仏教徒に対する疑問パート2
この掲示板に2度目の質問をしに来た者です 本日もよろしくお願いします
最近仏教について色々調べたんですが 仏教にも原始仏教と大乗仏教があるそうですね
そしてそれぞれの宗派ではお釈迦様に対する供述が違うようで・・・?
どちらを信じればいいかわからないのですが
なんとなく原始仏教のお釈迦様について考えることにしました
そしてある疑問にぶつかりました
お釈迦様は全ての煩悩を絶って涅槃入滅されたんですよね?
そして輪廻の輪から出て2度と生まれてくる必要もなくなった
それなのになぜ人々を救おうとするのですか?
人々を救おうとする考え自体も煩悩なのではないのですか?
五陰盛苦?を超越して全く煩悩がない白紙の状態になると一切の考えはもはや沸き起こらなくなり
人々を救おうなどとも考えなくなるんじゃないんですかね?
たとえ当初のお釈迦様は人々を救いたいために修行してても
涅槃入滅した状態になるともう昔のことなんてどうでもいいやってなるんじゃないですかね?
それなのにお釈迦様はまた人間界に戻って人々を救おうとしてるのはなぜですか?
お答え出来る方がいらっしゃったらお答えください
全ての煩悩の塊 100文字以内には収まらない
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
煩悩と決意の違い
こんばんは初めまして、どうぞよろしくお願い致します
お釈迦様は我々全ての存在が仏になれるということを目標としています。
煩悩とは心の苦しみでありその苦しみを滅しなければいけません。涅槃とはその煩悩の火が消えた状態を刺しており、決して全てが空っぽというわけではないのです。
煩悩=苦しみで、お釈迦様の決意は苦しみではありませんからそもそも煩悩ではありません。
また涅槃にも3つ意味が別にあります。
生きている状態で涅槃に入る…有余涅槃
煩悩が消えて、生の制約も消えた完全な涅槃…無余涅槃
本人は悟っているけど我々の為に涅槃に入らない…無住処涅槃
貴方の質問では3つ目の涅槃が該当するかと思います。
ですからお釈迦様はそもそも煩悩で我々を導くという気持ちになっているのではなく、お釈迦様の誓願はただひたすらに私達を導く為に向けられております。
お釈迦様が意思を持って行動するのは、その意思を私達が汲み取れるようにしてくれているからだと思います。機械に人の感情が分からず、理解してくれない物に私達は心を開きません。だからこそどこまでも人間臭く私達のレベルに自身を落として『一緒に成仏しようね』と手を差し伸べてくれているのがお釈迦様という存在なのだと思っております。
だからこそ
『私は常にみんなが早く心穏やかに成仏出来ますようにとお祈りしています』
という一文がお経の中にあるのです。
ご参考になれば幸いです
お釈迦様に煩悩はありませんよ
お釈迦様は自らの苦しみを乗り越えるために修行し瞑想し覚りに至りました。
その時はお釈迦様はとても気分が良く、このままずっと喜びに浸っていたいと思っていました。
また、この事を他の人に教えようとしても伝わらないだろうと思っていました。
しかし、以前共に苦行した5人の修行僧がお釈迦様の様子の以前との違い、体から光が出ているような雰囲気に気付き、お釈迦様に教えを願ったのです。
そこで説いた教えが中道、四諦、八正道です。
それを聞いた修行僧達はお釈迦様の教えに納得し、気付き、お釈迦様の弟子になりました。
つまり、お釈迦様には人を救いたいという煩悩や欲望は無かったのです。ただ、教えを受けたいと願った人達に、教えを授けたのです。
煩悩があったのはお釈迦様に救いを求めた人達なのです。
それでもあなたのように迷う人がいるから
自分だけ悟ってわーい、後はどうでもいーや、というような人間ではないのです。
自分が悟ろうが悟ってなかろうが困っている人がいるでしょう。
同じ人間として、困っている人がいたら自分のことのように手を差し伸べて、その苦しみを取り除けるのです。救ってあげようなんて思っちゃいません。
先程ある方からお電話がありました。
8時から45分くらい話しました。
こちらも別に「救おう」などと考えながらやっているのではなく、ただ自らが自らの行を行ずるのみです。
あなたは、きっと悟ったらこうなんじゃないかな、と悟ってない目線の推測でモノを言っておられるでしょう。そこを問題視されるとよいです。金メダル取っていない人が金メダルとったらきっとこうだべ、と思っても、その人は金メダルとってない一評論者なので、本当の説得力とはいえないのです。
あなたの推論とお釈迦様とが別行動をしているということが答えではないでしょうか。
あなたが学んだ仏教の結論と、仏教のおおもと、お釈迦様とのズレがあるということは、あなたの学んだ仏教「論」の方が間違っているとみるとよいでしょう。
お釈迦様ではない私たちが勝手にお釈迦様を語っても本人ではないのです。(あ、悪気はありません)
「大聖(仏陀)、法輪を転じ諸々の法相を顕示す。苦悩の衆生を度して、大歓喜を得せしめたまう。」
80年のご生涯の中で、法(自己)を顕示し(悟り)そのありようを説き続けた。
法を悟り、法のありようを説かれた。
説かれているのが、お釈迦様誕生以前からあるこの世の法そのものだから、お釈迦様が説かずとも、今もこの世に言葉や人を超えた「法」が常に説示されている=現成しているということであって、別にお釈迦様という歴史上の人物の舌を借りて説かれているということではありません。
舞い戻ってもいません。それは、空想仏教というもの。
悟った人は、「わたくし」を絶し、この世の法、法理そのものになる。
法のありようをそのものを説いているだけで、救おうなんて言う気持ちではない。
目の前にある様子の全てがいつでも仏法そのものだから、その真実のさまを説くだけです。
「こうなるんじゃかろうか」そういう推測・疑問が、あなたを迷わせているということは、今の現時点で正解ではないということです。正解ならばもっと晴れやかな気持ちになりますよ。(^<^)
質問者からのお礼
武田正幹様 聖章様 丹下 覚元様
無知で愚かな凡夫の質問に答えていただきありがとうございます
私は煩悩の意味を履き違えてました ウィキペディアで煩悩の意味を見たら苦の原因を作る悪い心で
三毒である貪欲、瞋恚、愚痴が根本となってる考えのことだったんですね
私は煩悩とは固定観念や偏見や塗り固まった考えだと思ってました
自分が善だと思い込んだことは実は他人からは悪だったり 青だと思い込んでるものは実は黄色だったり 有ると思い込んでるものは実は無かったり
自分のそういった考えこそがこの世界の真理にとっては単なる幻想でそれ自体が悪だと思い
人を救いたいとか ご飯が食べたいとか どこかで遊びたいとか 何気ない全ての考え自体が単なる幻想でそれ自体が煩悩だと思ってました
それとお釈迦様になったつもりでお釈迦様の考えを予測したわけではなくて
悟られた方はなぜそのような考えなのか?純粋に疑問に思ったのです
涅槃の状態になると苦しみの心は無くなり天上天下唯我独尊状態で最高なんですよね?
でもそれって苦行生活ではなく極楽生活に偏ってて悟りを得れてない煩悩だらけの状態なんじゃないですか?
その状態で人々を救おうとすることも煩悩なのかなと?思いまして
お釈迦様は仏法であり真理でありこの世そのものであるからこそ間違った仏教論を持った人にももっとわかるように説明してもらいたかったんですよ
蛇やカエルや虫ですらお釈迦様の説法を理解して悟ったのに私はまだまだ理解できない・・・(泣)
もうちょい仏教勉強して出直してきます 質問にお答えしていただいたお坊様 ありがとうございました