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未遂でした

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ドアノブごと取れたから今生きています。お恥ずかしい限りです。 

そこに至るまで何があったのかは省略します。

ただ自殺の原因になった人は元気にご飯食べて生きてるんだなと思います。
人権があるらしいですから。

大切なものがたくさんあったはずなのに、二度と生まれたくないというのが今回の人生の感想です。

生まれたくなかった。生まれたくなかった。これまで生きてきた時間が無駄でした。


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お坊さんからの回答 4件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

生かされているのですよ。

拝読させていただきました。

生きていて何よりです。

プラスとマイナスがこの世には存在し、プラスとマイナスの真ん中を仏教では「中道」ともとらえます。現在、世界中で使用しているアラビア数字はインドが発祥ですが、その数字の「0(ゼロ)」をスーニャといいます。
この真ん中あたりのを中道とし、また全ては空ともとらえます。

 少し説明させていただきましたが、人生をプラスにももっていかなくてもいいということなのです。またマイナスにももっていかなくて、いいということなのです。「0(ゼロ)」であり「中道」という真ん中あたりに心を常に置くことが、かたよらない ということであります。

 人間の思考・思想も執着により苦しみをもたらします。だからこそ、執着しないためには「かたよらない、こだわらない、とらわれない」という意味を胸(心中)に御守りとして持つことが必要となります。

 マイナス思考のときはどうしてもマイナス思考に赴いていきやすいのが人間の性なのでもありますが、自らマイナスへと赴かなくてもいいということです。プラスにもならなくていいのです。
 今、マイナス地点に心が居るならば、プラスの意識を赴き「0」というリセットの基準まで一時的なものでいいので踏ん張りましょう。
 他人(対象者)が今、幸せにのうのうと暮らしてることを考えると貪欲と瞋恚という、むさぼり と 怒り の渦中からは抜け出せない心の状態を自らつくる輪廻構築となりますので「恨みは恨みでしか残らない」ということを認識(了知)し、幸せになってやるという気持ちを ほんの少しでもいいので、取り入れてください。幾度と、煩悩という「魔がマイナスへと引き摺り込もうとします」が、それでも心の状態が「0(ゼロ)」になったら、自身でも未知の幸せな ひととき が自分をやさしくし、支えてくれる存在(苦労)になるのだと信じてください。

 山登りはしんどいものです。しかし、頂上に達したとき、はじめて向こう側の景色が見えます。しかし、頂上に達したからといって何もあるわけではないのです。ただただ今を楽にするためだけでいいのです。
 もう底にまで足を着けたと感じておられるなら、あとは上がるだけなのであり、もうその下というものは無いのです。
 ドアノブが取れたことは、生きる意味があることなんだと思ってください。

南無大師遍照金剛

合掌

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有り難し
おきもち

祈るこころに佛心が宿る。 変化多き時代を生きる私たちにできること、それは正しい道しるべであります。 選択肢が多い世の中になり、何が正解であるのか?すべて正解であります。しかし、人は損得で判断するのでなく、正しいか正しくないかで判断する人間であることを説いていきます。 ※電話相談は受け付けませんので、あらかじめご了承ください。

不思議なご縁

拝読させて頂きました。
不思議な巡り合わせの中で今あなたが生きていらっしゃる、それだけで尊いことです。
周りの人達のことはどうでもよいことです。

詳細な経緯は全くわからないですけれども今まであなたが生きてきてとても辛いことや苦しいこともあったのでしょうか。

宜しければあなたのお気持ちをここでも教えて下さいね。

あなたが生きてここで私達とつながりを持たれたのはきっと不思議なご縁、仏様のご縁でしょうからね。

あなたは今も決して独りではありません、ここでも既に私達とのご縁に恵まれています。

様々なことがあろうともあなたが生きることは本当に尊いです。

あなたを心よりお待ちしています。

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有り難し
おきもち

個別相談可能
脱サラして10年が経ちました。栃木県佐野市の一向寺に勤めています。(佐野ラーメンが有名な処です。)これからも皆様のご質問に対して誠心誠意回答させて頂きたいと存じます。まだまだ修行中の身ですので至らぬ点あろうかとは存じますが共に精進して参りましょうね。お寺にもお気軽に遊びに来てください。
ご相談は朝から午後5時まで受け付けております。 人間関係や恋愛のお悩み、自殺願望、大切な方の死に直面した苦しみなど、どんな内容でも構いません。一人で抱え込まずに、ぜひお辛いお気持ちを吐き出してください。 仏様や神様、ご先祖様は、いつもあなたを見守り、聞いてくださっています。あなたが少しでも穏やかな気持ちになれるお手伝いをさせていただきます。

泣き寝入りせず「おかしい」ことは「おかしい」と主張すべしっ!

「自殺なんてないのさ、誰が君を殺した?」
大森靖子さんの『Rude』という名曲の歌詞です。
是非一度聴いてみてください。
まさしく、この世に自殺なんてありません。
「誰が」「何が」あなたをそこまで追い詰めた真犯人なのでしょう。
北海道の事件にしてもそうですが、死を選ぶべき人ではない人が亡くなられて、加害者がのうのうと暮らしているような世の中のおかしな流れをこそ滅すべきでしょう。
あなたが自ら死を選ばれるぐらいならば、まずあなたの命を無きものにしようという位の殺意、害悪、汚染に反発するべきです。
(# ゚Д゚)「理不尽だ…」「こんなことがあってよいものか…」「どうして加害者が
被害者ヅラしてのうのうと生きているのか…」
今の日本はおかしいのです。どんどん反発の声をあげましょう。
今の人権なんぞは腐っています。人権でも何でもありません。私も人権活動にかかわっていたことがありますからよくわかります。騙されないでください。
日頃人権人権言っている連中がウイグル人や日本人女性への被害を正そうとしていますか?世論の人権そのものが狂っているのです。
加害者や悪党がツールとして利用しているだけの人権なんぞは手口をさらして潰さなければ真の被害者が加害者扱いされるだけです。

世間では今もテレビをつければ「左翼・世論・正論」に成りすました日本愛のない人間たちが自分たちを支持する勢力の利権の為に日本破壊を工作して毎回被害者、正義のフリ、マイノリティを主張してエゴ丸出しの盛んな活動ばかりです。酷い人になるとマイノリティや被害者ポストを道具として踏み台にして自分たちの勢力が花咲こうとする。その本性を見抜けずに自称被害者に加担してしまうのがエセ人権。加害者の言い逃れが人権なのです。そういうおかしな現実を知らない無知な人間も被害者ですが、そうとは知らず騙されれば加担者になる。今や国家全体が男女共同参画という名目で日本そのものが乗っ取られようとしているのにそれにも気づかない日本のような。あなたに何があったのか存じ上げませんが、私はそういう理不尽には声を上げるべきだと思っております。

いつの時代も人間の世界には人間のエゴによって今日もどこかで誰かが哀しい思い、苦しい思い、もどかしさ、怒り(義憤・公憤)を感じているものです。
私はあなたにそこで黙って死んでいくような人間になってほしくはありません。

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おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

これからのことが、それまでのことを変える

しろさま

これからのことが、それまでのことを変える。

なんじゃそりゃとなりますが、「無駄」と捉えているのは今の時点の自分の心によるところであり、その心のありよう次第では、この先で、その「無駄」も「無駄」でなくなることもありえるものとなります。

人間という生は、誠に恵まれたものであります。

心を向上させうる機会、条件に恵まれてあると仏教では考えるからであります。

他の世界(特に畜生・餓鬼・地獄)ではこれだけの余裕は持てません・・

どうかこれから仏教を学び進めることで、心の向上に資して頂けましたらと存じます。

川口英俊 合掌

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有り難し
おきもち

最新の仏教論考はこちらでご覧頂くことができますが、公開、非公開は随時に判断しています。 https://blog.goo.ne.jp/hidetoshi-k

質問者からのお礼

丹下 覚元さま
ありがとうございます。然るべきところに相談しましたが、何も解決せず、ご相談した流れとなりました。心強いお言葉、励みになります。私の声はいつか届くでしょうか。

川口 英俊さま
心のありよう次第というお言葉、ありがたく思います。これからがあることを信じてみたいと思います。今はまだ、感情が眠っているようです。いつか目を覚ませたらと。

Kousyo Kuuyo Azumaさま
ご縁をいただきありがとうございます。
私にはもう、なにもないと思っていましたが、まだ縁があるのですね。

法源さま
ドアノブが取れたことは、生きる意味がある。そう思いたいです。中道のお話、ありがとうございます。
まだ、生かされている。なぜ?とは思うけれども、今は生きます。

皆様ありがとうございます。
私は今、生きてみます。今としか言えなくてごめんなさい。

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