回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
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「未在」 己、未だ悟りに至らず!
悟りはある!のでしょうけど未だ私も悟らずまた悟った僧侶と出会った事がありません。
禅僧には「未在」という悟りへの心構えがあります。
これは禅僧だけでなく人の一つの道を目指す者の心でもあります。
(未在)みざい
僧侶は死ぬまで修行の世界で、それを「未在」と言い「まだまだ学ぶべきことがある」という意味です。 一度は悟りを得ても、さらなる悟りがあるものなのです。
もうこれで十分だ、自分には学ぶことはもうない・・・と思うのは、大きな勘違いであり「うぬぼれ」なのです。どんな道でも極めることは難しいものです。 しかしもう学ぶことはない、と思った時点でその人の成長は止まってしまいます。「未在」は僧侶ばかりでなく、いかなる人に於いても学ぶことに終わりはないのです。これでもう十分、学ぶことはないなどと思えば真実に至ることはありません。常に己を見つめながら「未在・未在・さらに修行」 一生修行であり、一生学びであり、一生現役なのです。「驕(おご)る事なかれ、高(たか)ぶる事なかれ」まだまだやることばかりなのです。
悟りはあります。ただ仏教業界では本物が評価されないだけ。
そもそも、このhasunohaで爆回答してきたのは何故かといえば日本仏教にもちゃんと悟りがあることを広めたかったからです。
それはある僧侶の存在を世に知ってほしいだけです。
井上貫道老師という方です。
ついに最近ようやく本が出ました。
動画もありますが、直接坐禅会に参加してみてください。
https://www.youtube.com/watch?v=GodG42DEYgE
現在、毎月静岡から招かれて恵比寿福昌寺、中野坂上成願寺で法座を開かれておられます。
この老師は曹洞宗で印可もお持ちで悟りを得られている本物です。
曹洞宗で悟っている僧侶は誰か、を探しますと必ず井上貫道老師に行きつきます。
悟りは人が悟ってたってしょうがないのです。
自分が自分の生老病死苦などの四苦八苦、貪瞋痴を解決することが仏教。
そのためには悟りが必要。
井上老師は埼玉県の住職研修会でも異例の9年連続で講師として招かれ、悟りの勉強会が開かれています。
実際、僧侶たちも悟りを信じていなかった僧侶たちが変わっていきました。
秘蔵DVD・音源あり。欲しい方はSDカードを当山まで返信封筒付きで送ってください。
音源を送ります。同じ老師が9年。何故でしょうか。そのくらい悟っている正師はいないのです。
いくら悟っていると本人が豪語しても「人を悟らせないと」悟っているとは言えません。
老師のもとでは僧俗問わず多くの方が見性されています。
坐禅会で直接質問をぶつけて確認されるとよいでしょう。
仏教界で悟りを否定する僧が多い理由は自分たちが悟っていないため悟っている僧が居たら困るからです。
本物を恐れる心理があるのです。
日本の僧の大半はたまたま寺に生まれただけのテラノムスコという僧。
菩提心・道心が薄いため、悟りを求めるどころではない親が師の僧が多い。
業界で作法等を修練したらすぐに寺という家庭に入る。
とても修行どころではない。
やがて組織内の職業僧侶化する。
私もかつてそうでした。
ゆえに業界でもトップや指導職に悟っている僧侶は稀です。
人脈・コネ・政治力や広告力のある僧が要職に就きます。
どこの宗派も似たようなものです。
いくら一宗の管長と言われる立派な人だって悟ってなけりゃ、ただのオッサンです。
ぜひ悟りのある仏教を求めてください。
悟りも空であり縁起なるもの
川口英俊でございます。問いへの拙生のお答えでございます。
「悟り」とは、最高の境地のことになりますが、その境地へと至るための因縁(原因や条件)によって、もちろん至れることになるかと存じます。
ですので、悟りは、あるにはあると思いますが、「実体」として、はじめから「これが悟りだ」というものとしてあるわけではなく、しかるべき因縁によっての結果として、あり得ることになる様相のこととなります。
では、その因縁とは何かとなれば、因は、「菩提心」(悟りを目指すための強い志)、縁は、「智慧」(空性の理解)と「福徳(功徳行・方便行)」を積むこととなります。
悟っているお坊さん・・
悟りを開いた者同士でなければ、分からないのではないかとは思います。
仏教における最高真理としての勝義諦の理解というものは、言語道断、戯論寂滅と申しまして、なかなか言葉などで表現するというのも難しいところがございますし。
私たち凡夫ではなかなか伺えないところとなります。ただ、悟った者同士であれば、お互い自由自在に察せられるのではないかとは思われます。
つまり、自分自身が悟りを開くまでは、誰が悟りを開いているのかは、正直分からないという感じになりますかね。
とにかく、まずは悟りへ向けて、しっかりと仏道を歩んで参りたいものでございます。
川口英俊 合掌
煩悩がなくなるのが悟り
悩み苦しみの原因は煩悩です。
煩悩には、大きく十種類あるそうです。
悟りとは、十種類の煩悩が順番に消えてゆくことではないでしょうか。
煩悩はいっぺんに全部は消えずに、段階的に消えてゆくので、悟りにも段階(4段階)があると言われています。
たとえば、悟りの第一段階(預流果)では、有身見・疑・戒禁取見という三つの煩悩が消えるそうです。
私は、煩悩のリストは悟りのリストの裏返しと思っています。
怒りという煩悩があるなら、怒りが無くなるという悟りが裏側にあるはずなのです。
お釈迦様(ブッダ)は、十種類の煩悩すべてを克服され、あらゆる悩み苦しみから解放されたのです。
お釈迦様のいた時代は、たくさんの人がお釈迦様の指導で悟りました。
しかし、現在はなかなか悟るのが難しい社会かも。
私は、せめて来世では悟れたらよいなと思って、この世は来世の悟りのための準備期間だと思っております。
なお、実際に他人が悟っているかは判断が難しいです。
しかし、悟ることは理論上可能だと信じる(納得する)のが仏教徒だと言えます。
悟りはあります。
初めまして!
悟りってあるんですが…浄土真宗では「私」は生きているうちは悟りを得られないとお話させて頂きます。
なぜなら、欲を捨てきれない私には、どんな修行も満足にできないし達成出来ないから。
悟り=覚者=縁起が理解出来る=物事の全てが分かる=仏…と学びます。
物事を正しく理解するというのは難しいことで、例えばゲド戦記をご存じですか?
ジブリの映画で言うと、冒頭シーンです。
荒れ狂う海を沈めようとするのですが出来ない…「まことの名が分からない」から、海に言葉が伝わらないんです。
私が、テレビと呼んでいる物は人がつけた名前です。これを仏様がみたら、全てを理解する人がみたら「電力プラズマ光の三原色なんちゃら」みたいなながーい名前になるのだろうなと、私は悪い頭で考えたりします(笑)
人をみただけで、過去現在未來が見通せ、悪いところや、自分でも分かっていないトラウマやら全部分かるから会話もしなくていい。
浄土真宗では、生きている間は欲から離れられないので亡くなった時、阿弥陀様という仏様が自分が作った浄土という場所へ迎えてくれて、智恵と慈悲を持たせてくれます。
修行した徳を私に下さる…徳弁当を作ってくれて、私が食べると私の栄養になる…砕けて言うとそんな感じです。
だから、もし生き仏がいたら大ニュースです。
キリスト復活くらいの大ニュース!
しかし自力修行される宗派の高僧(昨年だったか千日回峰行されたお坊様がいらっしゃいましたね)になると、やっぱり違うらしいです。
現実を見つめ、受け入れ、間違えを認めることや正しさを伝える言葉の選び方が「一般人では言えない」らしいですよ。
浄土真宗の先生から聞いた話ですが、私もあってみたいです。
その点で阿羅漢(尊敬する修行者)は存在すると言えるかと思います。
急に馬鹿げた回答になり申し訳ないです。
質問者からのお礼
お二人ともあるという意見ですね。うーんまだ自分は半信半疑です。
悟ってないお坊さんが多いから、お茶を濁したようなことを言うんですね。
井上貫道老師をgoogleで調べてみます。