非思量と禅への疑問
非思量と禅について5つ質問がございます。
どうかご回答いただけると幸いです。
1,非思量とは即ち禅そのものであるのでしょうか?
2,『無門関』及び道元禅師が言う「百尺竿頭進一歩」とは非思量のことを言っているのでしょうか?
3,臨済宗の盤珪禅師が言う「我が身のひいき」をしないことも、即ち非思量であるのでしょうか?
4,非思量でいながら作務及び日常生活の家事はミス無く行えるものなのでしょうか?
5,非思量で生きることが安楽過ぎるあまり、かえってそれに依存してしまうことで悟りへの妨げとなったりはしないのでしょうか?
自分の納得がいくまで、物事や行いに対してこだわってしまう。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
禅では説明が少ないので
初期仏教的に考えると、非思量(考えない?)とは、あれこれ考えず、一瞬ごとに変わる自分の心身や目の前の現象を、一つずつモグラたたきのようにこれ、これ、これ、と考える間もなく適切に把握して捨て把握して捨て把握して捨てるの連続で生きなさいという意味ではないかと思います。初期仏教では「サティ(念)を入れる」とか「不放逸アッパマーダ」とかヴィパッサナー(瞑想)とか言っています。
1.2.3.は私にはわかりませんが、
4.は、何かを習得するために勉強したり、むつかしい仕事を仕上げるときは、これ、これ、これ、だけではすまないように思えます。しかし、勉強の内容を頭に入れたり報告を文章に仕上げたりする複雑な作業の一つ一つは、一瞬ごとの連続作業のものすごく詰まったものだとお考え下さい。
条件反射のモグラたたきみたいなものは瞑想の時に訓練しますが、日常生活では、複雑なたくさんの要素を「同時」(本当はものすごく高速で一瞬には一つずつ行ったり戻ったり)に編み込んで生きています。
5.は、そうやって非思量?ヴィパッサナー?で生きることが悟りへの道で、悟った後もそうやって生きているようです。非思量とは何も考えないぼーっとした状態ではなく、一瞬の変化も見逃さずに頭が冴えわたった状態で鋭く生きていることのようです。
禅の教えの意味を知るためにアルボムッレ・スマナサーラ『ブッダに学ぶ本当の禅語』がお役に立つと思います。
先に考えず実践で体感する
非思量はすなわちお悟りです。
そこに自分がないというだけの話ですから、そこになりきって作務なら作務をすることができるのです。
ぼーっとしているわけでなく、そこになりきるということです。
想像していても遠くなるばかり。
初めからできているのだから余計なことはしなくて良いと思います。理解しようとしているだけ無駄になりますから。
パチン!と手を叩いた時に聞いている自分の様子なんてないでしょう。そういう働きが生まれてから当たり前にできているのです。これから非思量になろうとすること自体意味がないと思ってください。
1.2.3の質問についてもあまり深く考えずお悟りの境地だと思っていたら良いと思います。
質問者からのお礼
大変遅くなりました。
御二人のおっしゃる通り瞑想実践で体得していけばよいということを実感しました。
やっぱり頭でっかちで考えたり、イメージしたりすると迷いますね……
ご回答、誠に有り難うございました。