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般若心経のことでお尋ねします

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般若心経に「不生不滅、不垢不浄、不増不減」とありますが、
生じることもなく、滅することもなく、汚くもきれいなものでもない、減りも増えもしないものとは、具体的に何のことを言っているのですか?
教えて下さい。宜しくお願いいたします。


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お坊さんからの回答 5件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

観念的であるか、事実的であるかの違いです。

ある哲学者は「はじめに言葉ありき」と言いました。
それは間違いで「はじめに事実ありき」なのです。
人間の究極的実質は今のことだけ。
はじめに言葉ありき人間は、考えの上でしか生きません。
はじめに事実ありき人間=仏陀=悟りビジョンになると、今のことしかありません。だから変化、生滅、過去未来がなくなって心が安穏なのです。左脳的考えの取扱いがなくなるからです。
通常、私たちはものごとを観る時、考え、観念というフィルターを通して観ています。
だから生滅や増減や浄穢など、心の中に得失が生まれてくるのです。
それは私的に、基準を立てて、そこから考えの上での比較を論じているだけ。
生滅、増減、浄穢の世界というのは、考えで物事を取り扱っている実質的事実ではない精神のカスカス世界です。
言葉や評価など考えの前に「事実の世界」があるということを体得してみてください。
今の事実を生きるだけになると、良く意味が分かりますよ。(^<^)

人間が坐禅をする必要性があるのは、こういった物事に対する判断や評価など、物事に対する取扱以前の世界に目覚めることができるからです。(まぁ多くの人は考え事で終わりますが)
坐禅によって考えの世界から離れた世界に処すると、般若心経はまさにその通りのことしか書いていません。
不生不滅
観念を絶した心である時、心には何かが生じることも滅することも無い。
あるのは事実ばかりであって、前の事はどこにもない。人間的な評価、判断が入り込む余地なき世界を生きているからである。
不垢不浄
また、今の事実だけを生きている時は物事の汚れや浄まりも認知されない。
そもそも浄不浄、清濁浄穢の意識も人間の観念が生み出す世界でしかないからである。観念そのものから離れているゆえに、汚れる事も浄まることも無い。
不増不減
また、物事の増減も無い。観念を付随させない(空なる)心の状態であるが故に、何を見るにしても聞くにしても、自己はいつでも真新しい世界にいる。

この心身はいつでも今っぱなしの事実と共にある。
そこには増減、生死、善悪、是非の見解が加わる以前の状態。たとえば、ハシゴで高い所に登っていると余計な事を考えていられません。目の前の事をやるだけです。そこには高低、進む退くも増減もありません。

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有り難し
おきもち

般若心経の中身は、あくまでも悟りの目から観た世界です

般若心経は「是(コ)の諸法は空相(クウソウ)にして不生不滅、不垢不浄、不増不減なり」と説いています。
貴方様の疑問はもっともですが、そもそも、ここで言う「諸法」とは、私たちが日常生活で見聞きする現象世界そのものではありません。あくまでも観音菩薩の深い瞑想にあって〈空(クウ)〉であると観られた世界を示しています。すべては因と縁によって仮そめに存在しているだけであり、本も、猫も、自分もここにあって、ここにいますが、空の目から観れば独立して存在するものとしては、何一つありません。〈不在〉なのです。
なので、本や猫や自分と呼ばれるものの究極的ありようは、生じる何ものかでも、滅する何ものかでも、垢れている何ものかでも、浄らかな何ものかでも、増える何ものかでも〈ない〉というしかありません。
ダライ・ラマ法王は、凡夫の目にとらえられる現象世界において、因と縁によって生じ、滅し、垢れ、清浄らかで、増し、減る状況を「世俗の真理」とされました。確かにそう見え、確かめられているから「真理」です。しかし、それは、それにとらわれて一喜一憂する凡夫の世界の真理でしかありません。
現象世界のありようを根源からつかんだ観音菩薩の目に映り耳に聞こえる世界(般若心経の中身です)はただただ、空であり、それを「究極の真理」と言います。
だから、この一文は、究極の真理として現れているこの世の諸々のものはすべて、あえて言葉にすれば〈~でない〉と表現するしかないことを意味しています。凡夫の目には生じており、滅していますが、同じ世界が観音様の目には、そのままにして、空なのです。
ポイントは、一つの世界が、凡夫の目には「世俗的に」とらえられ、観音様の目には「究極的に」とらえられるという二面性にあります。
どうぞ、お励みください。

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有り難し
おきもち

世の中すべて

具体的に何か、、、ではなく、こだわりが無くなれば、世の中すべてがそのようなものだとわかる、ということです。

氷が解けると水になり、やがて水蒸気になりますが、水という分子がどこか別の世界に行ってしまった訳ではありません。急須にあるときは美味しいお茶だったのに、流しの三角コーナーに入るとあっというまにゴミになります。しかし、そのお茶っぱがきれいになったり汚れたりしているのではありません。すべては我々の偏ったものの見方やこだわりが原因となっているのだから、それから解き放たれましょう、そんな意味だと私は理解しています。

般若心経の現代語訳はいろんな方が書いていらっしゃいますので、書店で手に取るか、インターネットなどで調べてみるといいかもしれません。

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おきもち

住職のかたわら、大道芸人PRINCOちゃんとして幼稚園保育園など各種施設、...
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理論で解ろうとしないでください。

もし、解らないと思う所があるのであれば、

貴女の人生の間に、何度でも般若心経をお唱えしてください。
長い人生の中で、(それぞれのキャパシティに応じて)きっと解った!と思える時が来るかもしれません。

しかし、理論で上っ面を解ろうとしても決して解る事はないと思います。

(質問者へと言うよりはむしろ、この問答を見る他の方への危惧から書かせて頂きました)

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おきもち

仏道に入門して39年が経ちました。 死ぬまで修行を続けるのがお坊さん...
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般若心経における「無」や「不」の否定辞の意味するところ

いずみ様

川口英俊でございます。問いへの拙生のお答えでございます。

「不生不滅 不垢不浄 不増不減」の前に「是諸法空相」とございますが、この世の諸存在のありよう、モノ・コトのありようは、「空」であると述べられています。

この「空」のありようを示唆するために般若心経では数々の「無」や「不」の否定辞が使われますが、それは、つまり、「実体の否定」ということでもございます。

「実体」(自性・自相)とは、永遠永久に変わらないモノ・コト、独立自存にて成り立っているモノ・コト、何ら原因や条件も経ずにして生じる、あるいは何ら原因や条件を経ずにして滅するモノ・コトのことを申しますが、そのようなモノ・コトは無い、あり得ないと言うことを示すために使われているのが般若心経の「無」や「不」の否定辞となります。

「般若心経」のことにつきましては、これまでにも下記の各問いにてお答えさせて頂いて参りました。
http://blog.livedoor.jp/hasunoha_kawaguchi/tag/般若心経

「不生不滅」につきましては、これまでにも下記の各問いにて扱わせて頂いております。
http://blog.livedoor.jp/hasunoha_kawaguchi/tag/不生不滅

そこで、よく間違われてしまいますが、般若心経における「無」や「不」の否定辞の強さに流されて、何も無いんだとして、絶無・虚無に陥ってしまってはいけません。確かにモノ・コトは存在しています。貴女も私も確かに存在しています。しかし、その存在のありようはどのようなものであるのかを考えることが大切なこととなります。その要諦が「空と縁起」ということになります。このことにつきましては、下記の問いの拙回答も少しくご参照下さいませ。

問い「生きること、死ぬこと、どっちが辛いのか」
http://blog.livedoor.jp/hasunoha_kawaguchi/archives/1002992500.html

※「縁起」の理解では、主に三つの階層が考えられ、第一に、「原因・条件と結果との依存関係」、第二に「部分と全体との依存関係」、第三に、「意識作用・概念作用・思惟分別作用により、仮名・仮説・仮設されることによるという依存関係」がございます。

川口英俊 合掌

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おきもち

Eishun Kawaguchi
最新の仏教論考はこちらでご覧頂くことができますが、公開、非公開は随時に判断...
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質問者からのお礼

お答えくださった方々、ありがとうございました。

「不生不滅、不垢不浄、不増不減」とはわたしは自分自身のこと、わたしの命の説明とおもっています。
本をよんでも説明、解説、自分の言葉にはどれも感じられませんでした。
生きた和尚さんに聞いてみたいと思い、質問させて頂きました。
わたしとは、始まりも終わりもない、良いも悪いもない、きれいも汚いもない、増えも減りもしない
何一つ損なわれるものは無い、人間ですらない、今の様子のみ、今の様子そのもの、部分であってすべて、今であって永遠、迷いも悟りも言葉が異なるだけ、同じこと。わたしは観音さまではないけど、そう感じます。
わたしは正直思います。人は自分の本当の姿、力を知らないがために苦しんでいる。人は神さまのように
創造している、何もかも造りだしている。三界唯一心、三界唯心造。

仏教はひとを救えると本当に思っていますか?

わたしは思っています。仏教は完璧だと。キリストもイスラムも道教も神道も同じと思っています。

安穏寺さんありがとうございました。
お住まいの地域から、井上義衍さんと御縁があったのでしょうか?
違うかもしれませんが・・・

>言葉や評価など考えの前に「事実の世界」があるということを体得してみてください。
>今の事実を生きるだけになると、良く意味が分かりますよ。(^<^)

良くわかります。
朝から晩まで「南無阿弥陀仏」を言いつづけ、考えの隙間から一瞥できたと思います。
指一本ですべて説きつくせると思いますし、針の穴でも鍵の穴でも誰でも通れると思います。

書いて下さったこと、おっしゃる通りだと思います。
安穏寺さんのようにわかってしまった一般の人は沢山います。本当です。
やはりお坊さんが伝えるのが一番信頼もされていますし、一番伝わると感じます。
(一般の人は変わり者と思われるだけで終わります。なかなか伝わりません。)
どうぞ大切な内容沢山の人にお伝えください。
宜しくお願い致します。
安穏寺さんはお坊さんの中では貴重な方ではないかと感じます。(絶滅危惧種)
ふざけているのではありません。
本当に応援させて頂きたい気持ちで申し上げています。
ありがとうございました。

皆様ありがとうございます。
世界はそれぞれちがいますね。
危惧されてしまうとは思いませんでした。(笑)
変な人、不愉快な人、そう思われるかもしれませんね。
ごめんなさい。
お葬式での最低の戒名で50万円、お通夜の席で50万円の寄付の未納の催促、
わたしはどっかおかしいと、こころから思います。
ここのかたはみなさん、まじめなすばらしいかたと思います。
でも信じられないお寺もあります。
私のなかには、許せぬものがあります。

「般若心経」問答一覧

般若心経(2)

 「舎利子 是諸法空相 不生不滅 不垢不浄 不増不減」   これが第二のキーフレーズです。  「諸法」について花山勝友先生は「この世の中のあらゆる存在や現象」と解釈されていますので「宇宙」と解釈するのが正しいと思います。  横道にそれますが、「空相」は「空の姿」ですから、それに対比する「実の姿」があっての「空相」です。  従って本来はその前に「是諸法実相 生滅 垢浄 増減」(諸行無常)があるべきです。  「如是我聞」は釈尊が弟子(比丘)に説教するのが大部分ですから、常識的な会話は無に近いです。だから重要な「輪廻転生」の話はほぼ皆無です。  ここでも「諸法実相」が省略されたのでしょう。  では「諸法空相」に戻って、ちっぽけな「色」(身体)の説明になぜ宇宙を持ち出さなければならないのか不思議です。ここがキーポイントです。  「空の姿」の宇宙は自然界で唯一「閉じた系」です。  「閉じた系」の有用性は、皆様も中学、高校時代に物理で教わったように、「エネルギー保存の法則」です。  同じ空相でも「閉じた系」でなければ、「不増不減」(一定量)とはなりません。だから「色空相」として説明できないから宇宙を持ち出したのです。 これで「空(空性)」が「エネルギー」であることが確定したのです。    「是故空中、無色、無受想行識 無眼耳鼻舌身意無色声香味触法 無眼界  乃至 無意識界、無無明 亦無無明尽 乃至、無老死、亦無老死尽、 無苦集滅道、 無智亦無得、以無所得故、菩提薩埵、依般若波羅蜜多故、心無罣礙、無罣礙故、無有恐怖、遠離一切顛倒夢想、究竟涅槃」  「是故空中」とあるので、諸法空相を受けて、宇宙全体をエネルギーと見做せば、総てが無になることを説明したに過ぎません。  以上が「色即是空 空即是色」に関する説明です。  明治時代以前迄は、釈尊が悟りを開いたとき「これは非常に高尚で誰も理解できないだろうと」と布教を諦め、「この喜びのうちに生涯を終えたい」と神通力を駆使して自殺をし、彼岸に渡って「梵天勧請」事件を経て、再び生き返り諸転法輪を回したほど、難解な内容でしたが、現代では教科書で学ぶほど、「般若心経」は科学的常識となったのです。

有り難し有り難し 4
回答数回答 1

般若心経(1)

 今更ですが、仏教の体系が「真理」として「般若経」、「真実」として「般若心経」、論理として「阿含経」でまとまっていると考えていますので、今度は「般若心経」の解釈を試みたいと思います。  「観自在菩薩」とは釈尊が如来になる前の尊称であると思います。  次の「行深般若波羅蜜多時」が菩薩が如来になった瞬間と考えられます。  「照見五蘊皆空 度一切苦厄」 がこの般若心経の結論です。即ち「空(正確には空性)」を発見して、悟りを開いたのです。  「舎利子 色不異空、空不異色、色即是空、空即是色」が第一のキーフレーズです。  「般若経」は「色即是空」だけですが、それは「真理」であって「色即是空、空即是色」が真実です。  色即是空の「空」が真実であれば、空即是色の「色」も真実です。しかし「空」と「色」は別物ですからこの「即是」は定性的な即是で、「物体」は総て「空」の集合体であるという意味です。  定量的にはそこに「縁起」が加わって「色」=「縁起」X「空」、「空」=「縁起」X「色」となります。  「色」は五蘊の中の身体です。身体はこの世限りの命ですから、科学の真実と一致するはずです。アインシュタインはe=mc^2の公式を発表し、広島、長崎の実験でこの公式が真実と確定されたのです。  e(空)=m(色)Xc^2(縁起)と対応します。  「受想行識亦復如是」  「受想行識」は通常総括して「心」と訳されてます。心も「空」で出来ているのです。

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無と空について

複雑な状況を抱えてしまい、何年か悩んでいます。詳しくはなしても分かりにくい、のと話したくない気持ちと話さない方がよいともアドバイスいただいたこともあります。自分の言ったことが原因で、人のうわさ話が原因ですが、それだけが問題ではありませんが、地域中にひろまり、仕事場にも影響を及ぼすようになり、うまくいかなくなり、悪意や馬鹿にされるだけでは終わらず、、嫉妬、妬みまでもかい、支障をきたすようになって困っています。 真実を打ち明けようと思っても、逆に悪くまわる可能性があるのと意味のないことに終わりそうなので、やめています。問題を解決するために般若心経や般若経などに興味をもち、無や空を行ずるようにこころがけています。しかし、無や空について、知識があまりなく、どう考えていってよいか分からず悩んででいます。以前、宗教に入っており、この世は現象世界だから、すべては実体のないものと教えていただきましたが、いざ問題がおこってしまうと現象としてほっといておいてよいはずがなく、どういう風に手をつけて解決しておいていいか分からずこまっています。現象を空と感じるとそこにいろいろな神様の守護がうけれるようなことを般若経には書いてありました。それから空を行ずることによって得られる功徳はかぎりないものだということも書いてありました。私も空を行して現象をすこしでもよいものにしていきたいのです。現実界で講じれる手段はしつくしたように感じることもあります。というかする手立てがあまりないのです。下手にかかわるとよけいひどく非難を受けたり、都合の悪い結果を招きそうな気がしています。自分を変えていきたいという願いも含めて、無と空をぎょうじていきたいです。 また、私は護摩をお寺にお願いしてやっていただいたこともあります。神社仏閣に参ることも好きで頻繁ではありませんが、参っています。困ったときには神社に参ってたよったこともあります。信仰を志したいとかもおもったことがあります。 般若経や般若心経に詳しいお坊さんがおられたらご回答をおねがいしたいです。無や空についてしりたいです。

有り難し有り難し 7
回答数回答 1

般若心経を学びたい

はじめまして、お世話になります。 私は看護師の主任をしています。 3月から毎日コロナ対応に追われています。 自分が感染するのではないかと言う不安にかられながら、スタッフの体調、メンタルに気を配ってきました。 ですが長引くコロナの蔓延にスタッフの体調が悪くなり仕事ができなくなったり、怒り不満不安をぶつけてくるスタッフがいたりと、色々なことが起こり自分自身が疲弊してしまいました。 そんな中、般若心経に出会いました。 もともと信仰に関心がなく、宗教といえば勧誘、お布施、入信しないと悪いことが起こる的なイメージが強かったのでなんとなく避けていました。 ですが般若心経に触れ、「全ては空である」 体、感情、もの、全ては空と言う考え方に何か 安心?安らぎのような物を感じました。 難しくて、わかったような?分からないような?全然理解できていないのですが、般若心経を読むと少し心が落ち着くのです。 早く般若心経を読みたい、学びたいと焦燥にかられ近くの高野山真言宗のお寺さんで般若心経の経本をさっと買ってきました。 もっと般若心経に触れたいのですが、私は独身で家に仏壇もなく檀家にはなれません。 調べたら入信の制度はないようで、もっと般若心経や仏教の教えについて深く学び、私の中に落とし込んでいきたいのですが術がわかりません。 お寺さんのホームページに月二回の読経会があるようなのですが、このコロナ渦の中医療従事者の私がお寺で他の皆様と一緒にお経をあげる、お話を拝聴するのは難しいです。 本当はお香の香りに包まれたお寺さんで、自分と向き合いながらお経を唱えてみたいのですが。 まだまだ続くであろうコロナと向き合うために どのように般若心経やお釈迦様の教えに触れ、 お経を唱えて行ったら良いか迷っています。 読み方も分からないのでyoutubeの読経に合わせ読んでみたり、文献やyoutubeで学ぶのが精一杯です。 何か良い方法はないでしょうか?

有り難し有り難し 45
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お坊さん達ではどう実態の話をしてますか

私は般若心経に影響を受けています。 ここに机があります。私達はこれが無いと知っています。誰かが、それは机でそこにあって、木で出来ていて茶色で硬いと言います。 私にも茶色に見えるし、ぶつければ私は痛いです。 でも、やっぱり茶色は無いし、机もないし、私も無いです。 それでも痛いのは嫌で、そこに机があると考えて生活します。でも、あらためて眺めると、やっぱり無いです。 強いて言えば、さっきまであった、と言うかなと思います。でも、無いから『さっき』と言うのもいま言ったけど変だと思っていて、さっきも無いんだけど強いて言えばにすぎず、とにかくいま、机は無いよ、と思います。 私達はそこに水色のティーカップが見えていて、私にも見えています。でも、無いし、としか言いようがないく、水色もない。強いて言えば、その子が自分を水色と思っているでしょう、私もそれを水色と思っています。でも、そこに水色は無いと私達は知っています。 私達は、と言ったのは、きっと同じ話をしていると思っていますが、お坊さん達の間では違うのか、聞きたいと思いました。どこかは違うと思います。 その子の水色が無いと知っていますが、その子が「私、水色でかわいいの」と言ったら、ああ、水色だよ、それにかわいいよ、と言うと思います。 私は無いです。神も無いと思っています。私がいたら神もいる、私が無いなら神も無いと考えています。両方ある、と両方ないのどっちかしかないと思い、ところで実際どっちも無いよねえ、と思います。お坊さんはこう言っていないと思いました。 目の前に、机があり、傍らにまた水色のティーカップが見える、でも私達はこれが無いとしか見えないと思います。 私は、ひょっとして自分は時間の話をしているのかなとよく思います。 時間の話であれば、さっきと呼ぶものもなく、今机があるという事も起きていません。 今そこにあるという概念がなく、この机に対して机があると言える事実はなく、とにかくえんえん無いんだが、と思ったり仏陀は荒唐無稽で精神世界に限った話をしたのでは無さそうに思ったりします。 あると思っていて、としか言いようがない机をまた見て、もう無いとしか見えないし、ところであらためてそこに机があると言ってみる必要あるんだろうか、言わなくていいと思う、と考えたりします。私は時間の話をしているのでしょうか。 お坊さん達は違う話をしていますか?

有り難し有り難し 55
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温かい気持ちになるお坊さん説法まとめ