般若心経のことでお尋ねします
般若心経に「不生不滅、不垢不浄、不増不減」とありますが、
生じることもなく、滅することもなく、汚くもきれいなものでもない、減りも増えもしないものとは、具体的に何のことを言っているのですか?
教えて下さい。宜しくお願いいたします。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
観念的であるか、事実的であるかの違いです。
ある哲学者は「はじめに言葉ありき」と言いました。
それは間違いで「はじめに事実ありき」なのです。
人間の究極的実質は今のことだけ。
はじめに言葉ありき人間は、考えの上でしか生きません。
はじめに事実ありき人間=仏陀=悟りビジョンになると、今のことしかありません。だから変化、生滅、過去未来がなくなって心が安穏なのです。左脳的考えの取扱いがなくなるからです。
通常、私たちはものごとを観る時、考え、観念というフィルターを通して観ています。
だから生滅や増減や浄穢など、心の中に得失が生まれてくるのです。
それは私的に、基準を立てて、そこから考えの上での比較を論じているだけ。
生滅、増減、浄穢の世界というのは、考えで物事を取り扱っている実質的事実ではない精神のカスカス世界です。
言葉や評価など考えの前に「事実の世界」があるということを体得してみてください。
今の事実を生きるだけになると、良く意味が分かりますよ。(^<^)
人間が坐禅をする必要性があるのは、こういった物事に対する判断や評価など、物事に対する取扱以前の世界に目覚めることができるからです。(まぁ多くの人は考え事で終わりますが)
坐禅によって考えの世界から離れた世界に処すると、般若心経はまさにその通りのことしか書いていません。
不生不滅
観念を絶した心である時、心には何かが生じることも滅することも無い。
あるのは事実ばかりであって、前の事はどこにもない。人間的な評価、判断が入り込む余地なき世界を生きているからである。
不垢不浄
また、今の事実だけを生きている時は物事の汚れや浄まりも認知されない。
そもそも浄不浄、清濁浄穢の意識も人間の観念が生み出す世界でしかないからである。観念そのものから離れているゆえに、汚れる事も浄まることも無い。
不増不減
また、物事の増減も無い。観念を付随させない(空なる)心の状態であるが故に、何を見るにしても聞くにしても、自己はいつでも真新しい世界にいる。
この心身はいつでも今っぱなしの事実と共にある。
そこには増減、生死、善悪、是非の見解が加わる以前の状態。たとえば、ハシゴで高い所に登っていると余計な事を考えていられません。目の前の事をやるだけです。そこには高低、進む退くも増減もありません。
般若心経の中身は、あくまでも悟りの目から観た世界です
般若心経は「是(コ)の諸法は空相(クウソウ)にして不生不滅、不垢不浄、不増不減なり」と説いています。
貴方様の疑問はもっともですが、そもそも、ここで言う「諸法」とは、私たちが日常生活で見聞きする現象世界そのものではありません。あくまでも観音菩薩の深い瞑想にあって〈空(クウ)〉であると観られた世界を示しています。すべては因と縁によって仮そめに存在しているだけであり、本も、猫も、自分もここにあって、ここにいますが、空の目から観れば独立して存在するものとしては、何一つありません。〈不在〉なのです。
なので、本や猫や自分と呼ばれるものの究極的ありようは、生じる何ものかでも、滅する何ものかでも、垢れている何ものかでも、浄らかな何ものかでも、増える何ものかでも〈ない〉というしかありません。
ダライ・ラマ法王は、凡夫の目にとらえられる現象世界において、因と縁によって生じ、滅し、垢れ、清浄らかで、増し、減る状況を「世俗の真理」とされました。確かにそう見え、確かめられているから「真理」です。しかし、それは、それにとらわれて一喜一憂する凡夫の世界の真理でしかありません。
現象世界のありようを根源からつかんだ観音菩薩の目に映り耳に聞こえる世界(般若心経の中身です)はただただ、空であり、それを「究極の真理」と言います。
だから、この一文は、究極の真理として現れているこの世の諸々のものはすべて、あえて言葉にすれば〈~でない〉と表現するしかないことを意味しています。凡夫の目には生じており、滅していますが、同じ世界が観音様の目には、そのままにして、空なのです。
ポイントは、一つの世界が、凡夫の目には「世俗的に」とらえられ、観音様の目には「究極的に」とらえられるという二面性にあります。
どうぞ、お励みください。
世の中すべて
具体的に何か、、、ではなく、こだわりが無くなれば、世の中すべてがそのようなものだとわかる、ということです。
氷が解けると水になり、やがて水蒸気になりますが、水という分子がどこか別の世界に行ってしまった訳ではありません。急須にあるときは美味しいお茶だったのに、流しの三角コーナーに入るとあっというまにゴミになります。しかし、そのお茶っぱがきれいになったり汚れたりしているのではありません。すべては我々の偏ったものの見方やこだわりが原因となっているのだから、それから解き放たれましょう、そんな意味だと私は理解しています。
般若心経の現代語訳はいろんな方が書いていらっしゃいますので、書店で手に取るか、インターネットなどで調べてみるといいかもしれません。
理論で解ろうとしないでください。
もし、解らないと思う所があるのであれば、
貴女の人生の間に、何度でも般若心経をお唱えしてください。
長い人生の中で、(それぞれのキャパシティに応じて)きっと解った!と思える時が来るかもしれません。
しかし、理論で上っ面を解ろうとしても決して解る事はないと思います。
(質問者へと言うよりはむしろ、この問答を見る他の方への危惧から書かせて頂きました)
般若心経における「無」や「不」の否定辞の意味するところ
いずみ様
川口英俊でございます。問いへの拙生のお答えでございます。
「不生不滅 不垢不浄 不増不減」の前に「是諸法空相」とございますが、この世の諸存在のありよう、モノ・コトのありようは、「空」であると述べられています。
この「空」のありようを示唆するために般若心経では数々の「無」や「不」の否定辞が使われますが、それは、つまり、「実体の否定」ということでもございます。
「実体」(自性・自相)とは、永遠永久に変わらないモノ・コト、独立自存にて成り立っているモノ・コト、何ら原因や条件も経ずにして生じる、あるいは何ら原因や条件を経ずにして滅するモノ・コトのことを申しますが、そのようなモノ・コトは無い、あり得ないと言うことを示すために使われているのが般若心経の「無」や「不」の否定辞となります。
「般若心経」のことにつきましては、これまでにも下記の各問いにてお答えさせて頂いて参りました。
http://blog.livedoor.jp/hasunoha_kawaguchi/tag/般若心経
「不生不滅」につきましては、これまでにも下記の各問いにて扱わせて頂いております。
http://blog.livedoor.jp/hasunoha_kawaguchi/tag/不生不滅
そこで、よく間違われてしまいますが、般若心経における「無」や「不」の否定辞の強さに流されて、何も無いんだとして、絶無・虚無に陥ってしまってはいけません。確かにモノ・コトは存在しています。貴女も私も確かに存在しています。しかし、その存在のありようはどのようなものであるのかを考えることが大切なこととなります。その要諦が「空と縁起」ということになります。このことにつきましては、下記の問いの拙回答も少しくご参照下さいませ。
問い「生きること、死ぬこと、どっちが辛いのか」
http://blog.livedoor.jp/hasunoha_kawaguchi/archives/1002992500.html
※「縁起」の理解では、主に三つの階層が考えられ、第一に、「原因・条件と結果との依存関係」、第二に「部分と全体との依存関係」、第三に、「意識作用・概念作用・思惟分別作用により、仮名・仮説・仮設されることによるという依存関係」がございます。
川口英俊 合掌
質問者からのお礼
お答えくださった方々、ありがとうございました。
「不生不滅、不垢不浄、不増不減」とはわたしは自分自身のこと、わたしの命の説明とおもっています。
本をよんでも説明、解説、自分の言葉にはどれも感じられませんでした。
生きた和尚さんに聞いてみたいと思い、質問させて頂きました。
わたしとは、始まりも終わりもない、良いも悪いもない、きれいも汚いもない、増えも減りもしない
何一つ損なわれるものは無い、人間ですらない、今の様子のみ、今の様子そのもの、部分であってすべて、今であって永遠、迷いも悟りも言葉が異なるだけ、同じこと。わたしは観音さまではないけど、そう感じます。
わたしは正直思います。人は自分の本当の姿、力を知らないがために苦しんでいる。人は神さまのように
創造している、何もかも造りだしている。三界唯一心、三界唯心造。
仏教はひとを救えると本当に思っていますか?
わたしは思っています。仏教は完璧だと。キリストもイスラムも道教も神道も同じと思っています。
安穏寺さんありがとうございました。
お住まいの地域から、井上義衍さんと御縁があったのでしょうか?
違うかもしれませんが・・・
>言葉や評価など考えの前に「事実の世界」があるということを体得してみてください。
>今の事実を生きるだけになると、良く意味が分かりますよ。(^<^)
良くわかります。
朝から晩まで「南無阿弥陀仏」を言いつづけ、考えの隙間から一瞥できたと思います。
指一本ですべて説きつくせると思いますし、針の穴でも鍵の穴でも誰でも通れると思います。
書いて下さったこと、おっしゃる通りだと思います。
安穏寺さんのようにわかってしまった一般の人は沢山います。本当です。
やはりお坊さんが伝えるのが一番信頼もされていますし、一番伝わると感じます。
(一般の人は変わり者と思われるだけで終わります。なかなか伝わりません。)
どうぞ大切な内容沢山の人にお伝えください。
宜しくお願い致します。
安穏寺さんはお坊さんの中では貴重な方ではないかと感じます。(絶滅危惧種)
ふざけているのではありません。
本当に応援させて頂きたい気持ちで申し上げています。
ありがとうございました。
皆様ありがとうございます。
世界はそれぞれちがいますね。
危惧されてしまうとは思いませんでした。(笑)
変な人、不愉快な人、そう思われるかもしれませんね。
ごめんなさい。
お葬式での最低の戒名で50万円、お通夜の席で50万円の寄付の未納の催促、
わたしはどっかおかしいと、こころから思います。
ここのかたはみなさん、まじめなすばらしいかたと思います。
でも信じられないお寺もあります。
私のなかには、許せぬものがあります。