結婚という欲望を捨てるべきか
ブッダは、欲望を捨てれば苦しみは消えると仰ったと理解しています。
私は4年間婚活をし、1年前に婚活をやめました。二人で会った人で数えるなら61人中61人に振られてきました。私に結婚が難しいことは理解しています。
ブッダの教えに従うならば、結婚したいという欲望を捨てれば私は苦しみから解放されるということになります。
ただ、本当にそれでよいのか考えています。
諦めることで将来後悔するのではないか、向いていないことから逃げるのが良い生き方なのか、とも考えるのです。
このような話をすると、「いつかいい人に出会えるよ」「結婚するかしないかは今決めずに、できたらするくらいがいいよ」などと言われます。
61人中61人に振られた人を好きになる人がいるのでしょうか、婚活しても結婚できなかった人が「できたらする」程度で結婚できるのでしょうか。
そもそも、なぜ結婚したいのかも、実は分からないのです。ないものねだりをしているのではないかとも思うのです。61人に振られたと申しましたが、そのうち40人くらいは私も振った人です。選ばれない分際で選んでいるのです。
また、結婚することで何をしたいのかも、分からないのです。私の個人的な悩みを解消するために誰かに結婚してもらっても、その人は不幸でしょう。
子供を欲しいと思いますが、それがなぜなのかも分からないのです。本能だからでしょうか。
このように考えると結婚という欲望は捨てるべきだという結論になるでしょう。
ただそうすると、世の婚活を否定することにもなるのです。「婚活頑張っています」と言う人に「そんな欲望は捨てろ」とは言えません。
ここに矛盾が発生しました。
そもそも欲望はなくてよいのでしょうか。ブッダへの挑戦状ともとれる発言ですが。
子孫を残したいという煩悩があるから生物は世代を継いでゆくのです。金が欲しいという煩悩があるから資本主義社会が成り立つのです。
私は結婚したいという欲望を捨てるべなのか、
欲望を追い求める人生と諦めた人生、どちらが幸せなのか、
こういうことを考えていること自体が、結婚したいという前提に立っていることの証左であることは自覚しています。
結婚という欲望についてお考えを伺えますと幸いです。
家族構成 母 それぞれ一人暮らし 事故や疾患履歴 特筆することは無し 過去の出来事 四大卒業後会社員に 性格 コミュ力や言語能力低し 物忘れ多し
私には結婚への煩悩があります。煩悩を捨てれば悩みは消えるというブッダの教えに従うなら、結婚したいという煩悩を捨てれば私の苦しみはなくなるのです。でも本当にそれでいいのか考えています。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
結婚する=欲望なのでしょうか?
そもそも結婚することが欲望と捉えられるのでしょうか。私の中では、ご縁があって出逢った人同士が一緒になりたいと思ったので一緒になったという結果が結婚であり、どうしてもしたい。しなければ生きていけない。というものでないように思います。
しかしながら、未だに(我々僧侶の世界は特にそのように感じます)、結婚していないとおかしい。結婚して一人前だ。という時代錯誤な考えがまかり通ってしまっていることも事実です。
もちろん、結婚しようとされる姿勢が悪いとは言いません。けど、もし無理やり結婚しなければならないと思っておられるのでしたら無理に考える必要はないように思います。
『欲望を捨てよ』そんな大仰なことを申し上げるつもりは毛頭ありません。けど、もし『〜したい』の奥に『〜しなければならない』という思いがおありになるなら、そこから離れることも選択の一つであるように思います。
回答になっていないかも知れませんが、私自身も何度も悩んだ(今も悩んでいる?)問題なんで、書かせて頂きました。
手に負えない欲望でなければ
ご相談ありがとうございます。
後段あたりのご論説、私も同意見です。命を繋いでいくのも、この社会経済がまわるのも、俯瞰すれば「人の欲」の為すところです。
でも、人が人を殺めるのも、社会経済を混乱に陥れるのも、同じように人の欲の為すところ、これは何とも皮肉なことですよね。
他方、例えば欲望を捨てるとか、何かを諦めるとか、その先にある目的は何なのでしょうか。貴方と情けでご結婚された人が「不幸せになる」のは、いつの時点で誰が決めることなのでしょうか。
私は欲、もっと言えば(一般的に言うところの)煩悩すら持ち続けて良いと思います。でも、要らないと思うのなら捨てても良いと思います。
なぜならば、許容範囲を超えた感情は、いつも人の心を乱し、判断を狂わせますが、「想いに心身が操られない」のであれば、それがある程度抑制可能でコントローラブルなものであれば、生きる活力の源泉として抱き続けていい、と考えているからです。
幸せは十人十色、今の自分にとって正直に、どうすることが自分らしい生き方になるのか、そこを大事にして人生の選択をすることこそ、いずれ本当の幸せに結びつくものと信じています。
迷いを払拭し執着から離れ、誠意ある言動と自然体な自分を大事にすれば、いつか必ず運命の人に出逢えるはずです。
漢30代、人生これから。是非とも頑張ってください。合掌。
結婚したいという欲望が悪いわけではありません
「欲望を捨てれば苦しみは消える」というのは正確ではなく、「倶生の諦執」、つまり、「無明」を対治することにより苦しみを取り除くようにしていくことが求められるところとなるのであります。
「欲望」が全て悪いわけではありません。
欲望に付随しての煩悩(諦執による悪い感情)、その煩悩によっての行い(悪業)が悪いということになるのであります。
結婚したいという欲望が悪いわけではありません。その結婚したいという欲望に付随しての煩悩、その煩悩による行いが良くないと考えるのであります。例えば、結婚したいからと、嘘をついたり、騙したりとかです。
結婚へと向けては、色々と良いご縁を一つ一つ調えて、丁寧に紡ぎ集めていくことが大切となります。まだまだ、どこに、いつにご縁があるかはわからないものであります。一つ一つにはなるかと存じます。
合掌
質問者からのお礼
TAIKEN様
ご回答いただき有り難うございます。
【TAIKEN様の疑問にお答えします】
●「欲望を捨てるとか~目的は何なのでしょうか。」
→目的は悩みの無い人生を送ることです。
●「貴方と情けで~いつの時点で誰が~」
→私の結婚への動機が、お相手を大事にしたいとかそういうことではなく、私の劣等感を解決するためとかであった場合、お相手をがそれに気づいたときに不幸になるということです。事実、劣等感などはあり、そのようなことを懸念しています。
【私の疑問】
●「迷いを払拭し執着から離れ~運命の人に出逢える」
→結婚しようと思わなくなれば結婚できるということでしょうか。そのようなことがあるのでしょうか。
【その他考えたこと】
あってもよい欲望というのは、許容範囲を超えた感情にさせない、心身を操られない程度であることが判断基準になるのですね。しかし、それを判断するのが自分である以上、正確な判断は難しいですね。
その前提で申しますが、結婚したい欲望に操られているように思います。かといって簡単にその欲望を捨てられないので悩んでいるわけです。欲望を捨てる勇気が無いのです。
仏道修行をすれば欲望を捨てられるでしょうか。
Eishun Kawaguchi様
ご回答いただき有り難うございます。
『「倶生の諦執」、つまり、「無明」を対治すること』が難しいので調べましたが、『煩悩を捨て去った境地、つまり無知であることを知り学ぶこと』、といったところでしょうか。
今回の相談内容に当てはめるなら、私が学ぶべきことは、欲望や悪い感情、悪行についてでしょうか。
・欲望は持っていますが、それは良いのですね。
・悪い感情は持っています。既婚者や交際相手がいる人に対する劣等感や妬みなどです。
・悪行をしようというつもりはありません。
悪い感情について学ぶには、仏道修行が良いでしょうか。
安藤春之様
ご回答いただき有り難うございます。
「ご縁があって出逢った人同士が~結果が結婚であり」
→そこも私が考えていることです。結婚したい相手がいないのに結婚したいとはどういう感情なんだと。「食べたい物は無いけど飲食店に行きたい」みたいなことですね。
ただ、これも世の婚活を否定することになるのです。
安藤様が仰る順序が理想なのですが、その方法が取れない場合にどうすべきかを考えているのです。
「無理やり結婚しなければならないと思っておられるのでしたら」
→無理やりしなければならないとまでは思っていないと自覚しています。
相談でも申しましたが、なぜ結婚したいのか自分でも分からないのです。
他人にできることが自分はできないことが妬ましいから、負けた気がするからでしょうか。
子供が欲しいのもありますが、なぜ子供が欲しいのでしょうか。可愛いからでしょうか。それならペットでもよいのではないでしょうか。
自分でも分かりません。
このような考えの人は結婚できるはずがありませんね。なぜ結婚したいのかを見つけたいのですが、例えば仏道修行をすれば見つかるでしょうか。