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ハスノハ

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 僕は真宗徒なのですが、法義が薄い土地なので、周りには真宗の人は誰もいません。
 そこで質問なんですが、現代日本でぶっちゃけどれぐらいの人が信心決定してるんでしょうか?体感で教えてくださると助かります
 お坊さんも信じてないみたいな話も聞きますが…
 ちなみに僕は信心頂いてます


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お坊さんからの回答 2件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

鳥の羽の数を数えるより鳥の羽でなくても「あたためる」活動🐓

人生の中でひと時「これだ」「信心決定だ」と思ったことがあっても、その後、現実の問題でトラブルが怒ったりするのも人間の世界の真実。
他人さまの健康状態と同じように、人の心の現実は探りを入れたところで正直わからんモノでしょう。
仮にデータ化、数値化されたとしても、現実の今日のニュースをご覧ください。
痛ましい事件あり、悩みや暗い心によって、哀しい事件が起こっている。そっち。
私も禅宗で誰が本当に悟っている人だろうか、あの坊さんは本当に悟っている人だろうか、あの人の言うことは一見すると立派そうで正論に聞こえるが、実際にそれで救いの作用になっているだろうか…、あの人は、悟っているという割に、あの部分がだめじゃないか…、そんなことを思っていたこともありましたが、立派な祖師はこのように説いておられます。
「無上菩提を演説する師にあわんには、種姓を観ずることなかれ、容顔を見ることなかれ、非を嫌うことなかれ、行いを考うることなかれ、ただ、般若を尊重するがゆえに日日三時に礼拝し恭敬してさらに患悩の心を生ぜしむることなかれ。」
他人様が信心決定、信心獲得、安心決定しているしていないよりも、あなたが明らかにされたところをどんどんお伝えいただき、広めて頂ければありがたいです。
禅宗では身心脱落、脱落身心などとも申します。一生の参学の大事に決着がつくこと。疑いが無くなること。成道。成仏。
この世には本当に人生に心底決着がつく、ということを表現する言葉は沢山あります。言葉の違いこそあれ、大切なのは本当にお互い、誰もが「この人、いいなぁ(*´▽`*)」という人になっていくことです。お互いに。誰もが。みんなが。
だからこそ、表現の違い、伝え方の違い、宗派の違い、主義思想の違いこそあれ、人間は誰が食べても本当においしいものは宗派や国境、男女、年齢問わずしておいしいのですから、同じ仏教、仏のこころを敬う人同士で、どんどん、仏の羽毛布団で温め合っていけたらいいと思います。
あの人が信心決定したか、心底わかった人か、よりも、みんながハスノハ、鳥の羽、ハートのかけらとなって、今日出会う人達に仏の精神がソフトに伝わればいいと思っておりまする。
もし、今後、家庭の中で自分なりには安心決定、信心決定したしたつもりであっても、いさかいごとや腹立ちなどが生じた時にこの言葉を思い出していただければありがたいです。

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有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

「信心決定」とは善因善果の因果の理の「確信」

のちさま

「信心決定」とは、仏法に基づく、善因善果の因果の理を「確信」して、自らの業を清らかに調えていくということができるようになっている状態のことを申します。

善因善果の因果の理の「確信」がまさに「信心決定」であり、仏法の説く善因善果となる行い、簡単には六波羅蜜の内容を実践していくことが必要となって参ります。

「信心決定」した者は、しっかりと善根を積むことができるようになっている者(菩薩行を実践している者)でもあり、その積みたる善根と阿弥陀如来様の仏縁を頂いて、極楽へと往生することもできるようになるのであります。

合掌

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おきもち

最新の仏教論考はこちらでご覧頂くことができますが、公開、非公開は随時に判断しています。 https://blog.goo.ne.jp/hidetoshi-k

質問者からのお礼

>今後、家庭の中で自分なりには安心決定、信心決定したしたつもりであっても、いさかいごとや腹立ちなどが生じた時にこの言葉を思い出していただければありがたいです。

分かりました。ありがとうございます

温かい気持ちになるお坊さん説法まとめ