ヨガをすることについて
いつもお世話になっています。
前にヨガを少ししていたのですが、ヨガは仏教と関係があると知り、私がヨガをしてもよいものかと迷いが出て、しなくなりました。
というのも、私は以前より、仏様に対し繰り返し酷いことを考えたり、そのことに対し反省ができなかったり、ちゃんと感謝の気持ちが持てずにいます。ここまで仏教の教えに反することをしている私がヨガをするのは良くないですよね。
ヨガの中でも、合掌や太陽礼拝のポーズ、手のひらを上にして親指と人差し指で円を作るポーズなどは特にこわいです。酷いことを考えてしまうことが目に見えています。
また、仏教に関連することをジャージを着たまましても良いのか?など考えています。
ですが、またヨガをしたいと思ってしまっています。ご意見お願いします。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
仏教とヨガは別物です。
仏教とヨガはお互いに影響しあってはいますが、基本的には別物です。
ご自身のお考えが仏教と相容れないからといってヨガをしてはいけないということはありません。
ヨガにもいろいろあります。非常に神秘的な思想を体現するようなものから、体操ヨガと呼ばれるものまでさまざまです。
いろいろ試してみて、ご自身に合うと思われるヨガの実践をされると良いと思います。
心配ありません。大丈夫です。
自分のための坐禅瞑想ヨガよりも菩提心ある坐禅瞑想ヨガを
もし、ヨガをする、坐禅をする、瞑想をするにしても、
アタシのためのヨガ、アタクシのためのヨガ、自分のための坐禅、自分のための瞑想とか、自分のナンチャラのための「それ」をするのであれば、厳しい言い方かもしれませんが、いくらやっても自分のエゴイズムの厚化粧になるだけです。わかりやすく言うと、ガツガツした他人を見下すようなモデルさんがアタシがアタシのためのォアタシが一番になるためのォ高いお金を出しィの、アタシのためだけのォみたいな。
そうでなければヨガでも坐禅でも瞑想でもいいと思います。
私は菩提心を大事にしております。
自分のためではなく、そのことのよい功徳、良い作用のために。
私も当初、そうとは知らずに自分のナンチャラのためにやっていたことがありますが、それがベースにあるとズレていく。
仏教の僧侶や学者でも一歩道を誤れば世のため人のため仏教のためと言いつつも己のためにやる人も多いでしょう。
仏教に身を投じつつも自己実現欲求や自分の何かを高めるために仏教を上手に踏み台にしているような人は少なくない。
だから道元禅師は、そういうところを厳しく非難されました。自分のためにそれをやっても駄目だよ、と。なぜダメなのかといえば、自分のナンチャラのためにやることって、結局、わが身可愛さの増長にしかならない面があるのです。
仏や神や気高いものよりも自分の立ち位置が気高くなっちゃうのです。
同じようにヨガをやるにしても坐禅をやるにしても、瞑想をやるにしても同じこと。
仏教を敬う精神がおありなのでしたら、そこのところを🍢つんつんしてみると何か別のステージが開かれるかもしれません。
たとえば(*´👄`)アタシがアタシのための美容、アタシのための快楽、アタシのコンディションを高めるためのゆえにヨガをしてアタシのための活動をするとなると、その行きつく先はどこでしょう。
自分のためのヨガ、坐禅、瞑想をするというのであれば、それは目的がだんだんずれてくる。自分のなぐさみもののためにそれをしているということにすらなりかねないわけです。
あなたもヨガをやる上において何か違う、どこか違うのではないか?という思いがあるのでしたら、そこを見極めたうえで道を追求なさることです。
自分の上乗せ、自分が自分の自分エゴを満たすためのゆえにそれをするならば誰も喜ばないヨガ、瞑想、坐禅をすることになるのです。
質問者からのお礼
百目鬼洋一様
お礼が遅くなり申し訳ありません。おこたえいただきありがとうございます。仏教とヨガは別物なのですね。考えが仏教と相容れないからといってヨガをしてはいけないということはないということをお聞きし、少し安心しました。
丹下覚元様
おこたえいただきありがとうございます。お礼が遅くなり申し訳ありません。
何度も読ませていただきましたが、私の考えがいたらないばかりに、お教えいただいている意味をしっかりと理解できずにいます。自分のためにヨガやその他色んなことをするというのは無駄であるというのはなぜなのでしょうか。私はヨガを自分のために(身体を柔軟にしたりや心を落ち着かせたいため)したいと思っていました。他にも自分のために髪をカラーしたり服を買ったりしています。これも良くないことになりますか?
どのような心持ちであれば大丈夫なのかなど、もしよろしければまた教えていただけませんでしょうか。