死後の世界の教え
子供の頃から、仏教の教えにおいて人は死んだら極楽浄土に行けたなら、先になくなった懐かしい人と会って楽しくえる。だとか仏さまにお仕えするために修行をつんでいる。とか輪廻転生だとか、いろいろなことを噂には聞いてきました。
先日主人の一周忌の法要の折、菩提寺(禅宗)の方に主人は今ごろあちらの世界でどうしているのでしょう?こちらの宗派の死後の世界の教えはどんなでしょうか?
と伺ったところ 『わかりません。』とひとこと。
いまだ主人を亡くした悲しみから抜け出せず、少しでも仏教の教えの上での主人の今が知りたかったのですが…そのお返事になんとも言われぬ悲しみでそれ以上の質問は出来ないと同時に菩提寺に対する不信感を感じました。
宗派により死後の世界の教えの違いはあるとは思いますが、仏教においての死後の世界の教えがあるのであればどうか教えて下さい。
教えの上で今ごろ主人が何をしているのか、もし知ることができたなら…。
せめてそれだけでも心の支えになるような気がしています
宜しくお願い致します
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
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私はね、さよならではなく またね と。お念仏に生きています。
会いたいですよね。
待っていてくれる、また会えると思うから、手を合わせるのですもの。
救われていく、会える世界があると思えるから、悲しみも受け止めていける、支えにして生きていけるのです。
浄土を願い、亡き人に導かれ、仏様を頼らせていただくのです。
私はね、そうやってお念仏に生きています。
愛おしい人との別れも、仏様に出遇わなければ、手を合わすことも知らず、泣いてばかりの私だったでしょう。でも、今こうして生きていられるのは、大切な人と大事にしてきた信仰があるからです。必ずまた遇える。そう約束して、あの日またねとお別れしたのです。さよならではなく、またね と。
あなたも、極楽浄土の阿弥陀さまにおまかせを。
南無阿弥陀仏
ご住職からもうひとこと欲しかったですね
こんにちは。
一周忌の際に、ご住職に「禅宗における死後の世界はどのような教えなのか」とたずねたところ「わかりません」といわれたのですね。
確かに禅宗の教えとしては「わからない」となってしまうのかもしれませんが、やはりそのご住職からもう一言欲しかったですね。
私は禅宗(曹洞宗)ですが、お葬式での回向(故人におたむけする言葉)の内容を見ると浄土的な考え方が入っていると私は感じています。日本人の心の中は古来から(禅宗であっても)浄土系の考え方が信じられているのだろうと思います。またお葬式の内容は故人がお釈迦さまの弟子になる儀式になっていますので、故人様は、お釈迦様のお弟子として、仏様の世界で静かにお過ごしになっていると考えて良いと思いますよ。
ご住職の言葉をポジティブに取れば、死後の世界は「わからない」のですから、どのように信じるのも自由自在という事です。極楽浄土で、先になくなった懐かしい人と会って楽しく過ごしているかなぁ、とか仏さまのもとで修行をつんでいるのかなぁ、とかいろいろ想像してみるのも良いですね。故人様がお盆で帰ってきた時には、向こうの世界がどんななのか心の中で会話をしてみるのも良いですね。
人間の超越したところにあり、理解不能な境地でもあります。
拝読させていただきました。
菩提寺さまでの返答にて「わかりません」の答えも一つの正解であります。
ただ、ことだまさんの求めている答えは「安心」の言葉を欲していたかも知れません。
宗派により返答の仕方は異なるものでもあるかも知れません。分別すると帰依する経典が異なることでもあるからです。
ただ理想郷を話すのが仏教の本質ではなく基本「妄想するなかれ」と説きます。
世界三大仏教といわれますが、それは世界に分布している域が広く、日本に伝来する仏教は大乗仏教(北伝)と申します。南に位置する仏教のことを大まかに上座部仏教と申します。ここでまず大きな死後に対する返答が相違うのです。
・上座部仏教では「灰身滅智」と申し、八正道を主とし、出家者中心に修行をすること。また亡くなると感覚・認識作用である煩悩が滅することから、阿羅漢果を得ることができると簡易に解釈してください。
・大乗仏教では六波羅蜜を主とする出家者限らず在家にもできる行い(修行)により、さとりを得ることができる利他行としています。
ただ、双方の一致する教えはたくさんあります。また、仏教の根底には輪廻転生があります。そこで、人間として生まれてくるからどうかは在世でどれだけ徳を積んだかで来世の行方が変わるという教えも時代変遷によりあることから、現世で徳を積めなかったことから追善という福を送ることを法要の軸ともしています。すべて簡易に記していますので、予めご了承ください。
このような経緯があるので、来世のことは「分からない」というのも不妄語戒に守る僧侶側からすれば、ことだまさんを傷つける訳ではなく、正直であり、その場を取り繕う人よりは後々、有り難いと思える答えになります。
真言宗での教義をお伝えしますと、大日如来と不二一体となることが答えとなり、浄土図などで出てくるところで、住んでいるとは答えにくいものであり、言葉で伝えきれないところが宗教の一つでもあり、私たち人間を超越したところに宗教というものが芽生え、安易に理解できれば宗教は成立しないのも一つです。しかし、何千年も続く様々な宗教には、浄土・天国とあります。日本語で一番わかりやすお伝えするなら「安常処順」です。苦しみのない、安らかで、清らかな永遠なる境地という意味合いで捉えてください。
合掌
仏教が教える死後の世界は
結構シビアです。
宗派に分かれる前の釈尊の仏教では、生命の生き方を六種類に分けて、上から天人、人間、阿修羅、餓鬼、畜生、地獄と分類しています。釈尊がインドでも初めてそう分類したと、古いインドのお経では伝わっています。生命は生まれたり死んだりするけど、そのたびにこの六種類のどれかを選び取って生まれ、死に、生まれ、死に、を繰り返していると言います。輪廻です。
そういう六種類の生命の違いは、一瞬ごとというよりはずっと輪廻して積み重ねてきた心=業のレベルの違いだと見ています。
というわけで、死後の行き先は、とりあえずはこの人生の一生涯の過ごし方を見ていると、何となく予想できます。と、釈尊の仏教では見ています。ただし、誰かの転生先を確認する能力は悟りともちょっと違う特別な超能力(千里眼でないほうの天眼通てんげんつう)なので、私たち普通の人間には断言はできません。
ついでに言えば、餓鬼(幽霊)の世界は上から下まで結構幅広く、餓鬼の一番ましなものは、人間界の近くでうろうろして、うっかり、人を怖がらせてしまいます。天人の世界も上から下まで結構幅広く、天人の一番下の地居天(地上でうろうろしています)は、時々人間と出会って、「おばあちゃん、にこにこしていたよ。良かった」などと安心させてくれます。
遺族が、「あの人はああいう人だったから、あの辺にいるかなあ」などとあたりをつけて、たいていは人間界よりはちょっと上ですので、思い出して、写真や空に向かって胸を張って「そっちはどう?こっちはなんとかやってるよ」などと心で連絡してみると良いと思います。仏教の正式は、自分が何か善いことをして「この功徳(善行為の業)を○○さんと一切衆生に廻向します(あげます)」ですが、相手のことを思い出すのも相手にとっては善いことですので、「元気?」などと、心で話しかけてみて損はありません。消えてしまったのではなく、どこか別のレベルで生きていますので、届くかも知れないのです。
参考文献は:
アルボムッレ・スマナサーラ『死後はどうなるの?』角川文庫
藤本晃『功徳はなぜ廻向できるの?』国書刊行会
などです。
質問者からのお礼
お答え頂き本当にありがとうございます。
それぞれの住職様のお答えの内容を何度も読み返しているとき、その時間は心穏やかに主人を愛おしく思う時間となりました。
いつかきっと遇える。その時まで。
主人を思い出す度、今回ご住職様から頂いた教えを思い出し、心の支えとし、手を合わせて生きていこう。と思うことができました