じます。

例えば、日頃から、特に何とも動機がなくとも、仏前で合掌したり、お経や念仏、題目、真言等を唱えていることによって、やがて、真に仏縁に気づき目覚めて、発心するということも十分にありえるからでございます。

ただ、できるだけ動機を善くに調えられた上での善い行為を調えられるのが良いのではないかとは存じております。字数の関係上ここまでにて。

川口英俊 合掌

4年1ヶ月前

その前に心がどこ向いちょるか。

たぶんそんな質問をなさる、答えをお返しするということよりも、あなたはお母さんのストレスを完全になくす、ということだけを考えた方が良いと思います。
お母さんのストレスを完全になくすためには、あなたが健康的、明るくなる、笑える、微笑みが絶えない、常にリラックスしている、くよくよしない、ため込まないということが大事です。一言で言えば、軽やかに生きる。あおれがお母さんのストレスを何故なくすのかと言えば、あなたが幸せであれば、そのシアワセ感がお母さんに伝わります。母親としてはガンになった娘が心配な部分もあると思います。でもあなたはガンを克服して乗り越えた、いろんな意味で諦めがついた、捨て切れた、明るくなった、、、ということが雰囲気として伝わっていくことが良い結果を生むでしょう。
あなたが幸せになるということです。お母さんとあなたの間に、覚悟ができてくる。なんでもうちあかせる関係になる。もう病になっても、何れ迎える死を目の当たりにしても、覚悟を決めて従容としていられるようになる。
もしくはおかあさんをよろこばせる話をする、お母さんを楽しませる、ということ一つだけを取組んでみてください。それがあなたの延命になり、心の悩みを即座に打ち消す効果になります。お母さんを笑わせることができたらご返信ください。('ω')ノ
それが私の答えです。
母が笑えばあなたの心は溶けます。
あなたが幸せであればお母さんの心がほぐれます。
あなたの人生において大きな影響力を持つお母さんとの関係がさらに向上することによってあなたはあなたらしさを取り戻せると思います。

4年2ヶ月前

全てが縁

仰る事、全て間違いでは有りません。

儀礼とはいえ、手を合わせる、と、仰いましたかわ、本当にそこに、想いが全くないとは、感じられません。

廻向とは、大切な方の為に私達が、善行功徳を積む、その功徳を大切な方への功徳へ振り向ける。

今のままでも、充分に尊い行いではないでしょうか。

普通、したくてもそこまで出来無いのではないでしょうか。

次は少し、大切な方を想って、行って下さい。

供養は、形もモチロン大切ですが、一番尊いのは、気持ちではないでしょうか。

4年1ヶ月前

質問者からの有り難し - お礼

曹洞宗の吉田俊英さま。回答ありがとうございます。
蓮華色比丘尼の話は知らなかったので勉強になりました。

長谷雄蓮華さま、川口 英俊さま、回答ありがとうございます。
思い・動機・気持ち、心が大切だということ、大変わかりやすく解説頂きありがとうざいます。
動機と行為の5分類、なるほどでした。

丹下 覚元さま。回答ありがとうございます。
「母を笑わせる」というよりは、いつも母と二人、笑い合って楽しく過ごしています。
仏壇へのお供えも、「忘れていたら、ご先祖さんが『腹減った~のど乾いた~」とか教えてくれたらいいのにねぇ」とか、「成仏してるから来られないんじゃない?」とか、「お母さんは教えに来る?」とか、笑いながら話せていますので、ご安心下さい。

いずれにしても、「悪縁を結ぶ」というほどのことは無いようなので安心しました。
ありがとうございました。

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