死にたいと思いながら25年
初めて質問させていただきます。
私は死にたいと思いながら25年経ってしまいました。
毎日目が覚める度に『死にたい』と思い、幸せな時期は『幸せなうちに死にたい』、辛い時期は『辛い。もうヤダ死にたい』と考えてしまいます。
子供の頃からのことなので最早これが当たり前ですし、子供の頃や二十代前半の頃は何度か行動に起こした事もありましたが、いつも失敗してしまいます。
そうこうしているうちに無気力な大人になってしまったので、惰性で様々なものに依存しながらただ時間を過ごしています。
こんな事を言うのは不謹慎極まりないのは自覚してるので言葉にするのは初めてですが、自分で死ぬより、事故や事件、病気で死を迎えるのを待つ毎日です。
最近、死にたいと毎日思うことは異常だと認識しました。
僧侶の皆さんは死にたいと思うことはありますか?また、もし思うような時にはどうやってその思いを断ち切りますか?
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
誰でもありますよ
おそらく誰でも死にたいと思ったことがあると思います。
私も何度かありました。
ある時は、私が死んだら悲しむ人がいるから、大事な人を悲しませたくないから、との思いで死にませんでした。
また、仕事で大きな失敗をした時も死を考えました。しかし私が死んでも後任の人が同じ苦しみを受けるだろう。後任の人が私のように自死しても可哀想だから、ここは私が仕事の失敗にどのように対応すればいいのか見本を見せてやろう。と思い死ぬことを止めました。
周りの人の事を考えると死ねないものですね。
ところで、お釈迦様はこのように言われました。
「努力して生きるのは不死の道である。
怠けつつ生きるのは死の道である。
努力して生きる人は死ぬことがない。
怠けつつ生きる人はすでに死者に等しい。」
あなたは既に死んでいるのではないですか?
既に死んでいるのなら、これからは生きてください。
死ぬ自分とはいったい何か
愛梨様
川口英俊でございます。問いへの拙生のお答えでございます。
どうでしょう。それほどに「死」について考えられておられるのでしたら、もう一歩前へと進んで、仏教を学びながら、「自分とは何か」、「死とは何か」ということと共にモノ・コトの真理、真実のあり方について考えてみませんか。
仏教で説明される「無我」、「空」、「縁起」などの考えがヒントとなりますが、結局のところ、「自分」も「死」も、実体としてはあり得ないものとなります。
「自分が死ぬ」とは言っても、その「自分」も「死」も実体としてはあり得ていないのであります。
ただ、実体としてはあり得てはいませんが、「縁起」としてはあり得ていると考えることにはなります。
ですので、何もないという「絶無」・「虚無」ではありません。
そして、仏教の説く「不生不滅」や「不死」の境地とはいったい何か。
おそらく、今、現在、愛梨様が考えておられるような「死」ということも、「生」ということも、真なるあり方としてはとらえられてはいらっしゃらないのではないかと存じます。
転倒したモノの見方でとらわれを起こされてしまわれている可能性もございます。
是非、まず転倒したモノの見方を仏教を学び進めることで、少しずつ正しいモノの見方ができるようにと調えて参りましょう。
「死にたい」と更に思われるのも、それからでも構わないのではないかと存じます。
是非、共に正しいモノの見方ができていけるように、仏教の修習に頑張って取り組んで参りましょう。
川口英俊 合掌