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有名人で涅槃に達した人はいますか?

回答数回答 4
有り難し有り難し 48

具体的に涅槃に達した人はどんな雰囲気なのか知りたいです。

誰かいますでしょうか?

2022年7月8日 20:14

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お坊さんからの回答 4件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

涅槃を特殊なことにしない 人の体験にしない 自分でいまそこで

さきに申し上げておきますが、神秘体験や特殊なことにしないようにしましょう。
人間の元々の静寂性・静粛性を余念や主義思想をまぜこぜにせずに徹底的に追求すればいいのです。
今度お寺いって坐禅してみよっという態度は永久に無理。
いまここで、やってみる。
黙って自己の身心の作用に目を向けて、その知覚の作用に一切の思考の伴いのないところをじーっと見つめる。
すると視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚というものは「何かを感知・感受した時にはその事しかない」ということがわかるはずです。その事しかないというのはものを見たら「見えた・映った」ということがあるだけ。音が響けばその音が只そうある。呼吸も今まで何万回繰り返した分かりませんが、今の呼吸がそのように…。
そして体の感覚は皮膚が全身に覆われていながらも、今感覚が生じているところだけがその感覚を授かっております。耳があっても耳をわすれ、背中があっても背中を意識していない時はそれを忘れている。
さて、そこに思考の介入のなされが「ない」時がある。いつでも。もともと思考の伴いや介入はない。
手を叩いてみてください。
どっちの音が鳴ったとか、大きいだの小さいだの良いも悪いもない。
ただ✋パン!
そこに思考の伴いがない。観念を離れたただその音があるばかり。
心を見つめて、心を休めるということは能動意識を一切用いないことです。
能動意識を用いなければ人間は自分の五感の働きと作用があるだけです。
こちら側からやることが無いので自我意識が黙るようになる。
その様子を非思量と言います。
思考を離れて思考が作用しなくなる。思考活動と自我意識との程よい距離感がとれている。
今日は世間では痛ましい事件が起きてしまいましたが、その事も忘れてそのことを扱おうとする意識を手放せば、その事を取り合う意識が忘じられていく。
あらゆる出来事も情報もそれを取り扱う私意識があるからこそその事柄を取り扱う作用が生まれる。熱した鍋にものを入れなければジュ―!は起こらない。
心は鍋ではないので熱する必要はない。
自己の心史上最高の静寂を工夫すれば自我の能動意識を休めるよりほかにない。
するとその静寂の鍋、フライパンに何が乗ってもナベが何も言わないように心は何も言わなくなるのです。そのチョイと近くに涅槃とやらは現れます。
自分でとことん極めんと志すのみです。説明より実証あるのみ。

2022年7月8日 22:44
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有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

阿弥陀如来に救われる

どのような人も皆
阿弥陀如来に救われて往生し成仏します。

ですから
生前の行いは不問なので
雰囲気の善し悪しで
涅槃に達するわけではないです。

ただ
それを信じる方は
どなたも穏やかな方ばかりですね。

2022年7月9日 11:37
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有り難し
おきもち

 浄土真宗(大谷派)/広島県広島市/17世住職。  1967年京都市生まれ。山形大学理学部卒業後、証券会社で勤務。30歳で脱サラし、親戚筋の超覚寺に入寺、45歳で住職継職。  遺族の分かち合いやお悩み相談などグリーフサポート活動を続け、お寺の掲示板による法語伝道にも尽力している。カープ坊主の会会員。
こちらに法事が入っていなければ、ご希望の日時に相談させていただきます。 想いを吐き出しても、あなたの環境は変わりませんが、あなたの気持ちは変わっていきます。 どうぞ安心してお話しください。

「どんな雰囲気か」と聞かれる以上、生きた肉体を残したまま、ですもんね。

基本的には、その人自身、縁起の理法(ダルマ)と一体化されて、その佇まい、一挙手一投足は完全に、過不足なく、理に適った、自然なものになります。

とはいえ、それを完全に見抜くためには、見る人自身も涅槃に近いところにいないと、中々わからないです。

普通の人には、なにが執着(不自然)かどうかの区別も中々、気づくことができないからです。

なので、仏教をよく学んで、ダルマ(法)のなんたるかを知って、少しずつ、涅槃の香りをキャッチできるように、修行していく必要があります。

とりあえず、こんなところで。

2022年7月9日 7:19
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有り難し
おきもち

個別相談可能
菩薩になりたいです。 仏教は、ほんとうにすばらしい教えだと思います。亡くなった方はもちろん、生きている人のためにも、少しでも法を広めることができればと思います。1988年生まれです。 以下のテーマについては、私にお任せください(^_-)-☆ ★★★ 仏教的な生き方とは何か? 縁起と空と中道とは何か? 慈悲、仏教のいう優しさとは何か? 大乗仏教は仏教なのか? 日本仏教と原始仏教は相容れるのか? 輪廻するとはどういうことか? 正しさ、真理、善とは何か?論理と倫理とは? 科学的正当性と仏教は相容れるのか? 罪悪感をどのように扱うか? 菩薩を目指すためにはどうすればいいか? ★★★ また、過去のオンライン相談では、菩提心を育む呼吸法について紹介しました。

お釈迦様(ブッダ)とその弟子たち

お釈迦様はもちろん、その弟子達の中にも、最高の悟りに達した人々がいました。
岩波文庫で、複数の経典の翻訳を中村元さんが出しておられますし、それ以外でも、仏教経典に関する本を読んでみれば、お釈迦様や弟子達の雰囲気を感じられるかもしれません。

2022年7月9日 6:23
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有り難し
おきもち

がんよじょうし。浄土宗教師。「○誉」は浄土宗の戒名に特有の「誉号」です。四十代男。 仏教は、悩み苦しみを制御したり消したりするための教えです。まだまだ未熟者の凡夫ですがよろしくお願いします。

質問者からのお礼

ありがとうございます!

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