hasunoha お坊さんが必ず答えてくれるお悩み相談サイト

お坊さんに質問する
メニュー
メニューを閉じる

ヨガをすることについて

回答数回答 2
有り難し有り難し 16

いつもお世話になっています。

前にヨガを少ししていたのですが、ヨガは仏教と関係があると知り、私がヨガをしてもよいものかと迷いが出て、しなくなりました。

というのも、私は以前より、仏様に対し繰り返し酷いことを考えたり、そのことに対し反省ができなかったり、ちゃんと感謝の気持ちが持てずにいます。ここまで仏教の教えに反することをしている私がヨガをするのは良くないですよね。

ヨガの中でも、合掌や太陽礼拝のポーズ、手のひらを上にして親指と人差し指で円を作るポーズなどは特にこわいです。酷いことを考えてしまうことが目に見えています。

また、仏教に関連することをジャージを着たまましても良いのか?など考えています。

ですが、またヨガをしたいと思ってしまっています。ご意見お願いします。

2023年10月1日 16:59

この問答を娑婆にも伝える
facebookTwitterLine

お坊さんからの回答 2件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

仏教とヨガは別物です。

仏教とヨガはお互いに影響しあってはいますが、基本的には別物です。
ご自身のお考えが仏教と相容れないからといってヨガをしてはいけないということはありません。
ヨガにもいろいろあります。非常に神秘的な思想を体現するようなものから、体操ヨガと呼ばれるものまでさまざまです。
いろいろ試してみて、ご自身に合うと思われるヨガの実践をされると良いと思います。
心配ありません。大丈夫です。

2023年10月1日 19:45
{{count}}
有り難し
おきもち

新潟県上越市、龍興山宗恩寺住職。
このお坊さんを応援する

自分のための坐禅瞑想ヨガよりも菩提心ある坐禅瞑想ヨガを

もし、ヨガをする、坐禅をする、瞑想をするにしても、
アタシのためのヨガ、アタクシのためのヨガ、自分のための坐禅、自分のための瞑想とか、自分のナンチャラのための「それ」をするのであれば、厳しい言い方かもしれませんが、いくらやっても自分のエゴイズムの厚化粧になるだけです。わかりやすく言うと、ガツガツした他人を見下すようなモデルさんがアタシがアタシのためのォアタシが一番になるためのォ高いお金を出しィの、アタシのためだけのォみたいな。
そうでなければヨガでも坐禅でも瞑想でもいいと思います。
私は菩提心を大事にしております。
自分のためではなく、そのことのよい功徳、良い作用のために。
私も当初、そうとは知らずに自分のナンチャラのためにやっていたことがありますが、それがベースにあるとズレていく。

仏教の僧侶や学者でも一歩道を誤れば世のため人のため仏教のためと言いつつも己のためにやる人も多いでしょう。
仏教に身を投じつつも自己実現欲求や自分の何かを高めるために仏教を上手に踏み台にしているような人は少なくない。
だから道元禅師は、そういうところを厳しく非難されました。自分のためにそれをやっても駄目だよ、と。なぜダメなのかといえば、自分のナンチャラのためにやることって、結局、わが身可愛さの増長にしかならない面があるのです。
仏や神や気高いものよりも自分の立ち位置が気高くなっちゃうのです。
同じようにヨガをやるにしても坐禅をやるにしても、瞑想をやるにしても同じこと。
仏教を敬う精神がおありなのでしたら、そこのところを🍢つんつんしてみると何か別のステージが開かれるかもしれません。
たとえば(*´👄`)アタシがアタシのための美容、アタシのための快楽、アタシのコンディションを高めるためのゆえにヨガをしてアタシのための活動をするとなると、その行きつく先はどこでしょう。
自分のためのヨガ、坐禅、瞑想をするというのであれば、それは目的がだんだんずれてくる。自分のなぐさみもののためにそれをしているということにすらなりかねないわけです。
あなたもヨガをやる上において何か違う、どこか違うのではないか?という思いがあるのでしたら、そこを見極めたうえで道を追求なさることです。
自分の上乗せ、自分が自分の自分エゴを満たすためのゆえにそれをするならば誰も喜ばないヨガ、瞑想、坐禅をすることになるのです。

2023年10月2日 10:31
{{count}}
有り難し
おきもち

質問者からのお礼

百目鬼洋一様
お礼が遅くなり申し訳ありません。おこたえいただきありがとうございます。仏教とヨガは別物なのですね。考えが仏教と相容れないからといってヨガをしてはいけないということはないということをお聞きし、少し安心しました。

丹下覚元様
おこたえいただきありがとうございます。お礼が遅くなり申し訳ありません。
何度も読ませていただきましたが、私の考えがいたらないばかりに、お教えいただいている意味をしっかりと理解できずにいます。自分のためにヨガやその他色んなことをするというのは無駄であるというのはなぜなのでしょうか。私はヨガを自分のために(身体を柔軟にしたりや心を落ち着かせたいため)したいと思っていました。他にも自分のために髪をカラーしたり服を買ったりしています。これも良くないことになりますか?
どのような心持ちであれば大丈夫なのかなど、もしよろしければまた教えていただけませんでしょうか。

「仏教全般」問答一覧

お金なんて要らんと貫いた心

神仏への信仰心がとても篤かった医療人のお話です。 その人は幼き時に難病で視力を失い、家督を譲って琵琶法師と鍼師のどちらかを選ぶときに医の道を選んだそうです。親には「二度と家の敷居をまたぐでないぞ」と突き出され、入門先の師匠は「素足に埃が付いたら掃除やり直し」覚えも良くなく、ある日鍼を持たせてもらった時には、患者さんが痛さで悲鳴と怒号のクレーム続出…ことごとく破門。 後がなく生死をかけ岩屋に篭もって断食修行、無我の境地で空腹に転び手にした松葉(鍼のような)と、くるまった落葉を元に、のちの管鍼法を発案。「これなら患者さんも痛がらずに下手な自分でも施せる」心の清らかな和一さん、あれよあれよと出世し果ては将軍の病まで治癒。「よくやった和一よ、褒美を与える。何でも申せ」と将軍、ところが見返りを求めなかった和一先生、儲けは要らんと一旦断るも、当時の上下関係では言語道断。お互いにプライドがゆるさず譲り合わなかった末(流石の将軍もこれで諦めるであろうと、盲目の自分に)「ひとつ、目が欲しゅうございます」と頓智を効かせたところ「わかった」と将軍は引き下がり、しばらくして江戸の一ツ目という地名の土地に、「盲目と老体が遠方まで行かずともお参りできるように」と江ノ島の弁財天様を勧請、老いても尚熱心に参詣を怠らぬ和一検校を自分のケアスタッフとして「そばに置いておきたかった」のもあり、治療院のみならず弟子の養成所と神社まで併設、そして今も残るそうです ハンデがあっても自立して生きていける術を磨く、世界初の視覚障害者用職業養成機関は、実は江戸時代に「盲目となり家を出され、師弟関係も破門され…住むところもお金もなく、仕事のセンスにも恵まれず…只管に神仏に手を合わせ続けた」信仰篤き偉人の苦労の先に日本で生まれた逸話、私は大好きです! 話が長くなりましたが、私も勉強をし指圧師となって施術をしたいと毎日仕事に明け暮れています。元ヤン僧侶さんは「目標が半端ねぇ。もっと効率的にガッツリ考えろ」と喝を入れてくださいました(笑)息を吸うように朝日が昇れば仕事が入ってきて、6月は休みなしで母の日から連勤達成更新中です。今の仕事も好きですが、やっぱり指圧を専門学校で学びたい。 先日お寺でふと仏様から「前へ。只管に進みなさい」と声が聴こえた氣が…私の指圧を喜んでくれた母の為にも入学が叶うようエールをいただけますか。

有り難し有り難し 6
回答数回答 2

温かい気持ちになるお坊さん説法まとめ