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般若心経のことでお尋ねします

回答数回答 5
有り難し有り難し 36

般若心経に「不生不滅、不垢不浄、不増不減」とありますが、
生じることもなく、滅することもなく、汚くもきれいなものでもない、減りも増えもしないものとは、具体的に何のことを言っているのですか?
教えて下さい。宜しくお願いいたします。

2014年12月18日 12:57

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お坊さんからの回答 5件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

観念的であるか、事実的であるかの違いです。

ある哲学者は「はじめに言葉ありき」と言いました。
それは間違いで「はじめに事実ありき」なのです。
人間の究極的実質は今のことだけ。
はじめに言葉ありき人間は、考えの上でしか生きません。
はじめに事実ありき人間=仏陀=悟りビジョンになると、今のことしかありません。だから変化、生滅、過去未来がなくなって心が安穏なのです。左脳的考えの取扱いがなくなるからです。
通常、私たちはものごとを観る時、考え、観念というフィルターを通して観ています。
だから生滅や増減や浄穢など、心の中に得失が生まれてくるのです。
それは私的に、基準を立てて、そこから考えの上での比較を論じているだけ。
生滅、増減、浄穢の世界というのは、考えで物事を取り扱っている実質的事実ではない精神のカスカス世界です。
言葉や評価など考えの前に「事実の世界」があるということを体得してみてください。
今の事実を生きるだけになると、良く意味が分かりますよ。(^

2014年12月27日 22:39
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有り難し
おきもち

丹下覚元(たんげかくげん)
お悩み相談 ❝あなたの悩みという荷物をおろしてみませんか?❞ 「お寺で...

般若心経の中身は、あくまでも悟りの目から観た世界です

般若心経は「是(コ)の諸法は空相(クウソウ)にして不生不滅、不垢不浄、不増不減なり」と説いています。
貴方様の疑問はもっともですが、そもそも、ここで言う「諸法」とは、私たちが日常生活で見聞きする現象世界そのものではありません。あくまでも観音菩薩の深い瞑想にあって〈空(クウ)〉であると観られた世界を示しています。すべては因と縁によって仮そめに存在しているだけであり、本も、猫も、自分もここにあって、ここにいますが、空の目から観れば独立して存在するものとしては、何一つありません。〈不在〉なのです。
なので、本や猫や自分と呼ばれるものの究極的ありようは、生じる何ものかでも、滅する何ものかでも、垢れている何ものかでも、浄らかな何ものかでも、増える何ものかでも〈ない〉というしかありません。
ダライ・ラマ法王は、凡夫の目にとらえられる現象世界において、因と縁によって生じ、滅し、垢れ、清浄らかで、増し、減る状況を「世俗の真理」とされました。確かにそう見え、確かめられているから「真理」です。しかし、それは、それにとらわれて一喜一憂する凡夫の世界の真理でしかありません。
現象世界のありようを根源からつかんだ観音菩薩の目に映り耳に聞こえる世界(般若心経の中身です)はただただ、空であり、それを「究極の真理」と言います。
だから、この一文は、究極の真理として現れているこの世の諸々のものはすべて、あえて言葉にすれば〈~でない〉と表現するしかないことを意味しています。凡夫の目には生じており、滅していますが、同じ世界が観音様の目には、そのままにして、空なのです。
ポイントは、一つの世界が、凡夫の目には「世俗的に」とらえられ、観音様の目には「究極的に」とらえられるという二面性にあります。
どうぞ、お励みください。

2014年12月18日 17:33
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有り難し
おきもち

世の中すべて

具体的に何か、、、ではなく、こだわりが無くなれば、世の中すべてがそのようなものだとわかる、ということです。

氷が解けると水になり、やがて水蒸気になりますが、水という分子がどこか別の世界に行ってしまった訳ではありません。急須にあるときは美味しいお茶だったのに、流しの三角コーナーに入るとあっというまにゴミになります。しかし、そのお茶っぱがきれいになったり汚れたりしているのではありません。すべては我々の偏ったものの見方やこだわりが原因となっているのだから、それから解き放たれましょう、そんな意味だと私は理解しています。

般若心経の現代語訳はいろんな方が書いていらっしゃいますので、書店で手に取るか、インターネットなどで調べてみるといいかもしれません。

2014年12月18日 16:54
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有り難し
おきもち

住職のかたわら、大道芸人PRINCOちゃんとして幼稚園保育園など各種施設、...

般若心経における「無」や「不」の否定辞の意味するところ

いずみ様

川口英俊でございます。問いへの拙生のお答えでございます。

「不生不滅 不垢不浄 不増不減」の前に「是諸法空相」とございますが、この世の諸存在のありよう、モノ・コトのありようは、「空」であると述べられています。

この「空」のありようを示唆するために般若心経では数々の「無」や「不」の否定辞が使われますが、それは、つまり、「実体の否定」ということでもございます。

「実体」(自性・自相)とは、永遠永久に変わらないモノ・コト、独立自存にて成り立っているモノ・コト、何ら原因や条件も経ずにして生じる、あるいは何ら原因や条件を経ずにして滅するモノ・コトのことを申しますが、そのようなモノ・コトは無い、あり得ないと言うことを示すために使われているのが般若心経の「無」や「不」の否定辞となります。

「般若心経」のことにつきましては、これまでにも下記の各問いにてお答えさせて頂いて参りました。
http://blog.livedoor.jp/hasunoha_kawaguchi/tag/般若心経

「不生不滅」につきましては、これまでにも下記の各問いにて扱わせて頂いております。
http://blog.livedoor.jp/hasunoha_kawaguchi/tag/不生不滅

そこで、よく間違われてしまいますが、般若心経における「無」や「不」の否定辞の強さに流されて、何も無いんだとして、絶無・虚無に陥ってしまってはいけません。確かにモノ・コトは存在しています。貴女も私も確かに存在しています。しかし、その存在のありようはどのようなものであるのかを考えることが大切なこととなります。その要諦が「空と縁起」ということになります。このことにつきましては、下記の問いの拙回答も少しくご参照下さいませ。

問い「生きること、死ぬこと、どっちが辛いのか」
http://blog.livedoor.jp/hasunoha_kawaguchi/archives/1002992500.html

※「縁起」の理解では、主に三つの階層が考えられ、第一に、「原因・条件と結果との依存関係」、第二に「部分と全体との依存関係」、第三に、「意識作用・概念作用・思惟分別作用により、仮名・仮説・仮設されることによるという依存関係」がございます。

川口英俊 合掌

2014年12月31日 6:45
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有り難し
おきもち

川口 英俊
「僧侶は、悩む人に正しいくすりを調剤できる薬剤師であれ」 http:...

理論で解ろうとしないでください。

もし、解らないと思う所があるのであれば、

貴女の人生の間に、何度でも般若心経をお唱えしてください。
長い人生の中で、(それぞれのキャパシティに応じて)きっと解った!と思える時が来るかもしれません。

しかし、理論で上っ面を解ろうとしても決して解る事はないと思います。

(質問者へと言うよりはむしろ、この問答を見る他の方への危惧から書かせて頂きました)

2015年1月9日 13:45
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有り難し
おきもち

仏道に入門して30年が経ちました。 死ぬまで修行を続けるのがお坊さん...

質問者からのお礼

お答えくださった方々、ありがとうございました。

「不生不滅、不垢不浄、不増不減」とはわたしは自分自身のこと、わたしの命の説明とおもっています。
本をよんでも説明、解説、自分の言葉にはどれも感じられませんでした。
生きた和尚さんに聞いてみたいと思い、質問させて頂きました。
わたしとは、始まりも終わりもない、良いも悪いもない、きれいも汚いもない、増えも減りもしない
何一つ損なわれるものは無い、人間ですらない、今の様子のみ、今の様子そのもの、部分であってすべて、今であって永遠、迷いも悟りも言葉が異なるだけ、同じこと。わたしは観音さまではないけど、そう感じます。
わたしは正直思います。人は自分の本当の姿、力を知らないがために苦しんでいる。人は神さまのように
創造している、何もかも造りだしている。三界唯一心、三界唯心造。

仏教はひとを救えると本当に思っていますか?

わたしは思っています。仏教は完璧だと。キリストもイスラムも道教も神道も同じと思っています。

安穏寺さんありがとうございました。
お住まいの地域から、井上義衍さんと御縁があったのでしょうか?
違うかもしれませんが・・・

>言葉や評価など考えの前に「事実の世界」があるということを体得してみてください。
>今の事実を生きるだけになると、良く意味が分かりますよ。(^

皆様ありがとうございます。
世界はそれぞれちがいますね。
危惧されてしまうとは思いませんでした。(笑)
変な人、不愉快な人、そう思われるかもしれませんね。
ごめんなさい。
お葬式での最低の戒名で50万円、お通夜の席で50万円の寄付の未納の催促、
わたしはどっかおかしいと、こころから思います。
ここのかたはみなさん、まじめなすばらしいかたと思います。
でも信じられないお寺もあります。
私のなかには、許せぬものがあります。

「般若心経」問答一覧

般若心経とキーマカレー

いつもお世話になっております。 ここのところ、仕事の関係で4時半起きが続いています。 窓を開け放ち、心地よい朝の風を感じ、薄暗い朝が明けてゆく風景。 お日様が上ったら手を合わすととても気持ちがいいです。 毎朝、雀にパンや米粒をあげていたら、網戸を開ける音で分かるのか、どこからか数羽やってきて、チュンチュンと催促をするのが何とも可愛らしくて。 仕事に行く前に最低限のニュースだけ観てゴシップ系が始まったらTVを消す。 あーだのこーだの余計な情報は要らないのです・・・。 毎日拝読しているhasuhohaお坊さま方のご回答と、 繰り返し読んでいる一冊の禅宗老師の本が私の仏道の全てです。 こんな私も苦労はしています。いろいろあって給料は右から左。 でももう物欲もありません。すっきりとした感覚です。 一日一日、丁寧に過ごせて、ご飯食べれて、 みんなが安寧で過ごしていてくれたらそれで幸せです。 hasunohaの常連様方にも一喜一憂したり。 あー、帰ってきれくれた!(涙)とか。 でも、それはそれ。 このサイトに出逢わなかったら「人のしたことしなかったことを見ないで、自分がしたことしなかったことを見なさい」というお言葉を知らなかったかもしれません。 私にとっては、人生において非常に大きなお教え(教訓?)なのです。 さて本題ですが、この間キーマカレーを作っていたらトントントンという音に合わせて般若心経が何度も頭の中で流れてきました。 しんむーけーげーむーけーげーこー・・・この部分からばかりなのですが。 (何年か前までは普通にJ-POPが流れてましたが(笑)) 時々キッサコさんを聴いていた影響もあるのでしょうかね。 こんな時は流れに乗せて料理を作りながら唱えていたら良いのでしょうか?たぶん延々ですが・・・。 お盆前のお忙しい時節に、お気楽極まりない質問で大変恐縮です。 お手隙の時にお教えいただけると幸いです。 あ・・・仕事・体調不全・恋などに悩んでいる我が娘に、 「こだわりが過ぎると苦しみが大きくなるよ~」とメールしたら、「悪に対しては復讐しかない」と返事がきました。 囚われずに生きていければ少しは楽になるのになと思いながら娘の中にはまだまだマーラが住んでいるようです。 困ったものですが、流れにそってボチボチやっていきます。 (余談になっちゃいました。すみません。)

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回答数回答 1

般若心経の「無無明・亦無無明尽・・・」の部分について

こんにちは。 前回質問から、般若心経の「無無明・亦無無明尽・無老死・亦無老死尽」 の部分が、やはり気になってしまってるので質問させて頂きます。 この部分は十二縁起についての言及との事ですが、 十二縁起を乱暴ながら私なりに要約すると 根源的な無知(無明)→生存本能と外界知覚(行・識・名色・六処)→本能と分かち難く生じる煩悩(触・受・愛・取)→本能と煩悩で成り立つ生存(有)→生存する主体として「私」という想念が生じる(生)→「私」はいずれ死ぬ(老死) と、言う事でしょうか。 私の考えでは、この部分について般若心経は 「どんなに達観しても十二縁起の因果関係は断ち切り難い」 (「無」無明尽・「無」老死尽→否定としての「無」) けれども 「物事をありのままに見れば(空相にて照見すれば) 全てが、かけがえのない真実と分かる」 (「無」無明・「無」老死→空相、全体性としての「無」) と「無」と言う言葉が違った使われ方をしているように 思うのですが如何でしょうか? 字面通りに読めば「Aは無いけど、Aは尽き無い」と言う二律背反になり、 これでは意味の全く通らないナンセンス文章です。 この部分、般若心経を読む誰もが最初に「あれ?」と思う所ですが、 腑に落ちる説明をしている本がありません。(偉そうに言える程、 本は読んでないですが) 中には「十二縁起なんて形式にこだわるのは小乗仏教だ。 般若心経は大乗仏教だからそんなものに拘らない」 とバッサリ斬っている書籍もあります。 そんな単純なものでもないと思うのですが・・・ 解釈は色々あるかもしれませんが、お考えをお教え頂ければ幸いです。 何だかマニアックな質問になってしまいすいません。

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般若心経の「無」について

こんにちは。 般若心経の 「無色無受想行識・無眼耳鼻舌意・無色声香味触法」 の部分について疑問があるので質問します。 般若心経で「空」と言うと、単に「無い」とか 「虚しい」とか言うものではなく、 「縁起として存在し、固有の実体を持たず、執着の対象ではない」 と言う程度に私は認識しています。(間違っていたらご指摘ください) しかし「無」となると、どのように読めば良いのでしょうか? 「無」も「空」と同じようなものとして考えれば良いのでしょうか? 上記の部分について、字面通りに受け取ると 「すべての感覚器官と意識作用をシャットアウトせよ」 て言ってるようにも受け取れてしまいます。 もちろん、そんな単純な事ではないと思うのですが・・・ 「現実をそのままに見よ」と言うのが 仏教の基本的な考え方だと思うのですが、 「無」と言う字で表わされては「見るな、聞くな、・・・」と 言っているように思えてしまい、ひいては現実世界そのものを 否定しているようにも思えるのですが、 如何なものでしょうか? それとも、このように字面を捉えて理屈で考える事自体が 仏教の本質から遠ざかっているのでしょうか? 最近、毎日お唱えしている般若心経ですが、 上記の部分が妙に気になってしまうので質問しました。 ご教授頂ければ幸いです。

有り難し有り難し 59
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浄土真宗の父の墓前で般若心経を唱えても良いでしょうか?

私の家系は先祖代々浄土真宗です。 父は本家から独立して遠く離れた地域で家庭を持ち、近隣の浄土真宗のお寺の檀家になり、私たち子供と暮らしていました。 その父が数年前に他界したので新たにお墓を建てたのですが、近隣の浄土真宗のお寺(檀家となったお寺を含む)や無宗派の墓地に良いところ(空き区画や立地)が無く、色々考えた末に生前父が好きでよく登っていた山の中腹にある真言宗のお寺にお墓を建てました(浄土真宗のお墓を受け入れてくださる真言宗のお寺でした)。 ですので葬儀場で行ったお葬式や自宅での法事は浄土真宗のお坊さまに来ていただいてますが、お墓への納骨の際にはお墓のあるお寺の真言宗のお坊さまに真言宗のお経を読んでいただくことになりました。 私はこの縁で真言宗のお経に少し興味を持ち、今では般若心経を覚えて唱えることもできるようになりました。 ただ、家系的に浄土真宗ですので実際にお墓等で般若心経を唱えたことはありません(浄土真宗では般若心経を唱える必要がないとの教えを少し理解しています)。 今後も自宅の仏壇や法事では唱えるつもりは無いのですが、真言宗のお寺に建っている父の墓前で般若心経を唱えて良いのかを迷ってます。 実際に納骨の際には真言宗のお坊さまに真言宗のお経を唱えていただいた事実もあるのですが、浄土真宗家系の私は、それでも父の墓前で般若心経を唱えるべきでは無いのでしょうか? ご縁で真言宗のお寺にお墓を建てたことですし、父のためにもなるのであれば唱えたい気もしています。 どうかご教示頂けますようお願い致します。

有り難し有り難し 41
回答数回答 2

浄土真宗で唱えるお経 般若心経はダメ?

父方は浄土真宗、母方は浄土宗、当人はキリスト教カトリックという宗派宗教ごちゃ混ぜのからすたろうと申します。また、ご縁があり法相宗薬師寺に何度かお世話になっています。(ややこしくてごめんなさい。) 昨年、母方の祖父と父方の近い親戚が亡くなったことから仏教に興味を持ちはじめ 法相宗薬師寺にて少しながらご奉仕をさせていただいたりしています。 法相宗では般若心経を1日に何回も読経するので自分にとって般若心経は暗唱できるほど一番身近なお経です。奉讃文に 「神前にては寶の御經、佛前にては花の御經。 況して人間の爲には祈念祈禱の御經」(引用) とあるように祖父(浄土宗)の仏前では読経させていただいています。 さて、父方の仏前でも親戚一同からお前の読経は声が良い。染みる。なんて囃し立てられまして何度か般若心経読経させていただきました。 しかし、先日 浄土宗のお坊さんとお話ししていましたところ どうやら浄土真宗は般若心経と教えが違い般若心経は上げないと教えていただきました。父方の親戚の仏前にてお唱えしてしまったことを申し訳なく思っています。 ・やはり、浄土真宗の仏前にて般若心経をお唱えする事は避けたほうが良いのでしょうか? ・浄土真宗の仏前にてお唱えするときは何というお経が良いのでしょうか? ・浄土宗では南無阿弥陀仏を十念4+4+南無阿弥陀仏+南無阿弥陀ぶー とお唱えしますが、浄土真宗では「なんまんだぶ」と聞こえます。どのようにお唱えすれば良いのでしょうか。 長くなってしまいましたが3点、よろしくお願いいたします。

有り難し有り難し 28
回答数回答 3

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