老人が死ぬほど嫌いです。
老人が死ぬほど嫌いです。
タイトルのとおりです。老人が死ぬほど嫌いなのですが、おかしいでしょうか?
医療従事者ですが、老人が嫌いです。なんで嫌いなのに医療従事者になったの?とよく言われますが、就職氷河期で手に職をつけたかったからという理由しかありません。というよりも、働き出してたら老人が嫌いになりました。
あいつら、なんであんなにエラそうなのでしょうか?長く生きていることがそんなにエラいのですか?
「糖尿病で目が見えんのじゃ」とか「足が痛いから介助してくれ」と言ってくる老人もいます。これまでの不摂生が祟ったのじゃないですか?自業自得なんじゃないですか?と言ってやりたくなります。
なんで生産性のない奴らを生かすために多額の税金が投入されているのか、怒りを覚えます。
「あなたもいずれ老人になるのだから」と言われますが、人様の世話にならないよう、健康や食事には気をつけています。それでも自分ひとりの力ではどうにもならなくなった時は、もうそれまでかなと考えています。
こんな考えはおかしいのでしょうか?
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
あなたも役に立たなくなったら同じ扱いでイイのでしょうか?
それを言ったらオシマイダーです。なぜオシマイなのか。あなたにも同じルールが適用されてよいということになるからです。そういう考えは💀危険思想💀という。ヤバいっスよ。💀他の生命なんぞ俺サマのルールで家畜🐖モノのように扱ってよいという💀という態度になります。
「人は年を取ったらおしまい」
「役に立たなくなったら意味がない」
「生産性がない人間は不要」と考えるのであれば👿貴方や家族にもそれが適用されてヨイ👿ということになりますヨ?💀
人間、たまたーま健康に恵まれているだけなんスよ。
あなたが今たまたま健康でも、お体を患って高齢者の方々を同じ状況になれば「貴様の人格や人権などない!」と尊厳軽視でエエのですか?そのヤバい危険思想を持つ人が増えれば「💀こんなことを考える社会の役に立たん愚か者は死んでよい!」ということにもなる。貴方の家族、愛する人に対しても人格軽視でヨイということになる。だから、あってはならないのです。たまたま思い起こしちゃったという程度であっても改めましょう。定期的にそういうことを考えるのであればその種の業務に携わらない方がよいでしょう。心を込めて勤めておられる同じ職務の人を冒涜する姿勢だからです。簡単に言えばそういう考えはエゴの高い自分勝手なルールだということ。別に怒っちゃいません、キレテナイッスヨ。👌
どうして、そういうことを考えてはいけないのかという問いを自分や愛する人に向けてみると良いです。人として。職務に携わる人として誰もが救われる正しい道理・活路を見出す必要があります。その考えを押し通したければこちらも同じように致しましょうか?ですがあなたと同じようにすれば同格になってしまうので私は改めてほしいと願い「こちらですよ」と心の善導ガイドをします。
結論:あなたがいけないのではない。あなたが現在そういうダークな心理に追い込まれている。自分をみつめる。あなたが今、嫌いな高齢者たちと同じく支援を必要としているのです。そこまでドライで冷酷な不健全な考えを起こす心理に陥っているのはなぜか?今まで人間関係の負の感染で心理的に追い込まれているのではないですか?そういうダークな考えが起こるのも家庭や職場で嫌な事が続き人間関係で病んで疲れているからでしょう。でなけりゃ普通、口にはしません。貴方が現在、心のケアを必要としているミラー心理なのです。👴👵
「嫌い」はあなたの能力(キャパ)が低いから
「嫌い」というのは怒りの煩悩なんです。
要は、あなたに老人を平気へっちゃらに処理する能力が無いという、あなた自身の処理能力不足が「嫌い」の正体なのです。
能力には個人差があります。
たとえば、お釈迦様はどんな生き物相手でも平気へっちゃらなのです。
経典では悪魔の相手もしています。
悪魔から「お釈迦様、もうそろそろ死んでくれませんか」と頼まれたお釈迦様は、
「そうだな、もう弟子も信者も立派に育ったから死んでも良いよ。」
と悪魔のお願いすら聞き入れました。
お釈迦様には自我や執着がなく、欲・怒り・怠け・プライドの煩悩がないので、誰のお願いごとでも「はいはい、オッケー」と身軽に聞き入れ、たいていのことはチャチャっとやってしまう。
80歳の(当時のインドではすごい高齢者)お釈迦様自身がもう死期が近い病床についていたときに、弟子入り志願者が訪ねてきて、側近の弟子たちは「今お師匠さまはそれどころでは・・・」と断ろうとしましたが、
さすがお釈迦様「いや、通してあげなさい」とその弟子入り志願者を受け付け、その人が最後の弟子となりました。
仏様のように能力が高いなら「嫌い」は無い。
能力が低い私達には「嫌い」がある。
ただそれだけ。
「嫌い」は悩み苦しみストレスの原因になるので、「老人嫌い」で苦しむのはあなた自身。
それは現実だから仕方ないのです。
怨憎会苦(おんぞうえく。嫌いな者に出会う苦)は、人間の基本的な8種類の苦の一つなのです。
ただ、あまり他人に「私は老人が嫌い」と言わない方が良いかも。
なぜなら、他人に「私は能力(キャパ)が低い」と宣伝することになるから、そんなあなたをバカにしたがる人もいるので。
あとは、私達もお釈迦様みたいな格好いい高齢者になれたら最高でしょうね。
周辺諸国の庶民から王様までがお釈迦様を慕っていたのですから。
受け流すスキルを身に着ける
就職氷河期とか手に職とか言いながら、しかしやはりしっかり勉強して資格を取って、誇りをもって日々の仕事に臨んでおられると思います。
で、実際のジジババは、特に爺は、言いたい放題やりたい放題で、なんやねん、ということになっているのでしょう。
普通の就職をしたら、上司が嫌なやつとか取引相手が嫌なやつとか、別の苦労があるかもしれません。
あまり感情を入れずに、淡々と仕事として受け流すのが良いと思います。
薬剤師なら、薬の説明をしなければならないと決まりました。説明を聞くほうも、医師に先に病状に関して言われているので、なんで薬剤師がもう一回言うのだ面倒くさいという気持ちでいるかもしれません。薬の説明だけでよいでしょう。
しかし、こちらから話しかけるからには、相手も何か言いたくなるなら、接しているときだけ気を付けて、「へえ~、そうなんですね」とか「ああ、すみません」「はい、気を付けます」などと受け流す。相手の機嫌をもろに受ける必要はありません。
受け流すつもりでも、素直にやっていると、言葉の二の矢、三の矢が飛んできます。相手は機嫌が収まるまで収まらないので。それさえも全部、「はい、そうですね」と受け流し、やることをやって、その人の相手は終わり。
冷たくドライに接するというわけではありません。愛情とかその反対の憎悪とかではなく、ニュートラルな慈悲の気持ちで、感情の表面よりも奥底に慈悲の気持ちを入れながら、仕事をするのです。ガンガン怒鳴られても、その感情に向き合うのではなく、「ああ、この人はずっと仕事してきて今は体が動かなくなって思い通りにいかなくてイライラするのは無理もない」と理解して、「この人のイライラが消えますように」という気持ちで感情は受け流すのです。
多分、ベテランというか長続きしている人はそういうふうにドライに仕事をしていると思います。