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ヨガをすることについて

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有り難し有り難し 18

いつもお世話になっています。

前にヨガを少ししていたのですが、ヨガは仏教と関係があると知り、私がヨガをしてもよいものかと迷いが出て、しなくなりました。

というのも、私は以前より、仏様に対し繰り返し酷いことを考えたり、そのことに対し反省ができなかったり、ちゃんと感謝の気持ちが持てずにいます。ここまで仏教の教えに反することをしている私がヨガをするのは良くないですよね。

ヨガの中でも、合掌や太陽礼拝のポーズ、手のひらを上にして親指と人差し指で円を作るポーズなどは特にこわいです。酷いことを考えてしまうことが目に見えています。

また、仏教に関連することをジャージを着たまましても良いのか?など考えています。

ですが、またヨガをしたいと思ってしまっています。ご意見お願いします。

2023年10月1日 16:59

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お坊さんからの回答 2件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

仏教とヨガは別物です。

仏教とヨガはお互いに影響しあってはいますが、基本的には別物です。
ご自身のお考えが仏教と相容れないからといってヨガをしてはいけないということはありません。
ヨガにもいろいろあります。非常に神秘的な思想を体現するようなものから、体操ヨガと呼ばれるものまでさまざまです。
いろいろ試してみて、ご自身に合うと思われるヨガの実践をされると良いと思います。
心配ありません。大丈夫です。

2023年10月1日 19:45
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有り難し
おきもち

新潟県上越市、龍興山宗恩寺住職。

自分のための坐禅瞑想ヨガよりも菩提心ある坐禅瞑想ヨガを

もし、ヨガをする、坐禅をする、瞑想をするにしても、
アタシのためのヨガ、アタクシのためのヨガ、自分のための坐禅、自分のための瞑想とか、自分のナンチャラのための「それ」をするのであれば、厳しい言い方かもしれませんが、いくらやっても自分のエゴイズムの厚化粧になるだけです。わかりやすく言うと、ガツガツした他人を見下すようなモデルさんがアタシがアタシのためのォアタシが一番になるためのォ高いお金を出しィの、アタシのためだけのォみたいな。
そうでなければヨガでも坐禅でも瞑想でもいいと思います。
私は菩提心を大事にしております。
自分のためではなく、そのことのよい功徳、良い作用のために。
私も当初、そうとは知らずに自分のナンチャラのためにやっていたことがありますが、それがベースにあるとズレていく。

仏教の僧侶や学者でも一歩道を誤れば世のため人のため仏教のためと言いつつも己のためにやる人も多いでしょう。
仏教に身を投じつつも自己実現欲求や自分の何かを高めるために仏教を上手に踏み台にしているような人は少なくない。
だから道元禅師は、そういうところを厳しく非難されました。自分のためにそれをやっても駄目だよ、と。なぜダメなのかといえば、自分のナンチャラのためにやることって、結局、わが身可愛さの増長にしかならない面があるのです。
仏や神や気高いものよりも自分の立ち位置が気高くなっちゃうのです。
同じようにヨガをやるにしても坐禅をやるにしても、瞑想をやるにしても同じこと。
仏教を敬う精神がおありなのでしたら、そこのところを🍢つんつんしてみると何か別のステージが開かれるかもしれません。
たとえば(*´👄`)アタシがアタシのための美容、アタシのための快楽、アタシのコンディションを高めるためのゆえにヨガをしてアタシのための活動をするとなると、その行きつく先はどこでしょう。
自分のためのヨガ、坐禅、瞑想をするというのであれば、それは目的がだんだんずれてくる。自分のなぐさみもののためにそれをしているということにすらなりかねないわけです。
あなたもヨガをやる上において何か違う、どこか違うのではないか?という思いがあるのでしたら、そこを見極めたうえで道を追求なさることです。
自分の上乗せ、自分が自分の自分エゴを満たすためのゆえにそれをするならば誰も喜ばないヨガ、瞑想、坐禅をすることになるのです。

2023年10月2日 10:31
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有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

質問者からのお礼

百目鬼洋一様
お礼が遅くなり申し訳ありません。おこたえいただきありがとうございます。仏教とヨガは別物なのですね。考えが仏教と相容れないからといってヨガをしてはいけないということはないということをお聞きし、少し安心しました。

丹下覚元様
おこたえいただきありがとうございます。お礼が遅くなり申し訳ありません。
何度も読ませていただきましたが、私の考えがいたらないばかりに、お教えいただいている意味をしっかりと理解できずにいます。自分のためにヨガやその他色んなことをするというのは無駄であるというのはなぜなのでしょうか。私はヨガを自分のために(身体を柔軟にしたりや心を落ち着かせたいため)したいと思っていました。他にも自分のために髪をカラーしたり服を買ったりしています。これも良くないことになりますか?
どのような心持ちであれば大丈夫なのかなど、もしよろしければまた教えていただけませんでしょうか。

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