仏教はその目的の実践以外何もない(1)
「仏教の目的」とは「輪廻転生からの解脱」ですが、阿含経によれば、それだけと言う大変厳しい教えです。
従って、この説教は釈尊の予言通り、没後500年で滅亡したようです。
自己否定の説教では誰も就いていけなかったのでしょう。
現代の仏教は四苦ではなく多くは「老病死」の三苦となっていますが、滅亡した仏教では「生」が最大の問題です。
以下順を追って経典を眺めて見ます。
阿含経典 縁 (南伝 相応部経典 12.20. 縁 )
前略
「比丘たちよ、縁起とはなんであろうか。生によって老死がある、という。このことは如来が世に出ようとも、また出まいとも、定まっているものである。」(以下略)
(私見)
ここで「縁起」とは「生老病死」の四苦を言い、しかもそれは仏教とは関係のない、自然の摂理であると断定しています。
自然の摂理ですから、仏教はそれを救うことは出来ないと言う意味に取れます。
生まれたら苦しみを逃れるにはひたすら死を待つだけです。死ねば四苦から解放されます。
死後が無ければ、それですべて解決しますが、身体(色)は死んでも心(受想行識)は同時には死なないようです。身体は構造が複雑ですから故障しがちですが、心はその構造もわからず、臨死体験から想像すると多分空気のように軽いでしょうから、死ぬ要素が無いのでしょう。だから仏教では「死」を死と言わず「往生」と言っています。
従って仏教の救いは死後にあると言いうことになりますが、四苦が無いですから、仏教の出番は無い筈です。
多分前世に残った欲の記憶が、再び生へのあこがれになるのでないかと思います。
これは人間に限らずすべての動物に共通の営みでしょう。
これ等を生前に理解して実践し、再び出生しないよう救うのが滅亡した仏教です。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
阿含教典を読まれるのは感心です。
阿含教典にはひたすら死を待つだけとは書いていません。苦しみを取り除く為には八正道を実践しましょうと書いてあると思いますよ。
お返事ありがとうございます。
生まれてきたのも自然の摂理ですから自分は何も悪くないのですよ。
考え・思想の仏教と、釈尊が救われた(仏)法そのものとは別。
「仏教の目的」が「輪廻転生からの解脱」であるとすれば、いかにして解脱するか?ということを徹底的に追及することです。
その前に多くの人間が輪廻転生ということも「きっと輪廻とは、転生とは…」こういうことで「あろう」という勝手な推測をしてきたということがある。
古代のインドにおいての輪廻思想という輪廻もあるでしょう。
誰も死後の世界を見たこともないのに、死後の世界としての輪廻転生ということを想像する人も多いでしょう。理知的に申し上げれば、輪廻とは、ものに触れことに触れて、心が他方に向かうことともいえましょう。
Aということに本当に処しているときは、ただAということしかない。それしかない。それしかないのにもかかわらず、心はそれ以外のことを想像して、そちらに転ぜられる、転生せられる。
現代人に必要なのは、まず自分が自分の心によってあれこれ転生されっぱなしの無限輪廻からの解脱。
そういう解脱でなしに、死後の世界の輪廻転生や空想上の輪廻転生を立てているうちは実は仏道修行というものは始まらないのではないかと思っております。
正法像法末法という考えも永遠の予言、絶対の予言めいたものでもありません。
およそ、そういうことがないとは言えないにしても、あるいは、
およそ、そういうことがあるとも言えないにしても、大事なのは個人。
禅宗では「末法を正法にめぐらし」と回向する。
今がマッポウぢゃというのであれば、それを言うやつは誰か?みんなこのアタマ。
末法だ末法だと思い込めば、その人は末法というフレーズに縛られる。
みずから解脱の道を捨てる選択をするのでしょう。
それは一種の自己洗脳でもあるといえます。
生ということも、人生が苦しみなのではなく、生まれを選べないという苦。苦とは思い通りにならないこと、願い通りにならない事実を言うわけでもあります。生きていることが苦しみだというならばこれを読む間も記す間もありませんわい。
「縁起」とは縁りて起こること。この世のすべての現象が縁りて起こらざるものはなし。
この回答ですらあなたが質問しなければ回答されない。
回答したくない僧が回答しないのも縁りて起こる無回答。
昔の仏教がこうぢゃった、ああだったといっても、それを扱う人は現代、個人、あなた。あなたが現代において心底すくわれる明晰な見解、叡智を求めることで、直接仏から阿含(伝承)されるでしょう。
質問者からのお礼
聖章御住職様 ご指導を有難うございます。
実は私は阿含経をすべて読んだわけではありません。ほんの基本部分で、あとはその繰り返しのようだったので、途中でやめました。
八正道はたしか成仏法の最初の実践方法ではなかったでしょうか?八正道を修得した後、瞑想に依る成仏法の実践にはいるのでしょうか?
精神的な苦しみには充分効果があると思いますが、不慮の災害による大けがなどの苦しみには難しいのではないでしょうか?
老病死は自然の摂理ですから、生まれた自分が悪いのだと腹をくくるしかないと思います。
丹下覚元御住職様
ご指導を有難うございます。
多分このようなご指導を頂けると予測していました。
その為にこの投稿の前に「神通力」を投稿しました。
私の考えではなく、水野弘元先生の書物から、引用したのです。
単純に考えて、目的に「輪廻転生」とあってそれが事実ではないとは思われません。
説教は知らない人に知恵を授けるのですから、難しい解釈ではなくて、「生まれ変わり」で良いのではありませんか?
般若経にも各所に「この人は生まれ変わらない」という言葉が出ています。
この投稿は現代の仏教ではなく「滅亡した仏教」と断っています。
現代の仏教は「命の尊厳」を基底としていますが、滅亡した仏教は「命の尊厳」のかけらもありません。滅ぶべくして滅んだのです。