回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
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涅槃を特殊なことにしない 人の体験にしない 自分でいまそこで
さきに申し上げておきますが、神秘体験や特殊なことにしないようにしましょう。
人間の元々の静寂性・静粛性を余念や主義思想をまぜこぜにせずに徹底的に追求すればいいのです。
今度お寺いって坐禅してみよっという態度は永久に無理。
いまここで、やってみる。
黙って自己の身心の作用に目を向けて、その知覚の作用に一切の思考の伴いのないところをじーっと見つめる。
すると視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚というものは「何かを感知・感受した時にはその事しかない」ということがわかるはずです。その事しかないというのはものを見たら「見えた・映った」ということがあるだけ。音が響けばその音が只そうある。呼吸も今まで何万回繰り返した分かりませんが、今の呼吸がそのように…。
そして体の感覚は皮膚が全身に覆われていながらも、今感覚が生じているところだけがその感覚を授かっております。耳があっても耳をわすれ、背中があっても背中を意識していない時はそれを忘れている。
さて、そこに思考の介入のなされが「ない」時がある。いつでも。もともと思考の伴いや介入はない。
手を叩いてみてください。
どっちの音が鳴ったとか、大きいだの小さいだの良いも悪いもない。
ただ✋パン!
そこに思考の伴いがない。観念を離れたただその音があるばかり。
心を見つめて、心を休めるということは能動意識を一切用いないことです。
能動意識を用いなければ人間は自分の五感の働きと作用があるだけです。
こちら側からやることが無いので自我意識が黙るようになる。
その様子を非思量と言います。
思考を離れて思考が作用しなくなる。思考活動と自我意識との程よい距離感がとれている。
今日は世間では痛ましい事件が起きてしまいましたが、その事も忘れてそのことを扱おうとする意識を手放せば、その事を取り合う意識が忘じられていく。
あらゆる出来事も情報もそれを取り扱う私意識があるからこそその事柄を取り扱う作用が生まれる。熱した鍋にものを入れなければジュ―!は起こらない。
心は鍋ではないので熱する必要はない。
自己の心史上最高の静寂を工夫すれば自我の能動意識を休めるよりほかにない。
するとその静寂の鍋、フライパンに何が乗ってもナベが何も言わないように心は何も言わなくなるのです。そのチョイと近くに涅槃とやらは現れます。
自分でとことん極めんと志すのみです。説明より実証あるのみ。
阿弥陀如来に救われる
どのような人も皆
阿弥陀如来に救われて往生し成仏します。
ですから
生前の行いは不問なので
雰囲気の善し悪しで
涅槃に達するわけではないです。
ただ
それを信じる方は
どなたも穏やかな方ばかりですね。
「どんな雰囲気か」と聞かれる以上、生きた肉体を残したまま、ですもんね。
基本的には、その人自身、縁起の理法(ダルマ)と一体化されて、その佇まい、一挙手一投足は完全に、過不足なく、理に適った、自然なものになります。
とはいえ、それを完全に見抜くためには、見る人自身も涅槃に近いところにいないと、中々わからないです。
普通の人には、なにが執着(不自然)かどうかの区別も中々、気づくことができないからです。
なので、仏教をよく学んで、ダルマ(法)のなんたるかを知って、少しずつ、涅槃の香りをキャッチできるように、修行していく必要があります。
とりあえず、こんなところで。
お釈迦様(ブッダ)とその弟子たち
お釈迦様はもちろん、その弟子達の中にも、最高の悟りに達した人々がいました。
岩波文庫で、複数の経典の翻訳を中村元さんが出しておられますし、それ以外でも、仏教経典に関する本を読んでみれば、お釈迦様や弟子達の雰囲気を感じられるかもしれません。
質問者からのお礼
ありがとうございます!