自分の生活は仏教的に正しいの?
障害福祉サービスの相談支援専門員をしていて、行政の相談員も兼務しています。
相談業務に異動になった事で高いソーシャルスキルを求められる様になり、自分なりに色々と努力して、辿り着いたのが「仏」という存在でした。
・自分が無力な存在であると認める。
・相手の悪い部分にばかり目を向けず、必ず良いところもあると認める。
・相手が自分と真っ向から対立する意見を言っても一旦は受容する。
・相手の行動に苛立っても「自分の思い道りに動かない」という事に対するエゴであると認識する。
・どんな事があっても怒らない。
・毎朝、お経を唱え線香をあげる。
・礼拝、法話、法具磨きなどに参加する
これらを実践する事で「入社したばかりの頃はヤクザが入ってきた様な威圧感があったけど、最近は変わったね」と言われる様になりました。
しかし、いつもニコニコして人間関係を円滑に進めるだけの生き方が「仏教的に正しい生き方なのか?」という疑問が沸いてきました。
僧侶の方というと「いつも寄り添って話を聞いてくれる」というイメージがありますが、時には怒ることや自分の主張を通す様なエゴも必要なのでしょうか?
ご回答よろしくお願いします。
お坊さんからの回答 5件
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
『諦観』自分の姿をそのままに、あきらかに見ていくこと。
なかなか仏様のようには、いかないですよね。人間ですものね。
してはならないということに固執するよりも、なぜそうなってしまうのか、自分の姿をしっかりと見ることが大事です。
「諦観たいかん・ていかん」あきらかに見るということです。見えること、見たくないこと、秘めていること、本来の自分の姿を、そのままに見ていくことで、今の現状を受け入れていくのです。今の私を見ずして、求めるものには届かない。
怒るときには、何があり、どんな気持ちがあるのか。
自分の主張を通すときは、どういう考えがあるからなのか。
それは本当に望むことなのか。そうならないための道(選択)はないのだろうか。様々な方面から考えたのだろうか。他の意見も聞いてみたのだろうか。必要なのだろうか。本当に自分は、そう考えているのだろうか。それが正しいことか。幸せなのか。今なのか…。
自分を見るって、しているようで、出来ていない。この私という存在をどのように捉えるのか。大事な生き方を見ていくことが、進むべき正しい道なのでしょう。
相談業務に携わる身として、自分は、相手に何をする立場なのか。
私は日頃、行政の相談支援員として、相手が直面している問題を自分自身でも解決していけるように、エンパワーメントしながら伴走していくことを大事にしています。そのために何が課題かを、カウンセリングしていく。ニコニコ円滑に進めるだけでは、解決には向かいません。一緒に悩み、一緒に歩む。相談支援員としての努めと、自分の生き方は、分けて考えていきましょうね。
仏教の考え方では「行」は見かけだけではなく意思が問われます
仏教の考え方では「行」は見かけだけではなく意思が問われます。
たとえば、「給食の牛乳を残したい」という子供の話を「いいよ」と許したとします。
この時に、
(1)子供の体調や事情を考えて許す。
(2)子供の親からクレームが来るのが面倒だから許す。
という二つの場合があるとします。
この二つは見かけ上は同じ言動に見えても、実際にはなぜ行われたのかが全く違っています。(1)は慈悲による善行と言えるでしょうし、(2)は慢心による悪行とも言えるでしょう。
このように見かけ上は同じようでもその意思によって、仏教的に正しいか正しくないかが違ってきます。
仏教ではエゴを克服しなさいと説かれます。
人は何かを考え行動する時に、どうしても自分を中心に考えてしまいます。私たちは何よりも自分自身、自己都合が大事なのです。そのために、本来どう考えて行動すべきかという判断が歪みます。
自己都合とその場の状況がぶつからないケースでは、選ぶべき行動をそのままとっても不都合は起りません。ですが、同じような選択をすべき時に状況が自分にとって都合が悪い時、同じ行動がとれるでしょうか。たいていの場合、あれこれ理屈をつけて自己都合にそった行動をとってしまうものです。
それでは相手のためにもならないし、自分のためにもならないというのが仏教の教えです。
”高いソーシャルスキル”で”いつもニコニコして人間関係を円滑に進める”行動が、誰のためにと意識されているかが大事になってきます。そしてまた、”時には怒ること”が誰のためかということが大事になってきます。
そうはいっても、スイッチのように急に自分の気持ちをパチンと切り替えることはできません。徐々に徐々にしか良い形に整っていきません。
ですから私たちは、その都度その都度、今自分がどのような意思で行動しているのか、自分自身を観察して油断しないことが求められます。
仏教的に正しくありません
あなたが実践しているという7項目のうち、残念ながら、「どんな事があっても怒らない」以外の6項目は仏教の教えではありません。
「自分が無力な存在であると認める」などとは、お釈迦様は一言も言っていません。
「相手の悪い部分にばかり目を向けず、必ず良いところもあると認める」も同様です。
いったいどこで、それが仏教の教えであると学ばれたのでしょうか。
当然ながら、ニコニコして人間関係を円滑に進めるだけの生き方が、仏教的に正しい生き方ではありません。
和合と協調を実現したうえで、自分に課せられた仕事を果たすことが、仏教的に正しい生き方です。
あなたが本当に仏教を学びたいのであれば、信頼できる僧侶の指導を受けるか、定評のある仏教書を読むことをおすすめします。
自分と他者の悩み苦しみの原因を減らす方向
何が正しいのかというのは手段が適切かどうかという言い方もできるでしょう。
目的が何なのかによって、手段が正しいかどうかが異なります。
仏教は、自分と他者の悩み苦しみを減らすことを目的にしています。
そのためには、悩み苦しみの原因を減らすことが正しい手段となります。
悩み苦しみの原因は、欲・怒り・怠け・プライド(エゴ)等の煩悩や、煩悩を刺激する妄想雑念(過去や未来や自分や他人についてあれこれ考えすぎること)です。
ですから、あなたが自分や他人の悩み苦しみを減らしたい場合には、妄想雑念に気をつけながら、欲・怒り・怠け・プライド等を弱める修行をすることが正しい生き方と言えます。
具体的には、慈悲喜捨の四無量心を大切にし、五戒(生活習慣の修行)をできるだけ守り、サマタ瞑想(精神集中の修行)とヴィパッサナー瞑想(身・受・心・法の現象を観察して真理を悟る修行)を実践すること、そして、布施(見返りを求めずに他人のためにプレゼントやサービスをすること)を心がけることです。
身体は不浄(実は綺麗じゃない)である、感受(眼耳鼻舌身意からの入力)は苦である、心は無常(瞬間ごとに変化している)である、法(頭であれこれ考えたこと)は無我である(幻みたいなものだ)と観察し、身受身法は執着に値しないものだと気付くことも大切です。
そのような生活をすれば功徳(善い癖がついて悟りやすくなる)が積もるのです。
反対に、例えば怒りにまかせた言動は罪業(悪い癖がついて悟りにくくなる)になります。
ということで、自他の悩み苦しみを減らしたいのであれば、短期的にも長期的にも怒りやエゴを減らす方が正しいのです。
怒りはあなた自身のストレスの原因になるので、怒りを刺激する妄想雑念を1秒で止められればストレスは1秒分、1時間長引けばストレスは1時間分になりますね。
ストレス、減らしたいでしょう?
ご相談ありがとうございます。
文章を拝見しながら、とても真摯にご自身と向き合っておられる方だなと感じました。
相談支援専門員や行政の相談員という仕事は、人と人との間に立ち、様々な思いや事情を受け止めながら支援を行う仕事です。時には理不尽な要求を受けたり、感情をぶつけられたりすることもあるでしょう。その中で、自分自身を見失わないために仏教に学び、「自分は無力な存在である」「相手にも良いところがある」「まずは受容する」といった姿勢を実践してこられたことは、本当に尊いことだと思います。
ただ、その中で「いつもニコニコして、人間関係を円滑に進めるだけでよいのだろうか」「怒ることや自分の主張を通すことは仏教的に間違っているのだろうか」という疑問が生まれてきた。私は、その疑問が生まれたこと自体が大切なのだと思います。
仏教は決して「怒ってはいけない教え」ではありません。むしろ、自分の心をよく観察し、その怒りがどこから生まれているのかを見つめる教えです。
例えば、「自分の思い通りにならないから腹が立つ」という怒りもあります。一方で、「この人を放っておくと本人や周囲が傷ついてしまう」という思いから生まれる厳しい言葉もあります。
外から見ればどちらも同じ「怒っている姿」に見えるかもしれません。しかし、その根底にあるものは大きく異なります。
親鸞聖人も決して何でも受け入れるだけの方ではありませんでした。時には厳しい言葉で人々の誤りを指摘されています。大切なのは、相手を打ち負かしたいのか、それとも相手のためを思って伝えるのかという違いではないでしょうか。
また、「エゴを持ってはいけない」と考えすぎる必要もないと思います。私たちは皆、人間です。自分の考えもありますし、譲れない価値観もあります。むしろ相談支援の現場では、利用者さんの権利や安全を守るために、時には毅然とした態度を取ることも必要でしょう。
仏教が目指すのは、自分を消してしまうことではなく、自分の思いも相手の思いも大切にすることです。
ですから、「怒らない人」を目指すより、「怒りに振り回されない人」を目指す方が仏教的ではないかと思います。
あなたは以前のご自身よりも、相手を受け止める力を身につけられました。そして今度は、「受け止めること」と「伝えること」のバランスを学ぶ段階に来ているのではないでしょうか。
質問者からのお礼
井上大道様
回答ありがとうございます。
自力の考えの曹洞宗の場合、自分が無力な存在であると認めるという考えは無いのですね。
信頼できる僧侶の方を探す所から始めていきたいと思います。
百目鬼洋一様
回答ありがとうございます。
分かり易い例えでスッと入ってきました。
自分を含めて、自分中心に考えて行動をする事が多いと思います。
「怒ってはいけない」という事ばかりに囚われ過ぎて本質を見失っていました。
どの様な意志で行動をしているか?という部分を客観的に判断していきたいと思います。
願誉浄史様
回答ありがとうございます。
何故そうするのか?という事を見失い、自分の行動に制約を設けていました。
今後は、自分と他者の悩み苦しみを減らすという本来の目的に振り返り、悟りに到達できる様に努力していきたいと思います。
釋兼高様
回答ありがとうございます。
私の仕事について理解して頂きありがとうございます。
「親鸞聖人も決して何でも受け入れるだけの方ではありません」という部分、恥ずかしながら勉強不足で知りませんでした。
「自分を消した先に悟りがあるのかな?」などと勘違いをしていました。
今後は受容すべき部分・伝えるべき部分のバランスを意識しながら支援していきたいと思います。
中田 三恵 様
回答ありがとうございます。
ルールやモラルなどに照らし合わせて「正しい」という事を突き通したいという「エゴ」があり、それにそぐわない行動をする方に対して怒りを感じています。
ただ、最近は「相手の事を考えて行動を正したい」のか、それとも「自分の思い通りに動かないから怒っている」のかが分からなくなってきました。
法的に問題がある事は論外ですが、個性として認めても良いのか…?など。
元々が重度心身障害者の担当だったのですが、最近になって精神障害・発達障害の方の支援にも関わる様になって、エンパワメントの視点については周囲からも十分注意して支援する様に!と言われています。
してはならない事に固執するのではなく、広い視点で考えられる様に勤めます。
「相談支援員としての努めと自分の生き方を分けて考える」というのは目から鱗でした。
常に仏の存在を意識し、良い意味で縛られた生き方をすべき!という様に固執していました。



午後から夜の時間帯は都合がつきやすいです。
◆こちらから、無理に聞き出すことは致しません。
言いにくいこと、言えない気持ちも大切にします。あなたのお気持ちのままに、ゆっくり待ちながら、その気持ちを大切に受け止めたいと思っています。
◆自死で大切な人を亡くされたり、死別により 死が受け入れられなかったり、心の整理がつかない方へ。30分ずつでも、オンラインで定期的に気持ちに向き合っていきませんか。吐露したり泣ける時間も、大事なグリーフケア 。
◆個別電話ってドキドキして勇気のいることだけれど、声が届くから、聞こえてくるから、ちゃんと繋がっているようで、そばにいるように安心出来ることもあります。
◆ 終末期ターミナルケア、看取り、希死念慮、自死、グリーフケア、トラウマ、PTSD、子育て、産前産後うつ、不妊、傾聴、手話、要約筆記者 としても、サポート
◆出来るだけ希望時間にお応えしたいと思いますが、午前中は毎日 法務があります。
(相談は、hasunohaオンライン相談より受付下さい。お寺へのいきなりの電話相談は受けていません。法務が優先なので)
◆一人で悩まないで。待っていますね(﹡´◡`﹡ )