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「唯除五逆誹謗正法」の正法とは何か?

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こんにちは。よろしくお願いします。
無量寿経に「唯除五逆誹謗正法」とありますがこの「正法」とはなんですか?
もし「正法」というものがあるなら先祖の供養をこの「正法」でしたいと思うのですが。

2022年6月14日 9:43

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お坊さんからの回答 2件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

正伝の仏法

分かりやすくたとえ話で。
( ゚Д゚)我こそは正法なり!釈尊伝来の正法を継承する者は我が宗のみ!さぁさぁ、この教えを信ずるがよい!さぁさぁ、献金・布施をしなさいと言わんばかりの新興宗教があるとします。その正法を標榜する宗教団体が票稼ぎや人集め、お金集めのために宗教や仏教を利用しているだけだったらその団体やその教えは果たして正法と言えましょうか?信者さんもそういうモンに騙されているレベル・程度であれば、世の中に騙しを生み出し続ける人でしかありませんよね。そういうまやかし教団やまやかし教理というものがいつの時代にもある。それは正法とは言えないのです。
正伝の仏法、正しい仏法、正法眼蔵とは、ちゃんとした救いの内容・作用・実績があるものです。
曹洞宗では印可証明を重んじる派閥があります。
ある程度修行すれば色の袈裟を着れるというようなものではなく、ちゃんと仏法の内容を明らかにして、諸仏の説かれた教えと寸分変わらない確かな内容を持っているかどうかの精査をされて、確かな救いの働きを持った教え。
私は疑い深い気質でしたので本山ブランドや名誉職ブランドには騙されるタイプではありませんでした。
曹洞宗の本山で10年修行しましたが、まだまだ青二才です。
仏道修行で問われる力とはキャリアや知名度や修行の長さではなく、きちんとした救いの内容をもった仏の法を明らかにする力があるかどうかなのです。
世の中の宗教も宗派も政治家も「我こそは王道」「われこそは正統の!」と主張するでしょうが、そういう言葉に騙されずあなたが本物を追求するべく道心をおこす。菩提心を発願する。私の言葉も含めて他人から言われた言葉を鵜呑みにするのではなく「本当に私が救われるきちんとした内容を持った教えだ…!」というクオリティの高い教えを求める事であなたにとっての正法がちゃんと見いだされるのです。
真の法、正法であれば、万人がすくわれるのです。
道元禅師も正法をもとめて遍歴されました。
あなたも是非、これを機縁として真剣に仏祖正伝の教えを求めてみてください。
たしかに救われる内容を持ったもの。
否定しようのない確かな教え。
人をして無上のやす頼に導く実効性のある教えはあります。
私もそのような教えによって救われた者です。
https://zazen.blog.jp/
井上貫道老師の動画をアップしております。ぜひご覧ください。

2022年6月14日 10:43
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有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

仏法のことです。狭くとらえると無量寿経そのもののことです。

『仏説無量寿経』の四十八願中、第十八願とその成就文にある「唯除五逆 誹謗正法」の「正法」とは仏法のことです。また、狭く言えば『仏説無量寿経』に説かれる往生の法のことです。

第十八願文を現代語訳すると
「わたし(法蔵菩薩)が仏(阿弥陀仏)になるとき、すべての人々が心から信じて、わたしの国(阿弥陀仏の浄土)に生れたいと願い、わずか十回でも念仏して、もし生れることができないようなら、わたしは決してさとりを開きません。ただし、五逆の罪を犯したり、仏の教えを誹るものだけは除かれます。」
となります。(本願寺出版社『浄土真宗聖典 浄土三部経 現代語訳』p.29 カッコ内は筆者が補いました)

『仏説無量寿経」に説かれる仏法をもとに浄土往生を願いながら、同じ仏法を誹る者は浄土往生できません、ということになります。

『仏説無量寿経』に説かれる仏法だけが仏法なのではありません。他の経に説かれる仏法もあります。この「唯除五逆 誹謗正法」の言葉は、自分の救いが説かれている経だけを大事にし、他の経を誹ったり蔑ろにしたりしないように戒めている面もあると思います。

無量寿経のこの文言について質問なさったということは、恐らく宙太郎さんは今も『仏説無量寿経』や、その中にある「讃仏偈」や「重誓偈」に触れたり読まれたりする機会がおありのようですから、現状がまさに先祖の供養を「正法」でなさっている状態になっていると思われます。ですから、それで大丈夫だと思います。

ただ、蛇足ながら、浄土真宗の僧侶のようなことを言わせてもらいますと、先祖供養のため、大切な方のためと思って宙太郎さんがなさっていることは、実は先にお浄土に往かれ仏さまになられた先祖や大切な方が、そうさせるご縁をくださって、その中でやっていることでもあります。

想像ですが、おそらく、悲しいご縁や辛いご縁が宙太郎さんに『仏説無量寿経』の存在や「唯除五逆 誹謗正法」という言葉に触れる機会を作ったのかと思います。そのようなご縁を通してでも、宙太郎さんに今も確実にはたらいてくださっているさまざまな尊いご縁があることを、ありがたいなと思います。

ありがとうございます。

2022年6月15日 8:45
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有り難し
おきもち

お寄せくださった質問について考えさせていただくことで、必ず回答できる場合ばかりではないと思いますが、わたしの方が勉強させていただくことができるのではないかと思っています。 そういえば、実生活の中でも悩みごとの相談を受け、一緒に考えることがあります。でもたいていの場合、質問した人は答を持っている場合が多かった/多いように思います。 そのような、「あるべき答え」が明らかになっていく、その途上にあるような回答ができたらいいなと思います。よろしくお願いします。

質問者からのお礼

納得はしてませんがありがとうございました。

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